昔々の話 たとえばやっぱり子供の時
凍える息、震える肌。辺りは空気中の水分が結晶化し、白く埋め尽くされていた。その白い靄の中に、潜む者がいる。
自分を取り巻く靄。その中心にいる自分。それらをファーミエルは他人事のように感じていた。
大陸中央部よりやや南方の山脈にある、雪山の中腹。木々もなくなだらかなその場所で、彼女は雪に足をとられることを嫌い、魔法によって宙に浮かんでいた。一瞬の行動の遅れは、戦闘において取り返しようのない隙となる。
意識は、集中しない。張り詰めた意識は逆に脆くもなる。
宙に浮き自然体で、ただあるがままに、彼女は周囲の気配を感じた。相手は、白い靄の中のどこかにいる。
刹那――
靄から男が飛び出してきた。その男の握った氷の槍が、彼女の腹部を根こそぎえぐり取っていく。激痛が走り、鮮血が大気に舞う。その血も氷の槍の冷気に触れて凍りついていった。
(気にするなっ……この痛みは、他人事でいい! それより、早く――)
歪む視界に映るのは、男の勝ち誇った笑みだった。ファーミエルはわずかながら、どうにか、口を開く。ただ、呪文を維持するために。次の瞬間、男の体に黒い三角錐が突き刺さり、男はそのまま白い地面に激突した。
「ぐっ、かはっ……」
男を見下ろしながら、彼女は吐血した。血で濡れた口を拭い、無理やり乾いた笑みを浮かべる。
そして戦闘が終わり、彼女が最初にしたことは、凍りついた傷跡を炎の魔法で溶かすことだった。その痛みと疼きに、うめきをあげる。
男は死んだ。そして、自分は生き残った。吸血鬼であるという理由で。だが、傷ついた肉体が再生するまでには、もう少し時間がかかるだろう。
彼女はそっと白い地面に降り立つと、動く気力もなく、冷たい雪の上に倒れ伏した。ただ一言、呟く。
「死ぬ……かと、おもった……」
かつん、かつん……。
暗い闇の中、響くのは彼女の足音だけだった。
吸血鬼は闇の中でも周囲を見渡せるが、そこに闇があることや光があることを理解できる。石の階段を上って遺跡の外へ出ると、彼女は木々の間から射す陽の光に目を細めた。
背後にあるのは、遠い昔に強大な力を振るったとされる魔法使いの隠れ家だった。主をなくしたその遺跡には、魔法使いの強大な力の秘密が隠されているのだという。その秘密を狙って遺跡に挑んだ者は多いが、それらの者が秘密を手に入れられなかったのは、隠れ家までに広大な迷宮が広がり多大な罠が仕掛けられているからだった。
(そして私も、手に入れられず逃げ帰ってきたものの一人……か)
とはいえ、ただで戻ってきたわけではない。ファーミエルは一人ごちた。
もうすでに、迷宮には何度も挑戦していた。手書きで地図を描き記し、探索範囲を広げている。その地図を丸めて懐にしまうと、彼女は顔をあげた。
この遺跡は、ほとんど人里離れた森林地帯にあって、誰かが通りかかるような場所ではない。が、少年がいた。大きな岩の上に寝転がっている。彼はファーミエルの姿に気付くと、慌てて駆け寄ってきた。
ファーミエルはため息交じりに言った。
「……、また来たのか。リク」
リクは、この遺跡の近くに唯一ある、エイルークという村に住んでいる少年だった。背は低く童顔で、人懐っこさを感じさせる。
