影送りの朝に
マイノール・タイスンはその日の夜明け、小さな荷物を持って馬に乗り、王都のはずれにある丘へ出かけた。
ようやく春めいてきた。最近は明るくなるのも早い。雪の少なくなってきた神山の頂を、彼は馬上から見上げる。
戦争と、それにまつわるごたごたもようやく目途がついてきた。
公爵の妻子と共に避難しているタイスンの妻子も、近々迎えに行く予定だ。
この季節になれば思い出す。
お前は護衛官を辞めたいと思ったことはないのか、と、友に問うたことを。
友は真顔で答えてくれた。
当時タイスンが、真剣に悩んでいることを知っていたからだ。
『結局のところ、俺はセイイールさまの護衛官以外、やりたい事が他にないからさ』
トルニエール・クシュタンの、真っ直ぐ過ぎるほど真っ直ぐな言葉が耳に甦った。タイスンは思わず苦笑いし、つぶやく。
「……愛の告白かよ」
あの日、茶化すようにタイスンが言った言葉だ。
するとトルーノは、忠誠の誓いなど愛の告白みたいなものだと言って、からりと笑った。
(みたいなもの、どころか。愛の告白そのものじゃねえかよ)
セイイールさまのそばだけが自分の居場所だと、いつか何かの時に言っていた。
恋愛的な意味合いではなく、宗教的な意味合いに近い印象を受けた。
狂信者では決してないが、殉教者のような目でそう言っていたのを今でも覚えている。
(……セイイールさまと会えたか、トルーノ)
レクライエーンの裁きの後、人の魂は、生まれ変わりの順番が来るのを待ちながら、大抵はゆるゆると眠っているのだと言う。
たまさか親しい者がそちらへ行くと目を覚まし、生前のように親しく笑い合って酒や茶菓を楽しみながら過ごす、と言われている。
今頃きっとトルーノは、あちらでセイイール陛下と葡萄酒でも酌み交わしているだろう。
トルニエール・クシュタンは寂しい男だった。
父に早くに死なれ、母が王子の乳母になったところまではタイスンと同じだが、広い春宮で邪魔にされながら幼児期を過ごした彼と、家庭的な小さな離宮で大人たちに可愛がられて育ったタイスンとでは、心の芯に抱える寂しさの絶対量や在り様が、ずいぶん違うだろうとタイスンは思う。
違うだろうが、それを察せられたのは実は最近になってからだ。
タイスンが結婚した時。
息子が生まれた時。
その息子がよちよち歩くようになった時。
タイスンはトルーノへ、お前は家庭を持たないのかと言った。
タイスンの幼い息子を抱き上げ、ああ可愛いな、と本気で言っていたので、
「自分の子ならもっと可愛いぞ。お前もいい加減、身を固めろよ」
と、軽い気持ちで言った。
トルーノは曖昧に笑い、ああ、まあそのうちになと、何故か奥歯に物がはさまったように答えた。
優雅な容姿の男前な上、近衛武官の精鋭である護衛官。
同じ護衛官でも無骨でぶっきらぼうなタイスンと違い、トルーノは昔からよくもてた。
二十歳頃までは恋人の影もあったし、二十代半ばくらいまでは娼館へ遊びに行くこともちょいちょいあった。
成人の儀を終えた日の夜、ラクレイドの若者は娼館へ行き、女との行為に慣れるのが昔からの習わしだ。
その日、タイスンを娼館へ連れて行ってくれたのもトルーノだった。
しかし彼の周りから徐々に女の影が消え、最近では娼館へ行くのも稀だった様子だ。
仮に娼婦であったとしても、馴染みにならないよう気を付けているようだった。
そこまでする理由がタイスンには正直わからないが、トルーノらしい気はした。
トルーノなりの、人生の筋の通し方なのだろう。
あいつは、いつ死んでもいいよう身辺を綺麗にしておきたかったのだ。
逆に言えば、いつでも死ねるつもりで生きていたのだ、セイイール陛下が健勝だった頃から。
丘の頂上に着いた。
王都の下町が一望できる。風は無いし天気もいいから神山もはっきり見える。『影送り』にはぴったりだ。
ひとつ大きく息をつき、タイスンは、馬の背から削いだ薪の束と荷物を下ろす。
『影送り』はラクレイドで古くから行われている弔いの行事だ。
人は死ぬと月が一巡りするする間、この世にとどまって懐かしい場所や人に別れを告げて回る、とされている。
その『一巡り』が済むと、死者の霊はこの世とあの世のはざまの扉を開け、レクライエーンの御前に立つ。
その時に死者の霊が迷わないよう、生前の愛用品をなどを燃やして見送るのが『影送り』だ。
戦死したトルニエール・クシュタンの、月の『一巡り』は本来ならもうとっくに済んでいる。
遺品を受け取った彼の母親が、おそらく『影送り』をしただろう。
あまり仲が好いとも言えない母子だったが、彼女だって息子に愛情がなかった訳ではない。
要するに彼女は、愛するより愛されたい人だったというだけだ。
そういう母親を持った子が幼少時、どれほど寂しかったかということは、彼女の息子への愛とは別の話になるだろう。
だからこれは、タイスンの感傷だ。
わかっているが、こうでもしないと友の死を静かに受け入れて認める、踏ん切りがつかない。
多くの敵の返り血と自分の血で汚れた、痛ましいトルニエールの遺体がタイスンのまなかいに浮かぶ。
だが血まみれのその顔は、意外なほど安らかだった。
