それぞれの道
「わたし、彼氏ができたの」
うつむきながら、落ちこぼれの少女は言ってきた。言った内容に対して彼女が、後悔も、後ろめたさも感じていないのは明らかだった。
ただ、そこにあるのは気まずい空気。
それを打ち払うことすら思い浮かばずに、呆然としたまま、リュータはつぶやいた。
「……おめでとう」
目の前の光景はすべての輪郭が崩れて見えた。きっと自分は泣いているのだと、リュータは思った。
その時、実際にはどんなふうに彼女の言葉を聞いていたのかは思い出せなかったが。
次の瞬間、すべての輪郭がぼやけて混じり、リュータは夢から覚めた。
「まぁ、粗末な自分ちで寝てるよりかは、ぐっすりと眠れてるかもね」
「え? 妹ちゃんの家ってけっこう立派な家だったと思うけど? 二階建てでさ」
なにも見えないのは、目を閉じているからだろう。それが分かってもリュータは、どのようにすればまぶたを開くことができるのか、思いだすことができなかった。
暗闇の中に響く不思議そうな声は、きっと桃色髪の妖精に違いない。それに続いて聞こえてくる妹の声音は、どこかとげが含まれている。
「……なんであたしの家を知ってるの?」
「んー? いや、だって、何日か前に家に泊めてもらったぜ?」
「へ?」
思わずまぬけな声を漏らした妹が、どんな表情をしているのかは分からなかった。もうすでに、まどろみのなかから脱して、目を開こうとすれば開けたが、周囲の状況を把握するために寝たままエミルたちの話を聞く。
「別にどこで寝ても同じだし、面白そうだから親友の家に泊めてもらおうかと」
「それでも、家で見かけた気がしなかったけど?」
「えー、だってあたし妖精だし。身体のほとんどが魔力だからそれっくらいは」
「なんでこんな珍妙な生物をリュータは家に連れ込んだのよ……」
「ちょっ、珍妙ってのはひどくないかっ?」
怪生物にされたエミルがリュータの妹に抗議している。よくはわからないが、妹が怒っていることはリュータにも伝わってきて、なかなか起き出すタイミングがつかめなかった。
「ああもうっ、ばかリュータ……。起きてきたら絶対に文句言って――」
「もう起きてる」
言ったのは、今まで聞こえていなかったアイリの声だった。その素っ気ない一言に、妹は言葉を止めた。
「起きてる?」
「そう」
「ほんとに?」
「…………」
返事の声はなかった。
が、それが返事をしなかったということにはならないだろう。目を閉じているリュータには判別できないが、身振りで示したのかもしれない。
険悪……というよりかは呆れたような妹の声が、リュータに向けられる。
「リュータ、寝たふりやめて」
ぎくり。
平静を保とうとしたものの、身体は正直に身じろぎしてしまう。こうなっては、どうしようもない。
恐る恐るリュータが目を開くと、一瞬視界がかすんだ後、見慣れた妹の顔がベッドの足元の方に見えた。横にはアイリが座っている。
部屋は全体的に白色で統一されていた。決して狭い部屋ではなく、壁際の棚に薬品類――恐らくはなんらかの魔法薬――が置かれているが見えた。そして自分が仰向けになっているベッド。先生の姿は見えないが、ここは学園の保健室だろう。
(……!)