彼は顔をほころばせながら、ファーミエルが無事に戻ってきたことを喜ぶような様子で言ってきた。
「当たり前だよっ。だって、まだ魔法を教えてもらってないもん」
「教えるなんて一言もいってないだろ。面倒くさい」
「えー……?」
リクは不満げな顔をし、すぐにころころと表情を笑顔に戻した。
そして、岩に登ろうとしているファーミエルに訊いてくる。
「ねぇ、すごい魔法の力ってのは見つかった?」
「すごい魔法の力を身につけたように、見えるか?」
「……僕には分かんないけど」
「ま、見た目で分るものでもないしな……今日もダメだったよ。勝手に喜べばいいさ」
鼻を鳴らして、岩の上に寝転がる。多少背中のあたりがごつごつしているものの、休息は必要だった。
リクが申し訳なさそうに言う。
「この前のことは悪かったよ。だって、すごい力を手に入れたら、ファーミエル……さま? がいなくなっちゃうと思って……」
前にしつけたとおり、リクは名前に敬称をつけていた。疑問形なのが気にはなったが。
そんな彼に、ファーミエルは素っ気なく答えた。
「そりゃ、力さえ手に入ればこんな所に長居はしないさ。私が目指すのはファゼムの暗黒窟だ」
暗黒窟とは、隣国ファゼムの一角にある、人の寄りつかない小さな洞窟だ。そこは吸血鬼たちのねぐらになっていて、吸血鬼はたびたび人里におりて人の生き血を啜るのだという。
暗黒窟に行くのがファーミエルの願いだった。そこでならば、書物にさえ詳しく書かれない、吸血鬼の生態が分かるはずだった。
いったい、自分がどうやって生まれたのかも。
想いを馳せる彼女に、岩の上に登ってきたリクが四つん這いのような姿勢で訊ねた。
「その、仲間の吸血鬼に会いに行くのに、どうしても力が必要なの?」
問いに、ファーミエルは失笑した。
「同族だから仲間だというのなら、お前の村も他から取り残されて小さくなってなどいないだろ。緩衝地帯にある小さな村。いつ争いになるともしれないから、そんな緩衝地帯があるのさ。お前だって、村を守るために魔法が覚えたいんだろう?」
「ぼ、僕は獣とかから村を守りたいだけだよ」
リクは身を乗り出して言ってくる。
けれども彼女は、少年の反論を一笑に付した。
「なんだっていいさ。どっちにしろ人間同士で戦争が起こるのは事実なんだ。暗黒窟の吸血鬼たちに、私が受け入れてもらえるかは分からない。そして――」
寝ころんだまま、枝葉の隙間に見える光へと手を伸ばした。そうしながら、彼女は思い起こすように目を細める。
「あの雪山のような使い手がごろごろいるようなら、私は死ぬだろうな」
「雪山……?」
「……いや、なんでもないさ」
ごまかすように首を振った。
たしかに暗黒窟には危険があるが、それだけの価値はある。少なくとも、吸血鬼の噛んだ相手がどうなるのか、それを知ることはできる。
だが、他に方法がないわけでもなかった。
(実際に噛んでしまえば、それでこと足りるわけだ……)
ファーミエルは、いまだに誰かから血を吸ったことがなかった。この危険な旅の中でそんな余裕がなかったのも確かだったし、最初に噛む時ぐらい――なんというか、まあ、良さそうな相手を噛みたいと思っていた。
そんな相手として、物足りないのかもしれないが、
(妥協としては、有り……か?)