いっそ赤子のように無垢だった。
明日の朝には起き出し、元気におはようと言いそうな明るい顔で、タイスンの友は絶命していた。
ため息をもうひとつつき、タイスンは火を起こし始める。
トルーノは元々、戦死を覚悟していたらしい。
状況から考えれば、あの頃のフィスタで戦の中へ飛び込むということは、死を覚悟していて当然かもしれない。
タイスン自身も最悪の事態を、決して絵空事とは思っていなかった。
ただ平時から死を覚悟していたらしいトルーノは、戦死の覚悟も徹底していた。
一時的に寄宿していたフィスタ領主邸の彼の部屋には、身の回りのものがきちんと片付けられ、死後の手配を書いた手紙がいくつか添えられていた。
デュクラに潜む際に切り落とした髪も、小金を含む遺品と一緒にまとめられていて、死後は母へ送ってくれという伝言が、住所と共に残されていた。
それ以外は普段着や下着類、石けんや剃刀などの日用品、武器の手入れをする為の小さな砥石や膠……などだ。
そのまま捨てて差支えのないものばかりが、敷布を畳んだ寝台の上にきちんと並べられていた。
後は小卓の上に置かれた、飲みかけの赤葡萄酒とキャラメルが少し。
子供の頃からキャラメルが好きだったが、いい歳をしたおっさんになってもキャラメルが好きだったのかと、見つけた時、タイスンは思わず泣き笑いした。
タイスンは形見として、愛用の剣と護身用ナイフをもらった。
処分するしかなさそうな、よれた普段着のシャツもついでにもらった。
落ち着いたらこれで、個人的に『影送り』をしようと思ったのだ。
「ずいぶん遅くなってしまったな。悪かったよ、トルーノ」
火が起こったのを確かめた後、タイスンはつぶやいた。
死者の形見をもらう場合、神殿で清めた水につけたり拭いたりして、死者との霊的な関りを断ってから使う。
逆に『影送り』に使う物は、黒い布で巻いたり、黒い袋に入れて保管するのが慣習だ。死者の念が残ったままにする為だ。
念の残った物を燃やすことで、死者は己れの死を改めて自覚し、レクライエーンの御許へ逝く覚悟が出来るのだとされている。
『影送り」はだから、本来早めに行うことが望ましい。
死者の念を生者の世に引き止め続けることは、どちらにとっても決していいことではないとされている。
荷物を入れた巾着袋から、黒い布袋を取り出す。
中にはあの日、フィスタから持ってきた彼のシャツが入っている。
袋からシャツを出す。すでに古着めいたにおいがした。
袋もろとも、タイスンはシャツを火にくべる。意外と湿気ていたらしく、もぞもぞと煙を上げながらシャツは燃えた。
思わず軽く咳き込んだ。
その時、軽い足音がこちらへ近付いてきた。
振り向き、タイスンは目を見張った。
「公爵」
足を止めるとその人は、タイスンへ軽く笑んだ。
「一緒にトルーノを送らせてくれ」
「あんたこんなところでうろうろしていて良いのかよ。いい加減、身分をわきまえろよ。ひょっとして、クラーレンを撒いてきたのか?」
「まさか」
公爵は苦笑する。
「ちゃんと事情を話したよ。ふもとまで送ってくれた。目的地の頂上にはタイスンがいるからと言ったら、お気を付けてと送り出してくれたよ」
「……あいつは護衛官失格だな」
タイスンが眉をしかめると
「まあそう言うな。さすがに少し離れて、若いのが後ろからついてきている。クラーレンなりに気遣ってくれたんだろう」
公爵は言い、タイスンへ何か小さな紙包みを放り投げてきた。キャラメルだった。
「昔、我々が子供だった頃に食べたキャラメルに近い味がする。フィスタにある小さな菓子屋のものだ。トルーノはこれが好きだったらしい、ちょいちょい買っていたんだそうだよ」
包み紙をむき、この国で最も高貴な血脈を受け継ぐお方は、もぐもぐと幼児のようにキャラメルを食んだ。
つられたようにタイスンも、包み紙をむいてキャラメルを口に入れた。キャラメル独特の苦みが薄い、子供の好む甘ったるい味が口中に広がった。
途端にタイスンの目が決壊した。
バタバタと涙が流れ落ち、押し止めようとしても嗚咽が漏れた。立っていられなくなり、しゃがみ込む。
「トルーノ……トルーノ!」
流行り病を避ける為、六、七歳の頃にトルーノは、タイスンたちの住む離宮・睡蓮宮へと一時的に避難してきたことがある。
見知らぬ場所へほとんど独りで連れてこられた幼いトルーノは、心細かったのかわんわん泣き出した。
タイスンは処置に困り、泣き止ませようと手にあったキャラメルをトルーノの口へ押し込んだ。
今思うと、無茶なことをしたな、だ。
だがお陰でトルーノは泣き止み、タイスンたちと一緒におやつを食べたり遊んだり、出来るようになった。
あの日以来、トルーノはキャラメルが好きなようだ。
キャラメルと一緒に睡蓮宮、そしてタイスンを、多分あの時に好きになってくれたんだと思う……。
「トルーノ!」
うめくように友の名を呼ぶタイスンを、アイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノ公爵は、熱くうるむ目頭を押さえ、見守った。
朝のさわやかな空気の中、白い煙は神山へ向かい、やわらかくたなびいていた。