と、いつの間にか近づいてきていた妹の拳が、身構える余裕もなくリュータの肩を捕らえた。さほど力は入っていなかったのだろうが、不意を打たれてかなり痛い。
「意識があるんならさっさと起きてきなさいよ。あたしがどんだけリュータのことで……ああもうっ」
妹は怒っているらしい。彼女は顔を紅潮させたまま、そっぽを向いた。その様子に困りながらも、ふと気になってリュータは辺りを見回した。
声の聞こえていたはずの、妖精の姿が、ない。
「……エミルはどこにいるんだ?」
「ここにいるぜ」
「ぐぅおっ!?」
思わず変な声が出た。気づけばエミルはリュータの目の前にいた。魔力で構成されている身体を拡散し、見えづらくしていたらしい。妖精が宙をくるりと一回転したときには、彼女の身体はすでに元通りになっていた。
「これがあたしの家に入り込んだ仕掛けっていうわけね……」
妖精を見て頬を膨らませながら、妹が言った。つんつんとエミルの身体をつついている。
リュータは不機嫌そうな妹をどうにかなだめすかして、これまでの話を聞いた。ことあるごとに悪戯しようとしてくるエミルや、饒舌とは言えないアイリは、話を聞くのに適切とは思えなかったからだった。
吸血鬼に攻撃魔法を受けたこと。アイリ達が保健室まで運んでくれ、先生たちによって治癒魔法を受けたこと。それだけでは足りなかったので魔法の薬が使われたこと。自分が二日間の休日を挟んで眠り続け、もうすでに三日経っていること。
それらの話を聞いてリュータの頭に浮かんだのは意外にも、アイリと出会ってからそろそろ一週間が経つのだということだった。それはつまり……。
リュータが考えていると、急にアイリが難しい顔をして立ち上がった。普段は淡々として無表情だが、案外アイリは考えが表情に出るということを、リュータはすでに知っていた。彼女は躊躇なく腕を伸ばすと、辺りに浮いていた妖精を掴んだ。
「むぎゅっ!? ちょ、なんで毎回掴むんだ!?」
喚くエミルに目も向けず、アイリが妹の目を覗きこむ。急に覗きこまれたミナは、わずかに怯えたように身じろぎした。
そんなミナに、アイリは一言。
「話がある」
なぜわざわざそんなことを言うのか、とリュータは思った。だが彼女の言葉の真意は、別の場所で話そう、ということだったらしい。
(僕がいるとしづらい話……ってことなのか?)
考えても分からなかったが。
ベッドの縁に腕をついていたミナは体勢を整えると、リュータに一言声をかけてアイリとともに部屋を出ていく。
そして、リュータはただ一人、保健室に残された。
落ちこぼれ。
女子にはモテず、友達もいない。リュータのそんな心の内を魔法で読んだので、アイリはリュータが学内で孤独だと思っていた。
廊下へと続く、保健室の扉に手をかける。
アイリの隣には少女がいた。ミナ・アストレイム。リュータの妹。彼女もこのエイルーク魔法学園に通う学生なのだという。
(ある意味、誤算……)
扉を開け、保健室の中から廊下へと出ると、そこにも少女がいた。わずかに怯えたような思念が伝わってくるが、それは読心魔法というアイリの力に気付いているからではなく、保健室の前で逡巡していたことを見られたせいだろう。
リュータの妹は扉の後ろに立っていた少女に探るような視線を向けているようだったが、アイリはちらりとも視線を向けなかった。
少女と、リュータ。
恐らく、二人きりのほうが話しやすいだろう。邪魔をするのも悪いと、アイリは思う。
校舎を出て、保健室から離れたところにあるテラスまで、やってくる。そして、アイリは小洒落た椅子にゆっくり腰を下ろした。いまだ手に握ったままだった妖精を、テーブルの上でそっと手を開いて解放する。
対面に座ったリュータの妹は、こんな所でなんの話をするつもりなのか、などとは聞いてこなかった。なぜ保健室から出てきたのか、気付いているらしい。なかなか勘がいい。
「なぁ、どうしてこんな場所まできたの?」
「……」
勘のよくない妖精がここにいた。
いや、手に握られたままだったため、保健室の前で入るかどうかを逡巡していた少女のことが見えなかったのか。視界の端に、ミナがため息をつくのが見えた。
その様子に気づいエミルが、きょとんとしながらアイリとミナを交互に見回した。
「へ? 話があったんじゃないの?」
どうやら本当にそう思っているらしい。彼女から伝わってくる感情も、純粋な戸惑いだった。
