昔々の話 たとえばそして大人になる時
鏡に映るのは金色の髪をした少女だった。
それが明らかに自分の姿だったことに、ファーミエル・デア・ラークシェスタは驚愕した。
鏡の中の少女は目を見開き、信じられずに鏡へと近づいた。いや、それは自分以外の何者でもなかったが。
「どう……して……」
つぶやきは静かに部屋に響いた。
彼女はその声に、はっきりと苛立ちを含ませる。
「どうして……っ!」
力を得た。真実を知るための力。自分と、父と母とのつながりを確認するためにどうしても必要なはずだった力。
そして今、その力のために、母とのつながりであったはずの黒髪を失った。
そんなことをしてまで力が欲しかったわけではない。
黒髪と引き換えにするほど力が大事だったわけではない。
「あ……ああ……ああああぁあああっ」
彼女はうなだれて、その場に崩れ落ちた。
大切なもの。大切でないもの。その境界がどこにあるのか、それは定かではなかった。そもそも、境界などなかったのかもしれない。自分にとってはなにもかもが大切で、気に入らないことは、すべて許せなかったのだ。だからこそ、ささいなことを問題にして、故郷の城を出た。
最初から、旅になどでなければよかったのだ。そうすれば、親とのつながりなど確認することもなく、大切な母たちと一緒にいることができたのに。
ファーミエルの耳に、声が聞こえていた。
いつまでも止まることのない、嗚咽。
それが自分の泣き声だと気付いても、しゃくりあげるのどは、目からあふれる涙は、勝手に続いて止めようもない。
暗い部屋。たとえわめこうと、自分の殻にこもろうと、誰にも邪魔されることはない。
何時間か、何日か。
どれだけの時間、そうしていたのか……
力なく、ファーミエルは立ち上がった。目の前の大きな姿見へ、手のひらを触れさせる。その冷たい触り心地を感じながら、力を込め、姿見を破壊した。
熱を持たない気持ちで部屋を出ると、特に考えもなく通路を進んでいく。襲いかかってくる罠を、無造作に破壊しながら。それをすることに苦労はなかった。そして、首にかけた神器『ロードウォーカー』が、緑色に発光しながら浮き上がり、進むべき道を示している。
(ただの道案内……か。くだらない神器だ……)
そう思いながらも、彼女は神器『ロードウォーカー』に導かれるまま、遺跡から外へ出た。
いらだたしい陽の光が肌に照りつけ、鳥たちがざわめきながらいずこかへと飛び去っていく。だが、そんなことはどうでもいいことだった。
彼女は眉をひそめた。
いつものように遺跡の前でファーミエルを待っていたらしいリクへと、見知らぬ少女が指先を突きつけている。
見た目はやや幼く、綺麗や美しいよりも可愛さを感じさせる。長い髪を風に揺らす少女は、どこか遠くの神殿にでもいそうな巫女っぽい衣装を身にまとっていた。
ファーミエルはその少女へ、低い声で問いかける。
「だれだ、おまえは?」
「こんにちは。……ちは。ファーミエル・デア・ラークシェスタ。……スタ」
いらだちを誘う喋り方だった。
少女がこちらの名前を呼んだ瞬間、その少女は光の粒となってリクから離れる。ファーミエルは、少女がなぜ自分の名前を知っているのか、よりも。
少女の正体に見当をつけて戦慄した。
「せ、精霊――だと!?」
精霊とは妖精の上位存在だった。妖精と同じく魔力によって身体のほとんどを構成しているが、そのエネルギーは比較にならないほど膨大だ。精霊にも格があり、力の強い精霊にもなれば思いつきで国を滅ぼすことすらできる。
個体数の少ない、希少な精霊たち。
その一体が、目の前にいる。
(くっ……こいつはなにを司っている? なんの力を持っているっ)
足元を粒子状にして空を飛ぶ少女から、ファーミエルはこの精霊の存在理由や、所持している能力のことを読み取ろうとしたが、
「私は世界の平和を司っている。……いる。私は電子精霊。……れい」
「考えを、読まれた……!?」
少女の、電子精霊の身体がまばゆく輝く。
それと同時に、ファーミエルは地面に転がるように前転した。それまでファーミエルがいた後ろに光の粒が集まり、少女の姿を形作る。
いつでも魔法を放てるように無言で魔法回路を構成しつつ、ファーミエルは状況に対する把握を進めた。
少女は、自らのことを電子精霊と名乗っていた。そのことに、嘘偽りはあるまい。あっさりと考えを読まれたことは気にかかったが、精霊が自らの属性の魔法しか使えないということはない。相手が読心魔法を使ってきたからといって、精神に干渉する精霊と決めつけるのは浅はかだった。
それに――遺跡にあった部屋の書き物机に置かれていた、魔法使いの手紙。その中に電子精霊の名も書かれていた。
(電子精霊の導きのままに……。つまりこいつは、私を導きに来たのか……?)
