1話 説教
俺にはかつて、尊敬する人がいた。
その人は、酒が大好きで、いつも誰にも見つからないように眠くなるまで延々と酒を飲み続けるような人だった。ワインでもウイスキーでもカクテルでも、アルコールがあれば全部同じだと言いながら、ジュースを飲んでいるみたいにあっという間にグラスの酒を飲み干した。
「こんな姿、お前以外には秘密だからな」
よくそう言っていた。
その人は、頭がよくて、優しくて、誰からも好かれていた。酒を飲んでいてもその人格は変わることがなく、むしろ酔っているのかいないのかもわからない。ただ、気持ちよさそうに、酒を飲んで顔を赤くするだけだ。
でも、自分だけにその顔を見せてくれるのがうれしかった。兄さん、兄さん、と言いながら、姿を見かけるたびに背中を追いかけていたものだ。
こんなことを教えてくれたことがある。
「あんまり真面目に生きようとするなよ」
俺ってそんなに真面目に見える? そう聞いたら、迷わず肯定された。
「くだらないことも、すごく大事なこともこの世にはある。くだらないものには手を抜いて、大事なものにだけ精一杯尽くすんだ。でないと、いざというとき、疲れて何もできなくなってしまうぞ」
そうなのかな。正直よくわからなかった。
でも、兄が真面目な顔をして言うものだから、すごく大事なんだろうなと子供心に感じていた。
そんな兄が亡くなったのは、一族がそろって食卓を囲んでいるときだった。
いつものように、平然とした顔でワイングラスを傾けていた兄が急に苦しみだした。
食器が雪崩れ、兄の体も床に投げ出される。
俺には何が起きたかわからなかった。ただ、血を吐き出し、白い床を濡らしているさまを見ながら、現実ではない出来事のように感じていた。
世界が遠くなる。視界が定まらず、ただぼやけた視界に広がる赤の色を呆然と眺めるしかなかった。
兄が、喉元をおさえながら、こちらを見ていた。
俺は、焦っていた。なんとかして、この兄を苦しみから助けたいと思いながらも、足が震え、心が沈み込み、どうすることもできなかった。同時に、そんな自分を恥じた。
――この日のことを、俺は何度も何度も夢に見る。
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「シルヴィルト王子」
俺は、目を開けた。
夢を見ていた。幸せだったときの夢と、深い絶望を味わったときの夢。
しかし、目の前に広がるのは、つまらないくらい白くて大きな天井だ。うざったいくらいにきらびやかなシャンデリヤがちらちら光っている。
「シルヴィルト王子!」
くそ、まだ寝ていたいのに、いちいち起こしやがって。
俺は声とは反対側に体を向けて、再び目を閉じた。
「王子!」
「あ?」
叩かれたので仕方なく、体を声のほうに向けると、すぐ横に執事のムースがいた。ご丁寧に、恭しく上半身を曲げながら唾を飛ばしていた。
「いつまで寝ていらっしゃるのですか! しかも、ベッドではなく、ソファに寝るなんてはしたないにもほどがあります!」
あんまりにもうるさいので、体を起こした。
鳥の鳴き声が重なり合って聞こえてくる。もう朝だろう。日差しが、窓からベッドのほうに差し込んでいるのが見えた。ベッドの数メートル先にソファがあり、俺はそのうえで眠っていたらしい。ソファの近くの、ブラックウォルナットのテーブルの上に、酒瓶が何本も並べられていた。飲みすぎて寝てしまったらしい。
「あー、悪いな、片付けといてくれ」
「はぁ?」
こいつ、相変わらず、口が悪いな、とムースを見て思った。
「いつもいつも言っているじゃないですか! 若いうちに酒の飲みすぎは体に良くないと! しかも、蔵から勝手にブリュンデルのワインを持ち出した挙句、ソファやカーペットを汚しながら飲むなんて! そのまま寝るなんて! 非常識にもほどがあります! わたしはね、あなたのためを思って――」
ばかばかしい、そう思って、あくびして寝ぐせだらけの頭を掻いていたら、うるさいほどの説教はいつのまにか小さなため息に変わっていた。
「……早く着替えて、食事をとってください。説教は後にします」
