【40】甘い甘い詐欺 (エッセイ・自伝)
毎年、4月くらいになると見掛ける天敵がいる。
「甘夏」
と言う名前に反し、
その、名前に対して忠実たらん、とする様な、如何程も努力の気配さえ見えずに、大凡に於いて紳士的とは思えない、その、粗野で野蛮な酸味。その、丸くなると言う事を知らないみたいな、奔放な酸っぱさ。
最近は、「振り込め詐欺」だの、「オレオレ詐欺」だのと、何らかの詐欺が横行しており、社会の暗闇が垣間見える問題として浮き彫りになってきているのだが…
私は恐らくは、この「甘い甘い詐欺」
コイツが戦後詐欺被害の…いや、もしかすると、江戸時代とかから、有ったのかも知れない、その様な、世の中に数多存在している詐欺の、偉大なる祖先の血統に思えてこれは仕方がない。
堂々と、甘夏を名乗り、しかし、甘い要素が皆目まるで見当たらない。
盗っ人猛々しいとは、まさにこの事の様に思える。
許せないのである。
思えば、初めて奴と邂逅したのは、幼き日のスーパーである。当時から、私はそもそもが、酸っぱいものは大嫌いで、出来れば避けたかったのであるが、親が無理矢理と食わすものであるし、閉口しつつも従わざるを得なかった部分がある。
その日も、スーパーにて、件のその親が八朔を手に取り、次第に不穏当なオーラを放ち始めていた。稍演出過剰なる情動的な映画で言えば、太陽眩しい画面が急にその輝度を下げていき、不安を煽るみたいなヴァイオリンの悲鳴みたいなメロディーを流し始める、そんな場面である。
ヤバイ、これは購入に前向きオーラだ。
八朔は苦いし、しかも、酸っぱい、私の味覚の世界の中に於いてはかなりけしからん部類となる、そんな食べ物である。間違っても会敵したくはない、何か…何か良いアイデアは無いものか、と。
苦悩する未だ児童の私の視野に、そいつは不意に飛び込んできたのである。人間は忙しく思考するときに、しばしば視線を彷徨わせるモノであり、奴はそんなタイミングで実に巧妙に、狼狽えて浮足立ち、その思考能力に些か、余裕が無くなっている、そんな私の目の前に、まるで狙っていた様に現れたのである。人間に対して、甘夏だけに甘言囁く悪魔の如くに。
「あまなつ3個○○円」
見た事が無いその柑橘類は、鮮やかなオレンジ色であり、まるで海外産のORANGE、または伊予柑の甘さを想起させるに十分足り得る色彩と、
――甘夏にも色々あり、私が初めてみたのはオレンジ色の鮮やかなものであった――
柑橘類の中でも、一際に爽やかな薫香を放ち、それ故に私はあの、八朔が齎す、苦味と酸味の世紀末、そいつを避ける剣筋がこの甘夏に垣間見えた気がして、もう、親が八朔を手に取り買い物カゴに入れつつあるので、一刻の猶予も無く、意義を申し立てたのである。声高に!
「この、あまなつがたべたい!」
「はっさく、きらーい!」
私が、無垢な乙女の如くに、かの悪魔に騙されて、そして無惨にもそれから、その「詐欺悪魔」との、実に長い永い付き合いとなってしまった、それは涙すべき瞬間である。悪魔に魅入られてしまった、魔が差したサスペンス。
やがて。
束の間も置かず、その日の夕食後の、食後のフルーツと言う時間帯に、奴は無慈悲にも無垢なる私の味蕾を酸味と言う名の残酷なる『聖剣デュランダル』にて串刺しにし、また、同時に未来も穿って貫いたのである!
決定的一打。
親が、その日以来、八朔をやめて、甘夏に、食後のフルーツをシフトしてしまった。
何て事だ!
原爆回避したら水爆来ちゃった!
デブチェンジしたらオバさん来ちゃった!