なんとなく可愛らしく思って、アイリは目の前の妖精の頭を指先で撫でた。いくら小さくても実際は、妖精のエミルが自分よりはるかに年下ということも考えづらいから、もしかしたら失礼なことをしているのかもしれない。
驚いたエミルが慌てて飛び退いた。
唇を尖らせ、彼女は言う。
「むー、なんだよ。難しい顔してっから、アイリが相談事でもあるのかと思ったのに」
「……」
妖精の言葉に、アイリは内心、困惑した。
確かにリュータのことを考えて悩んではいたのだが。
「そんな顔、……してる?」
「してる」
「そう?」
「そう」
『ほんとうだってばー!』
妖精はそんな思念を発しながら腕組みし、空中であぐらをかいてぷかぷか浮かんでいる。身体を構成している魔力によって浮かんでいるのだから、体勢などは関係ないのだろう。そのまま逆さになっても浮かんでいるに違いない。
ただただ無感動な心持ちでエミルの言葉を聞いていると、妖精はこちらの顔を覗きこみながら言ってきた。
「けっこうアイリって考えが顔に出るよね?」
そう、なのだろうか。
(癖なら、直さないと)
読心魔法の使い手が、考えを容易に外に出していたら、誰だって自分の考えが読まれたのだと不安になるだろう。
できるだけ無口が、無表情が、無反応がいい。それで多少は周囲が安心していられるのだろうから。多少気味悪がるだけで済むのだから。
本当なら読心魔法を使わないのが一番いいのだろう。だが、一度手に入れてしまった力は手放しにくい。他人の心が読めなければ、それはアイリにとって多大なストレスに、不安になった。
読心魔法のせいで他人とのかかわりが薄くなったのは知っているが、それでもその力を捨てるわけにはいかない。
(……たとえば)
目の前の妖精は都合がよかった。自分の読心魔法がいくら有名だと言っても、この広い学園のなかで誰もが知っているほど噂が広がっているわけでもない。なにか事件を起こしたわけでもなく、あの『竜殺し』ほどには、自分の名は知られていない。
だからこの妖精は、アイリが読心魔法の使い手だということを知らない。しかもこのエミルはいたるところで騒動を起こしている問題児で、いろんな人間に厄介者扱いされているから、たとえ読心魔法の使い手と一緒にいても、うしなう友達はいないだろう。
その点で、アイリは妖精と関わっても気が楽だった。
(ルーナは)
なぜか自分に関わろうとする、緑色の髪の同級生は、元から友達が多い。けれども読心魔法の使い手といれば、いつしかその友達をうしなってしまうだろう。
だからアイリは、彼女のことをできるだけ避けていた。
「……? おーい」
黙り込んだアイリを不審に思ったのか、エミルがこちらの顔の前で手のひらを左右に揺らした。
指先でそんな妖精をはじくと、妖精はミナのほうに、リュータの妹のほうにきりもみしながらゆっくりと飛んで行った。
妹が片手で妖精を受け止める様子を、ぼんやりと見つめる。
(友達……に)
リュータとであれば友達になれるのはないかと、そう思っていた。
彼は妖精と同じだった。アイリの噂を知らず、学園内でうしなう友達もいない。そのはずだった。心を読んだ限りでは。
けれども実際には妹が学園内にいて、怪我をしたら保健室まで見舞いに来てくれる友達もいた。
(近づかない方が、いい……?)
自分がリュータの迷惑になることは、十分にありうる。
と、妖精がすごい勢いで近づいてきた。うっかり、アイリは心を読むのを中断していた。慌てて目の前へ片手をかざす。
だが、エミルはいつもと違ってキックやパンチを放ってきたりはしなかった。
びっ、と指を突きつけてくる。
「あーもうっ、なに悩んでんのか知んないけど、ほんとに困ってるようなら相談しろよ!? あたしだって寝込んでる親友だって、話し相手ぐらいにはなるんだからな!」
『悩みとかため込みそうに見えるし、どうにかしてやんないとなー……』
響く妖精の声と、心の声。
(……)
まさか、いつもおちゃらけているエミルに気を遣われるとは。自然と顔から力が抜けていくのが分かった。彼女の言うとおり、難しい顔をしていたのかもしれない。
アイリはじっとエミルを見た。
そして、
「……友達」
ぷかぷかと浮かぶ桃色髪の妖精に、人差し指を伸ばす。
彼女は口を半開きにして首を傾げたが、しばらくして、意味を理解したらしく満面の笑みを浮かべた。妖精はそのちいさな両手でアイリの指先を握り、声を上げる。
「ふふん、親友だぜっ!!」
ぶんぶんと指を上下に振られる。そんな感触も、なかなか悪くはないのかもしれなかった。