判別はつかなかったがファーミエルは身体を起こした。リクはいつの間にかなにかをしていたが、様子に気づいて彼女を見上げた。
そんなリクに、言う。
「なあ、リクよ。一度、私に噛まれてみないか」
「え……?」
目の前の少年は、明らかに戸惑った表情をしていた。言葉の意味が理解しきれずに、雰囲気に押しつぶされそうになっている。
ファーミエルはそっと、顔を近づけていった。
生い茂る木々の中に、自分とリクの鼓動だけが感じられる。いつの間にか、リクの顔がわずかに赤くなっているような気がする。自分の身体が熱を帯びているのを、彼女は感じた。
空気は澄んでいた。そのはずなのに、どこか息苦しい。ファーミエルが彼の首筋へと添えた指は、緊張に震えて止めることもできない。周りを流れる時間が、どこまでも遅く感じられた。
ためらいと未知への興奮とが、ないまぜになって不思議な感情を作りだしている。世界に自分と、そして目の前の少年しかいないような、そんな気分にはさせてくれた。
――ふと、視界の端に、彼の抱えた包みが見えた、
瞬間、彼女はふっと息を吐く。
その息が顔にでもかかったのか、リクはくすぐったそうに肩を強張らせた。
「……なんでもない。冗談だ」
ファーミエルはそう告げると、彼の頭を優しく撫でた。
リクはきょとんとしていたが、気にする必要はない。ファーミエルは、彼から身体を離すと、再び岩の上に勢いのまま寝転んだ。強打した後頭部が激痛を訴えていたが、これもまた、気にする必要のないことだった。
素っ気なく訊ねる。
「その包みは、またいつものあれか?」
「うん。エーシアがまたお弁当作ってくれたんだ。一緒に食べよ」
「お前な。どうしてあの娘が弁当作ってくれてるか、分かってないだろ」
「友達だからでしょ?」
「あの娘も、救われないというか、報われないというか……うーむ。私が一緒に弁当食べていることも知らんし」
「?」
リクは不思議そうな顔で首をかしげている。
それを見てファーミエルは、エイルーク村にいるはずの少女を思いながら嘆息した。
結局、噛まないのなら、昔の大魔法使いの遺産を手に入れるしかない。闇を見通す吸血鬼の目で、彼女は魔法使いの住居だったであろう部屋を、その入り口から眺めた。見つけるまでは苦労したものだが、いざ見つかるとなるとなんということもない。
そこは予想に反して、質素な部屋だった。
壁際には朽ちかけた本棚とタンス。そして反対の壁には、ファーミエルを足元から頭まで映せるような大きな姿見が置いてある。
その鏡より奥にベッドがあって、正面には、書き物机が見えた。
(綺麗なものだな……)
思ったほどに、塵もシミもない――
当然といえば当然だった。ここは魔法使いの住居区間……つまりは、この迷宮の最終到達地点。自分以外、だれも辿り着くことができなかったに違いない。肉体が風化してできた塵も、傷を負って溢れだした血によるシミも、この部屋にはない。
ゆっくりと部屋の中へと歩きながら、彼女は考えていた。ここで魔法使いの秘密を手に入れ、力をつければ、もうこの土地には用がなくなる。二度と来ることもないだろう。リクやエーシアに、再び会うことはない。矮小な人間に対して寂しいと思うことは、高貴な血筋として許せないことだし、意味がなかった。
人間は、死ぬ。
なによりも寿命の面で、人間という種族は吸血鬼に遠く追いつけない。幼子が老人に成長する間、吸血鬼である自分は姿も変えずに生き続ける。
軽くかぶりを振って、ファーミエルは足をとめた。
姿見に自分の姿が映っている。
黒い外套を羽織ったひとりの少女がそこにいた。故郷であるアウソロート山脈、デファルトバーン城を旅立った時から、なにも変わっていない。破けた箇所を魔法によって復元した外套が、もしかしたら多少は変わっているかもしれないが、気にすることでもない。
鏡の中の少女は子供の幼さを輪郭の丸みに残しながらも、端整な美しさを周囲へと滲みださせていた。
そして、黒い髪。
艶やかな黒髪は腰まで伸びていて、その黒髪に遠い母とのつながりを感じた。
(長い、旅……決して短くはない)
その旅の意味はあったのだろうか。今さら考えても、仕方のないことではあったが。
感傷をやめると、ファーミエルは迷わずに机と近づいた。本棚は朽ちかけ、並べられたいくつかの本も触れれば崩れてしまいそうに思えた。それとは違い、机のほうはしっかりとしている。
ふと、迷宮の罠を思い出した。あの罠はおそらく、この部屋に住んでいた魔法使いが仕掛けたに違いない。物理的、機械的な罠もあったが、魔法的な罠も多かった。自分でそれらを仕掛けたのであれば、それは魔法技術師ということになる。
(ここの魔法使いは、魔法道具の作成まで習得していたのか……?)
