兄が死にそうになっている理由
ミナ・アストレイムは冷たい夜気を感じながら、漆黒の夜を飛んでいた。昼間とは違う空気の冷たさに舌打ちをしたかったが、全力で学園へと向かっているため、空気抵抗に負けてそれもできない。
(もっと厚着してくるんだった――)
まるで冬の寒さだ。顔を覆うマフラーでは、あまり役に足りない。電話を受けて急いで家を飛び出したため、そこまで気を回す余裕がなかった。
眼下には街の電気の明かりが輝いている。夜遅いとはいえ、まだ人の寝静まる時間というわけではない。街に明かりがあるのは幸運なことだった。通いなれた学園だが、こう暗くては見つけられなくなってしまう。明るく賑やかな見慣れた店は、ちょうどいい目印だった。
(もうすぐっ)
視界に学園が見えてくる。校門を電灯がわずかに照らし、校舎ではいくつかの教室から光が漏れている。
彼女は学園の上空に入ってから、どの辺りへ行けばいいのか困惑した。が、すぐに騒がしい声を聞き付けてそちらへと向かう。
一気に地面へと近づくと、ミナはぎりぎりで制動をかけて着地する。
保健室の前にはだいぶ人が集まっていた。そのほとんどは教師だったが、自分と同じぐらいの少女が光の粒を漂わせる妖精とともに保健室を眺めている。
と、少女がこちらを向いた。
迷うことなくミナへと歩いてくる。静かな着地をしたミナに気付いてすぐさま近づいてくる少女に、不気味なものを感じて思わず動揺する。
だが、それも一瞬だった。
「……兄は、リュータはどうなったの!?」
ミナは少女へと問いかける。
別段、兄と親しかったわけではなかったが、それでも家族だ。なにかあって心配しないわけがない。
そんな彼女に、少女は一言。
「重傷」
その言葉に思わず、ミナは顔をしかめた。少女は淡々と、無表情のままに続ける。
「傷は深いけど、先生に見せるのが早かった。きっと大丈夫」
そう言われても安心できるはずがない。
保健室の中では電灯より強い魔法の光が明滅を繰り返していた。圧倒的なその輝きは、おそらく大規模な治癒魔法を行使しているのだろう。兄の容態を見ようと近付けば、魔法の精神集中を邪魔することにもなりかねない。
「……、先生にでも事情を聞いた方がいいのかしら」
それは確認というわけでもなく、黙って立ち去るわけにもいかないから同意が欲しかったというだけだった。
だが、少女ではなく、浮かんでいた妖精が返事を返してくる。
「事情だったらあたしが知ってるぜ。そのとき一緒にいたから」
ぱちん。
軽い音だった。何が起こったのか分からなかったが、少女の腕が横へと向けられている。少ししてから、妖精が離れていったのは少女の手にはじかれたからだと、ミナは理解した。
少女は言葉の最後をやや疑問形にしながら、ミナへと言ってくる。
「事情を聞いても、先生に話さない?」
正直、意味が分からなった。なにか先生に話したらまずいことでもあると言うのか。それはつまり、兄が重傷を負ったのは、この少女のせいなのだろうか?