「へいへい」
どうせ説教なんかしたって俺は変わる気がないんだけどな。
仕方なく、ワインで濡れたカーペットに足をつけ、立ち上がる。足が濡れて気持ち悪いので、少し移動したあたりで、カーペットに足をこすりつけながら、クローゼットのほうまで向かう。寝巻も汗で濡れていて、なんだか気持ち悪かった。
クローゼットの近くの丸テーブルの上のベルを鳴らすと、続々と侍女たちが部屋の中に入ってくる。俺が、クローゼットを顎で指すと、無表情で彼女たちは俺の寝間着をはぎ、着替えの手伝いをしてくれる。
毎日ご苦労さんだねえ、なんて思いながら、いつも着ている煌びやかなシルクの服をじっと見る。
俺みたいなやつ、ほんとはみんな大嫌いだろうに。
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俺は、十五年前、第四王位継承者として生を受けた。
生まれたての頃は体が小さく、生後間もなく死んでしまうのではないかと心配されていたらしい。しかしながら、乳母の丁寧な育児により、何事もなく成長することができたようだ。今のところ、体格にも問題は生じていない。
5歳になると、貴族以上の者はすべて魔力を測定することになる。
この世において、魔力というのは絶大な力を持っている。
神は昔、大きな災害に素手で立ち向かわなければならない人類を見て、頭の中にイメージした事象を具現化する術を与えたといわれている。そのおかげで、すべての人類は魔力を手にし、なかでも一部の人間には強大な力を与えた。
強大な力を手に入れた人間は他の人間を支配するようになり、いくつもの国ができた。
この国、トリトロンもその一つだ。
俺は一応、王様の息子らしいので、仕方なく、みんな面倒を見てくれている。
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「ところで、王子……」
少し落ち着いたらしいムースが言った。
「食事のあと、ビリヤンカ様がお呼びです」
「母様が? なんでさ」
「日頃の行いのせいでしょう」
俺は、すべての衣装に袖を通して、姿見のほうに向きなおる。
ブロンドの髪の一本一本はきれいだが、寝ぐせがひどすぎて、醜いありさまだ。二日酔いのせいで若干顔色も悪い。侍女たちのおかげで、着こなしは万全だが、それだけだ。
「こちらへ……」
侍女に促されるまま、化粧台の前の椅子に座る。髪の毛を梳かれ、蒼い顔を化粧で塗りたくられる。
「そういえばさぁ」
ムースを指さしながら、言う。
「蔵の酒がもうほとんどないぞ。補充してくれ」
侍女たちは優秀だ。あっという間に髪はサラサラに、顔はつやつやになっていた。
返事が一向にないので、振り返る。
ムースが、顔を真っ赤にし、ぷるぷる震えながら手を握りしめていた。
ドアを二回ノックする。
「お母さま、シルヴィルトです。お呼びとのことでしたので、参りました」
「入りなさい」
失礼します、と言いながら、扉を開ける。
シンプルな部屋だ。赤の色を基調に調度品が設えられている。無駄なものはほとんどなく、あるものはすべて、丁寧に並べられている。机の上の化粧品は口紅の一本一本に至るまで、等間隔で立てられている。この部屋の主の性格を表しているようだ。
奥のテーブルのまえに、その人はいた。
正室であり、白銀の玉女と言われた、ビリヤンカ・デュ・トリトロン。
何人も子を産み、年をとったにも関わらず、美しい姿を保っている。
ピンと背筋をのばしたまま、ビリヤンカは言った。
「なんで呼ばれたかわかっているかしら?」
俺は、ため息をこぼした。
「楽しい楽しいお説教です」
「楽しくありませんが、そのとおりです」
ほんとひまだよねえ。俺のことなんかほっとけばいいのに、真面目なんだから。
「あなた、トリトロンの王族の家訓を覚えているかしら?」
「ええ」
「言ってみなさい」
俺は、手を後ろに組み、頭を斜め上に向ける。
「王族はすべて、民のために尽くすことを考えなければならない。
民のために王族が存在し、王族は民のために存在する。