両方を学ぼうとする者は、多くない。魔法の習熟には才能と、そして長い鍛錬が必要となる。そして魔法技術師は、通常の魔法とは別の、専門的な知識に精通する必要が出てくる。
特に理由がなければ、どちらかに絞るのが一般的なはずだった。
目の前の古びた机。他のものとは違って状態がいい。おそらくは、これ以上古くならないように魔法道具化されているのだ。
机の上にはいくつかの物があったが、目を引いたのは、目立つよう真ん中に置かれた小瓶と手紙、そして細かな模様の入った懐中時計だった。ふたをされた透明な瓶の中には、金色の液体が入っている。
ついさっき書いたと言われても信じてしまえるような、真新しい手紙。ファーミエルはまずそれを手に取って、文字に目を通した。
「この手紙を読んでいる者が、善であろうと悪であろうと構わない。ただ、自らの願いを叶えることだけを祈る。そのための力を欲するなら、小瓶の中身が手助けとなるだろう。いつか来る世界の破滅。金色の夜。神器『ロードウォーカー』……そして、電子精霊の導きのままに……?」
不可解なことが書いてある。その上で、手紙は核心に触れずに終わっていた。世界の破滅とは、そして金色の夜とはなんだ?
彼女は机の上の懐中時計の鎖を摘まむと、そっと持ち上げた。
「神器『ロードウォーカー』……か」
この時計以外に考えられなかった。よく見れば、時刻も刻まれていない。軽く、それでいて頑丈らしく、強く握ってもきしみすらしなかった。
鎖を首にかける。思っていたよりもしっくりと、時計が胸にぶら下がる。
「ふぅん……、後は」
ファーミエルは残った瓶の口を持ち、わずかに振った。金色の液体が小瓶の中で波打ち、軽やかに水音を立てる。
彼女は慎重に小瓶を目線の高さまで持ち上げて、中身について考えた。手紙には、力を欲するなら、と書いてあった。
力は欲しい。そのためにこの部屋までやってきたのだ。
だが、中身はなんなのだろう。この金色の液体を、飲め、ということなのだろうか。得体のしれない液体。もしかしたら、毒という可能性もありうる。ここに住んでいた魔法使いが、力を欲する愚かな者に、裁きを与えようと思っていたのかもしれない。
考えても答えは出ずに、多少の匂いでも嗅いでみるつもりで、彼女はふたを開けた。親指ではじいたコルクのふたが、音を立てて机に転がる。
そして、一瞬だった。
液体はうごめき小瓶から這い出ると、彼女の手へと染み込んでいく。とっさに瓶を手放すが、意味はない。液体はすべて、ファーミエルの手の中に消えた後だった。
「な……!?」
まじまじと手の甲を見つめる。いきなり手が腐りだすでもなく、なにも変わったところはない。
いや。
ファーミエルは意識を凝らすと、魔法を放った。黄金の炎が螺旋をえがき、集中が途切れるのと同時に消える。呪文を唱えたわけでもなかった。それなのに、一瞬で魔法回路の構成が組み上がり、容易でない魔法が発現した。
身体の中に膨大な力が渦巻いているのを感じる。
「は、はは……っ」
これならば、暗黒窟の吸血鬼とも十分に渡り合えるだろう。父とさえ張り合うことができるかもしれない。それほどの力。
もうなにも、恐れるものはない。
ファーミエルは起こった事実に実感がわかず、ただ後ずさった。
ふと、脇にあった姿見に視線が向かう。
そして。
鏡に映るのは金色の髪をした少女だった。
それが明らかに自分の姿だったことに、ファーミエル・デア・ラークシェスタは驚愕した。