「……、いいわ。誰にも話さない。約束する」
もし看過できないようなことが話の中にあったのなら、そのときに考えればいい。そんな考えを胸中にしまって、ミナは頷いた。
そして、目の前の少女も頷いてくる。決してミナの心の内など知ることはできないのだから。
と、
「必殺キィイイック!!」
光を放つ妖精が勢いよく少女の横顔へ蹴りを放った。少女はそちらを向きもせずに、手のひらで蹴りを受け止める。
「な、なんでこれで止められんの……? ああもうっ、いちいちはたくなよ! あたしが説明するからな!?」
文句を吐いて、賑やかな妖精がこちらへと向きなおる。その妖精はぷかぷかと浮きながら、まだ怒りも冷めやらぬ様子で、しかし、どこか遠い目をしていた。
もう辺りは薄暗くなっていた。
エミルは校門へと続く帰り道で、親友であるリュータの正面に浮かんだ。恥ずかしげに一度視線を伏せてから、エミルは上目づかいに彼を見つめる。
「……あたし、親友のこと好きだぜ。頼りないところもあるけど、その、優しいし、けっこうかっこいいし……。別に男として悪くないというか……女の子にモテないとかさ、き、気のせいなんじゃないか?」
そこまで言って、赤くなった顔を見られたくないという感じに、慌てて彼へと背を向けた。背後から彼の戸惑うような声が聞こえてくる。
背を向けた先ではなぜかアイリが呆れたような顔をしていたが、構わずエミルは少年を振り向いた。輝くような笑顔で彼女は問いかける。
「どう? ときめいたっ?」
「……。お前なぁっ!?」
「はっはーん、思いっきし信じちゃったって顔だ! 怒っちゃって、やーい!」
「そんなことあるかっ!」
その怒鳴り声がいまは心地いい。彼はエミルを捕まえようとしてくるも、動揺しているのか簡単にその指は避けることができた。
エミルは怒っている彼に声をかける。
「落ち着けって。あれだよ、人に好かれるってのは嬉しいことなんだよ」
「だからどうしたっ、こんにゃろう!」
「いや、だからさ、まずは相手への好意を伝えることから始めないと」
「……、好意?」
ようやく腕を止めて、親友が問い返してくる。
エミルは頷くと、くるりと宙を舞いながら、暗がりのなかで不思議そうな顔をする彼に答えてやった。
「好意を持ってくれた相手には、同じように好意をもつものだって。少なくてもそういう相手として意識してもらえるようになる。というわけで……女の子たちに愛を伝えまくれっ」
「ぐぅ。理に、適ってるな……」
「ふふふ、さすがあたし」
「それで本音は」
「ふられるところ見たら面白そうだと――」
びしっ。
「ていっ」
「うぎゃっ!?」
びしびしびしっ。ぼこすかぽこすか。ぐりぐり。
チョップとかげんこつの嵐がエミルに襲いかかってきた。その痛みに危うく涙が出そうになる。
「うー、ひでー」
「お前があほなこと言うからじゃないか……」
わいわい、がやがや。
どうすれば女の子にモテるのか、夜道を延々と話しあう。どの程度親友が本気で悩んでいるのかは知らないが、なかなか面白いからかいの種ではある。
悪の秘密結社でも倒せば、などと馬鹿な提案をしてみると、親友は額に手を当てた。それに、けけけ、と笑いを返そうとして。
「んー?」
電灯に照らされた脇の茂みから物音がして、わけ出るようにして見知らぬ少女が親友に抱きつく。彼女は抱きついたまま親友の顔を見上げていたので、その表情は知れなかったが、震える声で言ってきた。
「た、助けてください……! わたし、わたし……襲われてるんです!」
助けを求めてくる。当然だ。そんな変なところから現れるのだから、何者かに襲われているに違いない。少女の出てきた方向を睨みながら、エミルは拳を強く握りしめた。なんとなく気分が高揚してくる。
(あれか、噂の秘密結社かな?)
そんなことを頭の隅で考える。親友はいまだに困惑しているようだった。うろたえるような声が聞こえる。助けを求められたこともそうだろうし、女の子に抱きつかれているという事実にも困っているのだろう。
そちらは特に気にせず、少女を襲った相手がこちらへと向かってくるのを、エミルは待った。出てきた瞬間に電撃をくらわせてやるつもりで。
だが、出てこない。
背後ではアイリが少女を宥めているようだった。しばらくすると少女も落ち着いてきたようだが、やはり誰も出てこない。
(もしや、逃げた――!?)