ファーミエルが警戒しながら様子をうかがっていると、少女は気負った様子もなく話しかけてくる。
「あなたは、金色の魔法使いの遺産を受け継いだのでしょう。……しょう。それは世界を滅ぼす鍵となるもの。……もの。よこしまな願いのもとに力を振るうのならば、私があなたを殺します。……ます」
「なるほど。気に入らないような奴には、力は渡せないって訳か」
電子精霊を前にして、彼女は鼻を鳴らす。
「だったらお前が恐れる忌々しい金色の力で、お前のことを消し去ってやるよ……! 私はあいにく、機嫌が悪い……!」
組み上げた魔法を解き放つと、金色の奔流が電子精霊へと迫った。だが、少女は冷静に障壁を紡ぐと、奔流を受け流す。金色の魔法は障壁によって受け流されたまま周囲の木々をなぎ倒し、地面をえぐり、さらには地下迷宮の入り口を崩壊させた。
迸る魔法と人工物が崩壊する音の中で、一瞬の輝きがファーミエルの目に焼き付いた。それが電子精霊の魔法攻撃ということには気づいたが、もとより狙いが狂っていて避ける必要もない。
が、
「う、ぁ……」
それはか細い声だった。
背後から聞こえてくる、なによりも小さく、容易にかき消されてしまいそうな、声。
振り向くことが隙を生むことだとは分かっていたが、それでも、ゆっくりとファーミエルは首を曲げる。だが、それを見たいとは思わなかった。
――リクが胸を打ち抜かれ、身体を折り曲げて地面に倒れている。
奥歯を噛みしめ、ファーミエルは電子精霊を睨み据えた。
「お前っ――――!」
胸の中を暴れだす爆発しそうな怒りのままに、更なる魔法を一瞬で構成して敵へと放つ。虚空に出現したいくつもの細長い金色の三角錐が、時間差を使いながら電子精霊へと殺到する。瞬時に発現した魔法攻撃に嬲られるように、少女の身体が揺れる。
だが、魔法が止んだ時、そこに電子精霊の姿はなかった。不意に聞こえてくる軽薄な笑い声に、ファーミエルは背後の空を振り向いた。
そこに、電子精霊の変わらぬ姿が浮かんでいる。
(魔力の集合体……っ、いくら攻撃しても意味がないっ)
殴りかかろうとも、魔法の槍で刺し貫こうとも、意味はないのだろう。大部分が魔力でできたその身体は、あらゆる攻撃を無効化してしまう。となれば、それらを統括する核のようなものがあるのではないかと考えそうになるが、妖精や精霊というものは全体がそれぞれ力を持って身体を構成しているので、弱点となる核のようなものはない。
(なら……まとめて全部消し飛ばすっ)
ちりぢりになれば身体を構成し続けることもできないだろう。ファーミエルはそう判断した。
視線を落とせばリクが血を流しながらうずくまり、身じろぎすらしない。急速に彼の生命が失われているのだ。
だが、この状況では彼に治癒魔法を施すこともままならない。思わず彼女は舌打ちした。治癒魔法の勉強など、ほとんどしていないと言っていい。勝手に傷の治癒する吸血鬼にとって、治癒魔法などさして必要でもなかった。
なんにしろ、手早く電子精霊の少女を滅ぼさなければ。
ファーミエルは倒れるリクの隣へ歩み寄った。
「繋がる世界。広がる因果――」
ファーミエルの口から紡がれる言葉。それは彼女自身の精神に作用し、感覚を誘導する。一度も唱えたことのないその呪文が、詰まることなく口から出てくるのは、おそらく身体を巡る金色の力の記憶とでも言うべきものなのだろう。
広がる魔法構成。膨大なその範囲は、ファーミエルにとって、過去最大の魔法となるに違いない。
「揺らぐ時。薄らぐ命。――――空間破砕!」
瞬間、音が止んだ。
薄い金色の光とともに視界が揺らいでいき、木々も、蔦も、大地も、目の前にあるあらゆるものが圧されるようにして壊れていく。無機物、有機物を問わず、そこにある全てが意味をなくしていった。
視界に金色以外の色が戻ってくるのと同時に、荒れ狂う突風がファーミエルを襲った。地面に踏ん張りながら、彼女はとっさに、真横で倒れている少年が吹き飛ばされないよう、その襟首を掴む。
風が終わり、静寂の中で。
彼女の眼に映るのは、遥かかなたまで、どこまでも続くえぐれた大地だった。広大な森が跡形もなく、遠くに見える山のふもとまで消し飛んでいる。
しかし、その大地の上に、電子精霊の少女は平然と浮かんでいた。
「自分の周囲の空間ごと遮断しただと……? あの短時間で、いや、そうでなくても……」
「あなたに選択を与えましょう。……しょう」
「なに……?」
語りかけてくる電子精霊の真意を見極めようと、ファーミエルは意味もなく目を凝らした。
そんな彼女を笑うようにしながら、少女が言葉を続けてくる。
すぅっと倒れるリクを指差し、
「少年は死ぬ。……死ぬ。あなたがこれからの一生で、悪さをしないというのなら、その少年を癒しましょう。……しょう」
「お前……ふざけるなよ……?」
苦い表情で電子精霊を見据えると、指の骨を鳴らす。
他人から自分の生き方を決められるのは、屈服するのと同じだ。そんなこと、プライドが許すはずもない。ただでさえ目の前の少女は気に入らない。
そうであるなら、今すぐにでも攻撃魔法を放つべきだった。
だが確かに、リクは死ぬだろう。人がどの程度で死に至るかに詳しいわけでもないが、素人目に見ても長く持ちそうにない。けれど、リクを救うために自分の生き方を曲げる……?
