あいつ。
彼女はいつも、まっすぐに僕を見る。その瞳で見つめられたら、僕は裸の赤ん坊のような気持ちになる。
でもその眼差しは僕だけのものじゃない。誰もが感じられる、彼女の職業が生じさせる癖のようなものだ。勘違いするバカな奴もいるだろう。俺のこと、好きなの?もしかして。とか。
僕だって、ある意味例外ではない。彼女の眼差しに恋したバカな奴の一人だ。
彼女にそういった自覚は無い。だって仕事なんだから。
ただひとり、あいつを除いて。
彼女のあいつへの眼差しは、僕に向けられるものとは異なる。なんというか、不器用で、せつない。
彼女は34歳、独身。芸能事務所専属のメイクアップアーティストだ。メイクをする時、彼女はじっと僕を見つめる。その時間だけは、僕が彼女の視線を独り占めだ。
だけどあいつのメイクをする時、彼女はまるで今しか咲かない花を見るように、愛おしく、はかない眼差しをあいつに向ける。彼女は思うのだろう。メイクが終わるまでは、あいつのことを、自分だけが見つめていられるのだと。
あいつは女好きだ。オープンだし、遊びもハンパない。僕からすれば、羨ましい性格だ。ハメを外しても、あいつなら許されるというか、そんな個性の持ち主だ。あいつは彼女の気持ちを知らないだろう。知っていたとしても、あいつにとって遊びで済む相手じゃなければ、気づかないふりをする、そういう奴だ。
彼女が僕の気持ちを知ったら、どう思うのだろう。あいつと同様、気づかないフリをするだろうか。
素直に伝えて傷つきたくない。
「おはようございます。」
あいつが来た。今日は番組共演だ。メイクはこれから、できれば先に済ませて部屋を出たい。彼女の特別な眼差しを見たくないし感じたくない。そう思ってる段階で、僕はあいつに負けているんだろうか。
彼女があいつに言った。
「ごめんね、今少し混んでるのよ。隣のメイク室の方が早いんじゃないかな。」
あいつは黙ってソファーに座った。そばにあった雑誌を手に取りめくりながら言った。
「いい。待ってる。」
柔らかくも破壊力のある一言だった。彼女への信頼と甘えが、シンプルに表れていた。僕は彼女の方を見ず、部屋を出て苦笑いした。
今日も僕の完敗だ。