夢の街
過去の作品です
至らない点は多々ありますが、どうかご容赦下さい
彼女の遺品を整理していると、何通かの手紙が出てきた。
昔の友人からの便り。化粧品の試供付き葉書。高校の同窓会の参加案内。そういえば、親しい友人や大学時代の恩師には彼女が亡くなった事を伝えたけれど、彼女の広い交友関係を思えば大半の人がまだその事実を知らないだろう。
そう考えると不思議なものである。亡くなった事を知らない彼らの中では、まだ、彼女は当たり前に生きているのだ。
知らない誰かの中では、
まだ、彼女は乾燥した唇を気遣いながら笑っていて。
知らない誰かの中では、
まだ、彼女は代々木公園で歌っていて。
知らない誰かの中では、
まだ、彼女は羊のぬいぐるみを捨てられないでいて。
「あれから二年か」
もう。と言うべきか、まだ。と言うべきか。
彼女との出会いは代々木公園の噴水前だった。
職場に向かう際の近道として、毎朝必ず代々木公園を通る。中にある噴水の前で彼女は毎日歌っていた。誰にも見向きされないで。不器用に笑って。そんな彼女にいつのまにか興味を示していた。
聞けば彼女は僕と同い歳で、大学を卒業後に都内の製薬会社に就職したが、二ヶ月もしない内に辞めてしまったらしい。
『私の本当にやりたい事じゃなかった』
なんて、よく聞く言い訳である。
僕達はお互いの寂しさや欲求を埋める為に同棲した。
『私、思うんだ。「幸せじゃなくてもいい」と言える人はさ、初めから幸せな人だからだよ。って」
生産性のない毎日が続く中、彼女が笑いながら独り言のように放った言葉が印象的だった。乾燥した唇に小指の先を当てて、指先に付いた薄い血を眺めながら、哀しそうに笑っていた。
彼女が亡くなる数日前、僕達は些細な事で喧嘩をした。
会社に勤める事は正しいのか。ありもしない夢を追いかける事は間違っているのか。押し付ける事しかできなかった僕の偽善を、どうか、許さないで欲しい。正論を撒き散らしながら、言葉の暴力で殴って欲しい。君の事を認めた上で、君の事を嫌いになりたい。
『憧れを捨てた東京には、君のような人が大勢いるんだね』
彼女の背中に向けて吐いた言葉が、最後の思い出だった。
知らない誰かになりたいと思った。
知らない誰かになって、くすんだ赤い糸だらけの六畳一間を抜け出したいと思った。何事もなかったように居酒屋で酔っ払って、行き交う人々に避けられながら這い蹲りたいと思った。知らない誰かに。知らない誰かに。知らない誰かに。知らない誰かに。
知らない誰かになって、
彼女の一切を忘れたいと願った。
知らない誰かに。
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