ファーミエルは少年を見下ろし、肺の空気を吐きだした。
人はたやすく死ぬ。リクはその時が、少しばかり早く来ただけだ。偶然出会ったただの人間などのために、自分が悩む必要はない。
自分に大切なのは、プライドと、信念と、……こだわり。
そうやって、今まで生きてきた。そのために故郷を出たし、各地を巡った。地下迷宮にて、強大な金色の力も手に入れた。引き換えに、母とのつながりであった黒髪を失ったとしても。
そして、リクと引き換えにして、自身のプライドを守ろうとしている。
ぎゅっと目を閉じ、そして開く。
電子精霊は、空の高みからこちらを見下ろしている。それを揺れる瞳で見上げながら、ファーミエルは素直に認めた。
きっと、今は、勝てない。
口の渇きを感じる。
ファーミエルは言った。
「……私がお前を倒すか、それともお前がこの世界から消え去るまで……悪事を働かないと誓う。だから…………リクを助けてくれ」
それが最大の譲歩だった。その条件を、目の前の電子精霊がのむとはかぎらない。けれども、けれども。
電子精霊が弾けて消えた。
声は横から聞こえた。
「傷は癒しました。……した。じきに目を覚ますでしょう。……しょう」
いつの間にか、電子精霊が真横にいる。
声をかけられるまで、ファーミエルはそれに気付かなかった。
「ただの人間でしょう? ……しょう。時間の流れに従ってすぐに消えゆく存在。……ざい」
「うるさい、考えが読めるんだろうが。こんなとこで、こんなことで、死んでほしくない。それだけさ」
ファーミエルはしゃがみ込むと、寝息を立てるリクの頬を優しく撫でてやった。その幸せそうな寝顔に微笑ましくなるのと同時に、あれこれ悩んでいた自分はなんだったのだろうと思えてくる。
心は穏やかだった。
ささいなこだわりを捨て、自分を曲げ、他人に屈服し、それでも。
これが、大人になるということ、なのだろうか。
電子精霊の少女が、リクの様子を眺めていたファーミエルに声をかけてくる。
「もし約束通りに、私を倒すための戦いを望むのならば、神器『ロードウォーカー』が私の居場所を示すでしょう。……しょう。その神器を決して他者へと渡しては駄目。……だめ。その神器は、私とあなたの約束の証。……かし」
「ふうん、だが……なにか他にも言いたいことがありそうな言い方だな?」
胸に揺れる神器に手を当てながら、電子精霊の顔を見上げる。だが澄ましたその表情からは、感情が読み取れない。
一度、リクの髪を撫でてやると、ファーミエルは立ちあがった。
根こそぎえぐられた破壊の跡と、森林地帯の間に、静かに風が吹いていた。立ちあがったファーミエルと、そして電子精霊の間を、ただただ吹き抜けていく。
「いいのか……私を殺しておかないで。いつかお前をしのぐ敵になっているかもしれんぞ」
「あなたは私の敵にはならない。……ない」
平然と言う電子精霊の少女に、彼女は舌打ちした。
「私ごときだと、一生お前には敵わないって言いたいのか?」
「いいえ。……いえ」
電子精霊の少女は用を終えたとばかりに歩きだし、なんの気負いもなくファーミエルの横を通り過ぎながら、彼女の言葉を否定してきた。
ファーミエルはゆっくりとそちらを振り返ったが、去りゆく少女の表情は見えない。
「自分のプライドと友人を天秤にかけて、友人を選ぶことのできる金色の吸血鬼。あなたは決して私の敵にはなりえない。他者とのつながりを大切なものとして見定めたあなたが、世界を滅ぼすはずがないから。私を倒しにくるのは構わないけれど……あなたは永遠に、私の同志」
ゆったりとした歩きはそのままに、少女の身体が淡い光に包まれ、粒子となって散っていく。
うっすらと消えゆく電子精霊の少女の後ろ姿を眺めながら。
ファーミエルは思わず叫んでいた。
「お前、普通にしゃべれるのかよ!?」
その言葉は、電子精霊のいなくなった虚空に消えていった。
残されたファーミエルは、仕方なくその場に腰をおろして今後のことについて思いをはせた。電子精霊の言う悪さとは、どの程度のことを指しているのだろうか。世界を滅ぼさないから同志だというのだから、それ以外のことは悪さではないのか。
