【13】あだ名が終焉を迎える時代に (エッセイ)
「【9】HERO失脚」や「【12】パンツ佐藤」で述べた、あれは史実の黒歴史だ。
残酷な笑いだってあるのである。
他人の致命的な失敗、それがアホであればアホである程に、黒歴史とあだ名は面白くなる。
でもこれは、その本人のメンタルをわりとザクリと深めにえぐってくる、いわば『誰かを傷付ける類の笑い』なのかも知れない。例に出せば、自分がとてつもない小宇宙爆発レベルなアホなのに、へロケの癖に、自分なんかは、他人のパンツ佐藤の黒歴史エピソードに大爆笑していたのであり、考えてみたらばそれはとても酷いと言わざるを得ないのだろう。
しかしながら、この様な笑いは、昭和や平成の時代にはわりと有り触れていた類の、それはきちんとした笑いの形態の一種として、あの時代にはそれで認知されていた様には思うのだ。
最近の学校だとか、『あだ名を付けるの禁止』みたいな、なんかそんな感じの風潮が有るみたいだ。
しばしば、人は誤解する。
何に対しての誤解か?
それは、
『法律や常識、モラルと言う奴は固形物=不動=絶対的』
と言う前提で人はしばしばそんな考え方に囚われている様に見えるが、実は自分なんかはわりと、それらは絶対的なモノなのでは決して無く、ゆっくりと流動しつつ変形している。と言う、その性質について、人はしばしば誤解している、と。
プレートテクトニクスみたいに、大陸、あんなでかい岩やら何やらの上に植物やら我々動物まで乗っけて、まるで不動の如く動いてはいない。
でも年々、プレート同士がぶつかり合う地点では、どちらかが沈み込み、また、どちらかはそれを保つ、しばしば拮抗した緊張関係が続き、高い山脈になったりもしている。
蝿は人間と違う時間の流の中に存在しているのかも知れない。人間が、1秒間に20枚位の写真の連続を見させられたら、それは1枚1枚の写真ではなく、連続した動画だと認識すると例えたなら、蠅やなんかは、1秒間にもしかしたらば、100枚の写真の連続を見なければ、それを一連の動画とは認識していないのかも知れない。
例えばそれが、1枚1枚の画像と認識するレベルでは、人間がソイツの動きに対応出来る、人間の場合は1秒間に19枚以上だと対応不可能になるとしたらば、蝿の世界を、彼らを手で握りつぶしたりの補足は当然ながら困難である。何せ蝿のは1秒間に99枚までの動きに対応出来るのであるから。
逆に。
ものすごーく、人間や何かと比べたらば、1秒辺りの認識が極端に長くて、寿命が1億年だとかの、そんな生き物が、地球のプレートを注視しているとしようか。
きっと、彼らには、我々にはとても動いているようには見えない大陸プレートが、彼らにはきっと、我々が見た味噌汁の椀の中の、あの味噌のつぶつぶが熱によりしきりに浮いたり沈んだりして動いて常に循環/対流しているみたいな、あんな風景に見えているのやも知れない。
あんな感じで、きっと、世の中の『法律や常識、モラルと言う奴』は、静かにゆっくりと流動しているように思お。
あだ名が使えなくなる、モラル的に禁止されゆく時代。
何だか昭和の悪童にとっては、確かに一抹の寂寥感は否定出来ないのである。
『こんな世の中にだれがした!』
『昔の日本人は今と違って………』
『近頃の若いもんはこれだから』
過去の 法律や常識、モラルと言う奴 それらと照らし合わせ、移ろいゆくそれらの性質を理解せずに、旧態依然たる価値観で推し量る時に…もしかしたらば人間は、『老害』と言う奴になっているのかも知れないんだなぁ。
『近頃の若いもんは』
エジプトの象形文字をようやく解読したらば、そこに書いてあった事柄がこうであったらしいのだ。
きっと、人間の文化や意識、モラルの在り方なんてーのも、皮膚の7層に分かれている層みたいに、世代や年代によって多層に構成されているに違いないのだ。
ずっと若いと思っていた我々は、どうやら、いつの間にか皮膚の層の大分上方にせり上がってしまってきているのかも知れない、と、時々、考えて寂しくなる。
皮膚はやがて、1番上の層に押しやられたなら、下の層を保護する。そして、使えなくなったらば、それは垢として剥がれ落ちて行く運命で、そいつに抗う事は有害だろう。
人間だって、代謝してそうやって新しい世代が育ってゆくのである。
変わりゆく現代に己の内の中での、過去の常識やあり方との乖離を懐き、そんな現代に嫌気がさして、そんな感じで、懐かしい昭和の風景に憧憬を懐き、『○丁目の夕日』的な世界へと戻りたい、と。
口に出す人なんかも、しばしば見受けられる。
心の中で、こう思うのである。
おやめなさい、貴方の中にある、思い出のままだから、それらは魅力的なのですよ。もしも、昭和に戻ったならば、あなたはぼっとん便所を使えますか?水洗便所で、しかもウォシュレットの暮らしを捨てられますか?あの世界はね、あの時代に生きた人間の不便さ、それらを極力見せていない、つまりは苦痛を抜き去った事実世界、更につまり言ってしまえば、貴方の○丁目の夕日を見ているその憧憬は、ファンタジーを見ているのと似ているのです。きっと、昭和に戻ったならば、それはそれで貴方はその世界に失望するだろうな。
と。
世の中は随分と快適になってきた。
ボットン便所から、やがて水洗便所となり、そして今やウォシュレットの時代ですらある。
今自分が果たして、あの、昭和の時代に戻れるのだろうか?
一日だけなら良いかも知れない。
しかし、一週間、一ヶ月、一年……
きっと、昭和のアラが目立ってしまって、早く戻りたくなるに違いない。企業はわりとブラックだろうし、モラルも荒々しい。確実に、便利になった時代の中で、ストレス耐性の相対値も下がってしまった我々には、きっとさぞや過酷な社会に想う。
ぼっとん便所から、水洗便所へ、更にはウォシュレット。
昭和の不便を抱えてきた我々は、どんどんと快適になり、そしてきっと、そいつに反比例して、
『不便さ・不快さに対する耐性の最大上限値』
を減らし続けてきたと思お。
ド○クエ風に言っちゃえば、
HP100だったのが、
HP50くらいになっちゃっているのかも知れない。
戦争が少なくなり、世の中の文化や技術やら全体が熟成してきて、快適な時代になり、『これは不便だ』『こんな事は繰り返してはならない』『もっとこうすれば効率的』がどんどん浸透してきたが故の、もしかしたらば、
『あだ名に対するモラル』なのかも知れない。
快適に身を浸した反面に、
ストレス耐性最大上限値を確実に減らして来た我々は、きっと将来に於いて、もっともっと便利な時代へと進んだ時、更にストレス耐性最大上限値を減らして行き、それが故に、今の我々からはとても考えも及ばない様な些細に見える問題に、深刻なストレスを覚えるのかも知れない。
改善すれば良いのかな?
最大HPどのくらいに減ってんだろうか?