この人数には敵わないと判断したのかもしれない。
エミルは背中の羽を大きく動かすと、一気に加速して茂みの上をつっこんでいく。
「犯人、逃がすかぁっ!」
遠い目をしたまま彼女は、何かを考えているようだった。急かすこともできず、ミナは妖精が話しだすのを静かに待つ。それほど時間がかかったわけではなかった。妖精が、やや引きつったような顔をして、口を開く。
「えーとね、まず親友とあたしで、どうしたら女の子にモテるようになるのか話しあってたんだけど」
「親友?」
聞き返す。口数の少ない少女が一言で答えてきた。
「リュータのこと」
「……ばかリュータ、へんに色気づいて。年頃だから仕方ないのかも知んないけど。そ、それで?」
目の前の二人、どちらにというわけでもなく続きをうながす。
妖精が続けた。
「うん、気になる相手から好かれるためには自分の好意を伝えないと、とかなんとか適当にアドバイスしたたんだけど。そんなこと話してたら、道の脇から急に女が飛び出してきてさ。親友に抱きついて助けてくれとか言いだしたの」
「そ、それで?」
「いや、なにかに襲われてるらしかったから、犯人を捕まえようと茂みの中に飛び込んでったんだ。あたしは」
そこまで言って、妖精は言いづらそうに言葉を濁した。多少、話を予測して、ミナは訊ねてみる。
「……リュータに抱きついた女が悪い奴で、デレデレしてる間に殺されかかったとか?」
「あー、いや、そういうんじゃないな」
妖精が否定する。
それでも言う気にはならないのか、最初の勢いが嘘のようだった。仕方がないのでミナは少女の方を向いてみるが、彼女もどこか遠い目をしているような気がした。
それでもどうにか話そうとしてくるのは、妹に対しての責任意識なのか。ともかく、こちらを向いて話し始める。
金色。
脳裏に浮かんだその黄金は、闇に馴染むことなく周囲から浮いていた。錯乱した少女の心から読み取れるのはその程度でしかなかったが、少なくとも、何者かに襲われたのは確からしい。
「……大丈夫。落ち着いて」
はたして、落ち着けない人物に対して落ち着けなどと言うのは、正しい行動なのだろうか。アイリはあまり人と会話をしないほうなので、できれば誰かに立場を変わってもらいたかった。だが、肝心のリュータは少女に抱きつかれたまま、顔を赤くしてたじろいでいるし、妖精はもとから論外だった。
リュータと、彼に抱きついている少女を交互に見比べる。
(……)
引きはがそう。
決心して、アイリは手を伸ばした。
(……離れない)
それどころか、引きはがそうとしたアイリに怯えた目を向けてくる。それは仕方ないことなのかもしれないが。
とにかく、彼女の恐怖心を和らげるために撫でてみる。
「もう、大丈夫」
何度かそれを繰り返し、彼女もようやく落ち着いてきたようだった。どちらかと言えば時間が問題を解決したようだったが、この状況さえ解決すれば、アイリにとってはなんだって構わない。
ようやく、少女がリュータから離れる。
その時だった。
錯乱した少女などに読心魔法を使っても意味がないと、魔法の指向性を落としていたのが幸いした。ぼんやりと、周囲に広がっていた読心魔法の効果が、近くの生き物の心が遠ざかっていくのを感知する。
エミルだった。
冷静に読心魔法の範囲を絞り考えを読むと、あの小さな妖精は、少女を襲った犯人を捕まえるつもりらしい。
「あの馬鹿っ」
急にアイリが顔を向けたことで、リュータも妖精が飛び去っていくのに気づいたらしい。彼もエミルのあとを追うようにして、躊躇なく茂みの中へと分け入っていく。
自分も行くべきか。瞬時にアイリは計算した。もしかしたら、少女が一人になったところでまた襲われるかもしれない。怯える少女を残していくのも忍びない気もした。
だが。
制服のリボンを見る限り、この少女も恐らくは魔法使いだろう。別の科の魔法技術師たちではないし、リュータのような落ちこぼれとも考えにくい。それをここまで怯えさせるのだから、相手もある程度の魔法使いと考えるべきだ。
あの妖精だけで、勝てるかどうか。この場合、可哀そうだがリュータは計算に入れなくていい。
「犯人を、捕まえてくる」
アイリは少女にそう言い聞かせた。すがるような視線に、見ないふりをする。結局のところ、この場に残るかどうかの決め手は、アイリにとってリュータたちとこの少女、どちらが価値が高いかと言うことだった。
アイリも茂みの中へ進んでいく。すぐにリュータには追いついたが、さすがに飛行する妖精に敵うほど速くは走れない。
と、木々が無くなり視界が開けた。
(……!)