そんなことを考えているうちに、リクが目を覚ました。
「ううん……あれぇ?」
「あれ、じゃないだろう。ほらさっさと立て。村に帰るぞ」
言いながら、彼女も立ち上がる。
だが、
「うん……でも、へ? うわ!?」
リクが空間破砕の魔法によって広がる荒れ地を見つけ、大声をあげた。呆然として動こうとしないリクに、彼女は苛立ちを隠さなかった。
「うるさいぞ。さっさと来い」
「でも……村が!」
「エイルーク村は反対側だ、このばか! こっちに遺跡の入り口……っぽいのがあるだろ」
これまたファーミエルの魔法によって破壊された入口の残骸を指差す。それを見て、リクがほっと安心したような表情を浮かべた。
その様子を見ながら、ファーミエルは鼻を鳴らしてさっさと森の奥へと歩きはじめる。そんな彼女を、慌ててリクが追ってきた。
「待ってよっ。あ、あのさ……ファーミエル、だよね?」
「さまをつけろ。それがどうしたんだ?」
「ううん、なんでもない……これからどうするの? あの、その、やっぱり暗黒窟ってところに……」
どんどん少年の声が小さくなっていく。
そこまでリクの話を聞いて、ファーミエルはようやく少年の態度の違和感に気付いた。精霊との戦いですっかり忘れていた、自分の髪を触る。
金色の髪。
リクが驚くのも無理はない。彼女は嘆息した。
「暗黒窟はなしだ。くそっ、あの電子精霊を叩きのめすまではな。行く気をなくした。暇だから、魔法でも教えてやるよ」
「ほ、ほんとに!?」
「嘘をついてどうする」
喜びの声をあげるリクを横目で見ながら、これからどうするか考える。
「本でもあれば便利なんだがな……私もあの精霊を倒すために、高度な魔法書が欲しいし。学校でも造るか……。ううむ、やはり流通も良くした方が……」
考えるべきことはたくさんあった。
だが、いつかは電子精霊を叩きのめす。そう思いながら、ファーミエルは胸に揺れる神器をぎゅっと握りしめた。
若い女の声がうるさく響いている。
彼女は神器『ロードウォーカー』を右手で弄びながら、もう片方の手で受話器を耳に当てていた。
「だからわざとじゃない……ああ、まさか人間がそんな脆いと思わなかったしな……。なんで私が自分とこの国民を殺さなければならないんだよ。最近、秘密結社だかなんだかがうろちょろしてるようだったから、警戒していただけさ」
頭の固い教師にうんざりとしながら、ファーミエルは回転式の革製の椅子をきしませた。そもそも、馬鹿なことを言った男子生徒がいけないのだ。責められるべきは自分ではない。
彼女がいるのは、中立国家ラクシスにあるエイルーク魔法学園、その隠れた一角にある小さな部屋だった。必要なものが押し込められていて、その気になればすぐに手が届く。
「いや、そっちでどうにかしといてくれ。命に別条はなかったんだろ。そりゃあ国も学園も私のものだけど、管理は王や学園長に任せてるしな。……無責任って。なあ、マリナよ。お前はどうして私にそんな口をきけるんだ?」
まだまだ話は終わらないようだったが……面倒だったため受話器を置いた。置いた瞬間に電話がふたたび鳴りだしたため、線を引っこ抜く。
「これでよし」
それっきり静かになった。
一人きりの部屋の中で、彼女は椅子にもたれながらふたたび過去の思い出について振り返った。
たくさんの思い出が渦を巻いていく。
電子精霊にはあれから何回か出会ったが、未だに戦闘はしていない。最初に出会った時の電子精霊の強さを自分がまだ超えていないことは、もう一度戦ったりしなくても分っていた。
だから、神器『ロードウォーカー』を誰かに奪われるわけにはいかない。
たとえ相手が、数多の魔法使いを倒している秘密結社だったとしてもだ。
「いつか電子精霊を超えて、そしてようやく私は、懐かしのデファルトバーン城へ帰ることができる……」
その時まで、どれだけかかるかは分からないが、決して諦めるつもりはない。
脳裏に浮かぶのは、何百年も前に会った母たちの顔だった。
「なあ、母よ。ファーミエルは元気でやっているよ……」