なんかそんな。
取り返しの付かない事態となり。
以来、季節になると、毎年毎年、この、甘い甘い詐欺の悪魔は忌々しくも、私の食後のデザートの役職を不動の物として、辞退する事なく永きに渡りその役職を固守し続けたのである。
何年も何年も。
春日局の如く。
「甘夏」
その、
名前に反した酸味の狂気の世界。
頭をガツンとぶん殴られた時に似た、「つぅーん」と来る酸味の、酸味による、酸味の為の凄惨ソーダ世界。酸っぱい。絶望的に、酸っぱい。そして、八朔よりも、無駄にみずみずしいが故に、その酸っぱさの汁が、縦横無尽と口の中で存分に暴れ狂う。捏ねくり回して来やがる。後に残るのは、絶望的な酸っぱさと、まるで「私は無関係よ、ウフフ…」みたいな、爽やかかつ豊かな柑橘芳香、その香りのウザったい方向性がまたなんか、逆に腹立ってくるのである。胃は驚嘆し、押し黙り、軍事学校の新兵の様子に起立の姿勢を固めてしまい、腸はその過激な酸味刺激に耐えかねて阿波踊りを繰り返している…こう考えて見たらば、八朔はまだ、あれは手加減をしてくれていたのであると、私は即座に理解した。八朔。奴にはまだ、慈悲の心が残されていた。奴は紳士だったのである。だが、しかし、この、甘夏はどうだろうか? 慈悲の「じ」の字も丸で見当たらない! 何処を見渡しても徹頭徹尾、酸味である。その凶暴なまるでヤクザで言ったらば酸味の鉄砲玉に、やけにそれと反したORANGEみたいな爽やかな薫香。この香りと見た目と、その名前「甘夏」が絶妙に合わさった詐欺。幼子が、嫌いになった食べ物を前にしてたまらずに、音を上げるのは無理からぬ事である。
かこうとん は にげだした! ▼
しかし にげだした そのさき に
おや が まわりこんで いる!▼
※「あなた が ねだった の でしょう
のこさず に たべなさい!」▼
あなた は しにました……… ▼
はい。
死にましたよ。
児童にとっては、嫌いな食べ物が目の前にあり、そいつを残さずに平らげなければならない時間、あの、永く長い拷問の時間を、今でも忘れないよ!
この世界は悪意に満ちている。
思えば、その事を幼い私に骨の髄にまで染み渡らせるようにして理解させたのが、この悪魔だったのかも知れない。
「甘い甘い詐欺」
許せない、絶対に!
――――――
この「甘夏トラウマ」により、親元を離れて以来、何十年と、この悪魔の存在を意識的にか無意識にか、遠ざけており、すっかりとそのトラウマも薄まった頃に、また奴は牙を剥くのである。
ある日のスーパー、鮮やかな色彩で爽やかな芳香を放っているソイツ。
予期せぬ邂逅、そして、思考。
大嫌いだった
酸っぱい悪魔で詐欺師
しかし、本当にそうだろうか?
たまたま、酸っぱい奴だけを引いていた可能性…
現に、香りはこんなにORANGEの様に甘そう。
今は何かと品種改良も進んでいる筈だ。
お互いの不幸な巡り合せ。
そいつをやり直す機会なのではないか?
しばしの逡巡…
思えば俺も色々あった、そうして、ずいぶんと丸くなったものさ。考えてみたらば、コイツとの出会いは不幸であった、あの頃をやり直して、コイツと和解出来たなら、俺はまた一つ、大人になるのだろう。
さぁ、来いよ。
今ならお前を赦せる気がするのさ。
俺はお前を飛び越えて、また一つ、新たな段階へと。
その、飛び立つ試金石として。
お前をまた、使ってやるよ。
世の中を甘く見ていた、思えば生意気な悪ガキだった。でも、歳を得て、色々とぶつかったり壊したり壊されたりしてさ、俺も少しは大人になったんだ。だから、きっと、お前だって変わったのだろう? さぁ、始めようか、俺とお前のリターンマッチをよぉ。
奴は、何も変わっていなかったんだ!?
信じられるか!?
何も、変わっていなかったんだぜ!?
あの、突き刺す様なストレートの酸味に。
忘れかけていた、ソイツの凶暴さを思い出した。
その日、俺は久々に、奴によってノック・ダウンされた。
水量豊富に荒れた雨後の滝の如くに、後から後からまろび出てくる唾液と頭皮からの汗の奔流、そいつに乗って流れ込む鮮明なるトラウマの回想バス。ソイツにまたたく間に押し流され、抗えなかった。溺死であろう。
俺ですら、丸くなったのに、奴は全然、変わっていなかった。あの頃に、たまたま、酸っぱいのばかり引いていたのではなくて、奴を誤解していた、なんて、まさにその考え方が誤解であって、奴は明けても暮れても、奴のままなのであった。
「2回も騙すなんて、絶対に許さない!」
以来、毎年の様に。
この「甘い甘い詐欺」悪魔の。
出始めの時期に。
武田信玄と上杉謙信が千曲川を挟んで対峙するみたいに。
俺と奴との戦いは繰り返されている。
いつか、甘夏が甘く感じる夏が来る日があるのかも、と。
いつか、この甘い甘い詐欺の悪魔を打倒せんもの、と。
この、毎年のルーチン。
それをやらねば、俺の夏は始まらないのである。
絶対に 許さない
勝負だ 甘い甘い詐欺の悪魔めがっ!
甘夏なんて大嫌いである。