木々に囲まれた開けた場所。芝生の上に、少女が一人立っていた。それは黄金の髪をして、月の淡い光に照らされている。
妖精はただ、宙に浮いたまま、少女の手前で止まっている。勢いで行動を起こすこの妖精が、目の前の少女の異常性を察して動けないでいる。
見た目はアイリと同じぐらい――つまりは年下に見えた。だが、見かけなど何の目安にもならないだろう。自分と同じで背が低いだけかもしれないし、そもそも少女が人間だという証拠もない。名匠の手による人形のような少女の美しい造形は、人間離れしているようにも思える。
いつの間にか、空気に呑まれていた。アイリはようやく自分の魔法を思い出し、読心の範囲を少女へと向けた。
少女が薄い唇を動かす。
「……。ふぅん、精神系か。あらかじめ魔法を発動しておけるのは便利だが、使い手は珍しいな」
(はじかれた……!)
これ以上ないほどに動揺しながら、アイリは認めた。少女の心が読めない。おそらくは何らかの魔法対策があらかじめ用意されていたのだろう。だが、物理的な魔法防御だけでなく、精神系にまで防御がかかっているとは。
――間違いない。自分はこの少女に敵わない。
ラクシス魔法協会の基準による、AもしくはSランク相当の魔法使いに違いなかった。あの『竜殺し』など比較にならないほど強力な魔法使い。
「あなたは、誰?」
声は震えていた。けれどもアイリは、よく言葉が出たものだと、自分自身を褒める。
目の前の少女はいやらしい笑みに顔を歪め、そして透き通る声音で言った。
「ファーミエル・デア・ラークシェスタ」
(……!)
名に聞き覚えはあった。
それは至高の魔法使い。この国の魔法使いの頂点。中立国家ラクシスを興した始祖であり、かつて高位精霊との戦闘によってこの地に存在するものを根こそぎ破壊し尽くした吸血鬼。
逃げるしか、ない。
なぜここに吸血鬼などがいるのかは分からないが、決して関わってはいけない。間違いなく妖精もそれに気付いている。気づいていながら、恐怖にさいなまれて背中を見せることができずにいるのだ。
逃げる瞬間を見計らう――そのはずだった。
リュータが一歩前に出ていた。心を読み取るその前に、彼は口を開いた。
「この子が飛んでいったから。仕方なく、二人でついていった」
妖精を指差しながら目の前の少女が言う。
やはり少女の声は淡々としていたが、事情を説明してくれるのなら構わない。
「そして、一人の綺麗な少女を見つけた。その少女は吸血鬼」
「……、吸血鬼?」
「そう」
ミナが聞き返すと、少女はちいさく頷いてくる。吸血鬼といえば、大概恐ろしい怪物と同義なのではないだろうか。
(それが、この学園の敷地に?)
どこか辺境から、人間を求めてやってきたのだろうか。そんなものに出会うとは、どれほど兄は運が悪いのだろう。
ミナは事情を察して、考えを口にした。
「リュータは、その吸血鬼に襲われたのね?」
言ってから、疑問が生まれた。吸血鬼に襲われ、何故、兄は血を吸われたのではなく瀕死の重傷を負ったのだろう。
妖精が遠い目をしたまま、
「親友の奴、うっかりあたしの言葉を真に受けちゃったみたいと言うか……」
その言葉に、ミナは眉根を寄せる。なんの話をしているのか分からない。
妖精に続くようにして、少女が淡々と。
「吸血鬼だって、知らなかったみたい」
それはおそらく、リュータが知らなかった、ということなのだろう。けれども、それがどうしたというのか。
リュータが重傷を負ったことと、関係のある話ではあるはずだ。
なかなか真実を告げようとしない二人に苛立って、ミナは問い詰めた。
「どうしてリュータは傷を負ったの? リュータはなにをしたって言うの!?」
その言葉に。
妖精と少女は顔を見合わせて。
「吸血鬼に愛を告げて、怒りをかったらしく返り討ちに」
「…………は?」
思わず、ぽかんと口を開ける。
(駄目だ……。確かに先生に聞かれたくない)
なんというか、家族の恥だ。
目の前の少女が先生に話すなと言った理由を、ミナは心から痛感した。