保健室。
アイリたちと入れ替わりに入ってきた少女の姿に、リュータは言葉を失った。とはいえ、出そうとしていた言葉があったわけでもないので、失ったとも言えないのかもしれないが。
その少女は申し訳なさそうに、所在無げに立っていた。
「あの、その、……学校に来たらリュータが大怪我したっていう話を聞いて。……どうしても、気になって。ごめんなさい」
おそらく彼女に対して言いたいことはたくさんあっただろうし、それらは全て実際に口に出せそうにはなかったが、彼女の様子を見てリュータは苦笑した。
「なんで、なんでお見舞いに来てあやまってるのさ。お礼を言うのが僕の立場なのに」
「それは、だって……」
うつむく少女。
気にせず、リュータは問う。
「もう、転科届けはだしたのか? その、彼氏とは、上手くいってるの?」
「うん、来週には受理されるって。もう授業も魔法技術師の基礎を習い始めてる……。彼氏とは、仲いいよ……」
言いづらそうな表情が、わずかに見えた。
笑顔を浮かべる気にはなれなかったが、それでも、リュータは言った。ベッドのシーツを握り締める。
「そうか、よかった」
少女は魔法使いを志して、そして落ちこぼれていた。クラスでつまはじきにされていて、落ちこぼれ同士自然と、リュータと少女は一緒にいることが多くなった。それが当たり前の日常で、いつまでも続くのではないかと、リュータはぼんやり思っていた。自分の傍に女の子がいてくれるのは嬉しかったし、少女も自分に少なからず好意を持ってくれているのではないかと思っていた。
(勘違い、だったけどさ……)
一週間ぐらい前。
少女は彼氏を作って、きっぱり魔法使いの道を諦め、魔法道具を扱う魔法技術師へと方向を定めてしまった。正直、もう会うことすらないかと思っていた。
目の前の少女は自分が選んだ道を後悔していないだろう。その上で、自分がリュータのことを裏切ったのだと、後ろめたく思っているのだ。
(ああ、そうさ……。思いを、期待を、裏切られた……)
少女のことを最低だと、そう思った。
彼氏ができたという告白の衝撃と戸惑いから覚めた後、リュータは少女にはっきりと怒りを覚えた。そして、見たこともない少女の彼氏を、ひがみ、妬んだ。どうしても悔しかった。
女の子にモテたいと、そう思った。
素直な欲望だったことも否定できないが、なによりこの少女よりもっとかわいくて優しい女の子たちといちゃいちゃして、少女を見返してやろうと思った。
そして、その日に――彼はアイリと出会った。
(最低なのは、僕だったんだ……)
一目見てアイリを、可愛いと思った。こんな女の子と一緒にいられればと、リュータは素直に思った。思えてしまった。
結局、自分が求めていたのはこの落ちこぼれの少女ではなく、一緒にいてくれる都合のいい女の子だったのだと、リュータは思い知った。
(ほんと、最低かもな……。それでも、僕は)
悔しさも、劣等感も、消えることはない。少女を見返したいという気持ちも、女の子にモテたいという想いも変わらない。
だけど今、彼女に言わなければならないことがある。
今にしか言えないことがある。
「あの、よくわからないけど元気そうだから、わたしそろそろ……」
居心地の悪さに耐えきれなかっただろう。落ち着かない様子で、少女は扉から保健室を出て行こうとする。
そんな少女を、リュータは呼び止めた。
「待って」
少女が動きを止める。
喉が渇くのをリュータは感じた。それでも、気にしてはいられない。
「――ありがとう」
心から笑顔を見せることはできないけれど、それでもリュータは精一杯笑顔を作る。渇いた喉から絞り出される声は、かすれていた。
「さっさと彼氏作って、転科まで決めて……お前なんかとは違うんだって言われてるみたいで、悔しいけどさ」
震える指がシーツをかき乱していた。
うつむきそうになるのを、必死でこらえる。
「今まで、一緒にいられて楽しかった。その思い出が全部、無くなるわけじゃない。もしなにか困ったことがあったら……相談にのるよ。だって」
ドアノブを握った少女の背中を、じっと見つめる。
「君に彼氏ができても。離れていても」
たとえ、これからはお互い違う、それぞれの道を歩むのだとしても。
「……それでもずっと、友達だから」
その言葉を聞いて、少女がなにを思ったのかは分からなかった。彼女は、黙って部屋から去っていく。
そして、リュータはただ一人、保健室に残された。