忠実にこの信念を実行するために、三つのことを守らなければならない。
一つ、王族はすべて、良心と誠実さをもって、事を考えなければならない。
一つ、王族はすべて、勉学に励み、民を害さず益をもたらす術を身につけなければならない。
一つ、王族はすべて、自分の言葉を持ち、自分の考えを説明しなければならない」
何度も何度も叩きつけられた内容だ。さすがの俺でも覚えている。
「そう」
ビリヤンカ王妃は立ち上がり、閉じた扇子を掌に叩きながら近づいてきた。
「王族に必要な要件は3つ。心と知識と言葉。民を導くためには、民のことを思いやること、思いやったうえで、それを実行する能力、導くためのカリスマがどうしても必要なの」
俺の鼻のうえに、扇子の切っ先を乗せる。
「そして、これらは、次期王になる者だけでない。王族全体に必要なの」
「はい」
顔が近づき、怖いくらいに見開かれた目が眼前に突き付けられる。
「あなたの心は、最悪よね。毎日、酒を飲み、誰に対しても礼節をわきまえない」
「反論のしようもありませんね」
ビリヤンカ王妃は、顔を離した。ゆっくりと俺の横へと歩き始める。
「そして、あなたの知識はすっからかん。当然よね。勉強していないんだから。家庭教師が行った試験も、ほぼ0点と聞いているわ」
「事実に相違ありません」
俺の背中側に回ったのがなんとなくわかった。
「それらがない以上、あなたには自分の考えも言葉もない。3つ目も当然クリアしていないわね」
「面目ないですなぁ」
はっは、と笑っていると、ビリヤンカ王妃が振り返った。その目が吊り上がるのが見えた。
「笑っている場合!? あなたは今の状況がわかっているのかしら?」
ビリヤンカ王妃は、甲高い声で叫んだ。
「最低最悪の王子とうわさされているわ! この国は王族が誇り高い精神で守ってきた。その精神をことごとく裏切るような王子、初めてだって!」
怒りにまかせてまくしたてていたが、やがて柔らかい声で俺に語りかけてきた。
「5歳のときに測った魔力は、過去最低クラスの12だったのはしょうがないわ。あなたがやけになり、苦しむ気持ちはわかる。でもね、そんなことはいいじゃないのよ」
こころなしか、表情も優しくなったように見える。
「王族に必要な能力に、魔力は挙げられていない。それは、王には誰かと戦う必要なんかないということよ。求められるのは純粋な人としての人望や能力。どんなに魔力が低くても、あなたが第四王位継承者でも、真面目に努力していれば認めてくれる人は必ず出てくる。王になれなくても、王を補佐することもできる。そうすれば、あなたは尊敬される人になれる。いい? これは、あなたのためを思って言っているのよ」
ありがたいことだ。俺は、あくびを噛み殺しながらそう思う。
王妃はつづける。
「15になった以上、あなたはもう一人前の大人として扱われる。これから先、あなたがどうなるのか心配で心配で仕方ないの。王族とはいえ、あまりにも放蕩が過ぎる場合は、勘当され、王宮から追い出されることだってあり得る。今の今まで見逃されてきたのは、それでもいつかあなたがまともになると信じている人がいるからなの。国王だってそう考えていらっしゃるわ。自分の子供だもの。ぎりぎりまで信じていたいのよ」
ビリヤンカ王妃が俺の肩をつかみ、何度も何度も語り掛ける。
「わたしもそうよ。あなたも、昔は、頭がよかったし、優しかったじゃない。ほんとは、心のどこかに、まだそのころのあなたが眠っているはずよ。もう一度思い出して」
ビリヤンカ王妃の手が離れる。俺は、そうですか、とだけ返した。
伝わっていないと思ったのか、ビリヤンカ王妃の肩ががっくりと落ちる。
「もういいわ。下がりなさい」
「はい、失礼します」
俺は、背を向け、扉を開けて外に出た。
扉を閉め、背中から寄りかかる。
優しい人だと思う。こんなやつ、さっさと見捨てればいいのに、と思う。
感謝している。かけられた言葉は、確実に俺の心に刺さっている。
だけれど、俺は、真面目になるわけにはいかないのだ。そういう事情がある。




