第7話 リーテシア 苦難の山中
何故眠ってしまったのか。
そう言われれば、本当に何故だろう、と答えるほかない。
たかだか少し自分の限界以上の体力を消費し、背負ってもらっただけで果たして眠ってしまうだろうか。
そういえば昨日は皆が寝静まった後も一人で遅くまで本を読んでいた。
自分自身、それに対して何かしらの疲れを感じていたわけではなかったが、思ったより体には疲れが蓄積していたのかもしれない。それが全力疾走の後に爆発し、睡眠という結果を生んでしまったのかもしれない。
何はともあれ、非常に恥ずかしい。
一生の不覚。
目が覚めて、気づけばそこは山岳地帯の中腹だった。
サジに「も、もう大丈夫。ありがとう・・・」と告げて背から降り、後ろを見渡すとアイリ王国の門が見える。見える、と言っても数キロ程度は先だろうか。間近では大きかった門が、今では指で作った輪の中に入る程度の大きさに見える。
まだアイリ王国側の山岳のようだ。
しかしサジはここまで彼女を背負ってきたことに、リーテシアは驚きを隠せなかった。
(意外と・・・ラミーもサジも力が凄いんだね・・・)
遠目に二人を眺めると、少し疲れた雰囲気はあるにしろ、まだまだ元気は残っているようだ。
さて、まだ戻ることができる距離だ。
説得するなら今しかないだろう。
「ね、ねえ二人とも・・・、帰ろうよ、ね? 魔獣が出たら食べられちゃうよ?」
リーテシアの言葉にラミーがため息をつく。
「あのなー、せっかく門が開くタイミングを見計らってきたってのによぉー、戻るとか冷めるようなこと言うなっつーの!」
「それに魔獣はこっち側は出ねーぞ。フールのせいで生き物なんか一匹たりともいねーしなー」
魔獣を含め、確かに生き物はこのアイリ王国側の山岳地帯にはいないとされている。フールによる被害が原因である。強烈な風により山岳の地表は削られ、こちら側には草木一つ生えていない。
だが油断がならないのも事実だ。
頂上を境に向こう側へ行けば、そこはセーレンス川に至るまで生物が生活できる環境がある。つまり、魔獣も複数いるわけだ。その魔獣が気分を変えて今日、頂上からこちら側にくることがあったとしたら? そんな危険性もゼロではないのだ。
しかし、もう一つ気になるワードがあった。
門が開くタイミング?
「門が開く、って・・・そういえば衛兵さんもいなかった気がしたんだけど・・・」
「おうよ、俺の力にかかれば、こんなもんよ!」
(ラミーの力? どういうことだろ・・・)
「ま、配給日はいつもあんな感じだよ。なんか、衛兵も物資をあさりに行ってんだってさー」
「え・・・?」
衛兵が、物資を、あさりに、行く?
持ち場を離れて?
門も開けっ放しで?
そんな馬鹿な。
それはあまりにも突拍子もない冗談に聞こえる。
サジの言葉に固まってしまう。あとそれが事実だとしても全然ラミーの力は関係なかった。
「あいつらテキトーだよなぁー」
「ま、そのおかげで、こうやって抜け出せるんだけどな」
「へへっ、確かに」
眩暈がした。
仮にも国に仕え、国民を守るための門番としての役目を持つ衛兵の実情を聞き、このタイミングで山賊にでも襲われれば、この国は終わるだろうなとしみじみ思った。もっともこんな辺境を襲う輩もいないし、魔獣もいない山岳地帯を考慮したら、ここまで気が抜けるも仕方ない・・・わけがない。完璧に衛兵という仕事を舐めているとしか思えなかった。
「あいつら酷いときは、一日中帰ってこねーし、帰ってきても酒飲んでくることもあるみたいだぜー」
「あ、頭が痛くなってきた・・・」
門番についている衛兵が配給所に顔を出せば、当然国も気づくはずだ。
だが、記憶にある中で衛兵に何かしらの懲罰が下された、なんて話は一切聞かない。
つまり国も黙認している、という可能性が高い。
そこまで杜撰なものなのだろうか。
本当にこの国は大丈夫なのだろうか、と懸念はますます強まる一方だった。
「と、とにかく! 魔獣が出ないとも限らないんだから、早く戻ろ? 何かあってからじゃ遅いんだし・・・」
「心配性なやっちゃなー、安心しろや! 魔獣なんざ俺が頭突きの一発で追い返してやらぁ!」
「お! 先生に鍛え上げられた自慢の技だな!」
「おうよ! いつか岩をも砕いてみせるぜぇ~!」
駄目だ。
まったく話を聞いてくれない。
こうなることが半ば分かっていたため、衛兵に期待をしていたのだが、こっちはもっと駄目な存在であった。もう衛兵なんて二度と信じないと、固く誓う。
あと岩より魔獣の方がよほど難敵だと思う、と心の中で返しておく。
時刻は11時から正午あたりだろうか。
時計は持っていないが、太陽の位置でおおよその時刻は判断できる。
まだ配給が終わるには程遠い時間帯だ。今頃レジンはこの暑さの中、長蛇の列に辟易しているところだろう。レジンが帰ってくるまでに戻ることを想定すると、夕方には端っこ孤児院に帰っていないと間に合わない可能性も出てくる。
説得する時間はまだ余裕がありそうだ。
行商なんていつくるかもわからないし、そもそも来ない可能性だってあるのだ。
今すぐやってくるのであれば、行商にも護衛はいるだろう。その護衛に安全を確保してもらいながら商品を物色して、さっさと国に戻るよう二人を誘導できる。が、万が一、日が暮れても来なかった場合、レジンが戻るまでに帰れない可能性もある。レジンにこのことがバレた暁には、特大の雷が落ちることは明白だ。雷だけならいざ知らず、数日飯抜きの刑もありうる。
それに、やはり魔獣の存在は気になる。
いかにこの一帯は生物が存在しないからと言って、油断して死んでは元も子もない。
命は一つしかないのだ。
たった一度の油断でむざむざ落としたくはない。
やはり気を抜かず、説得に全力を尽くそう。
そう結論に至り、リーテシアは二人を見据え、その先にいる存在に気付いた。
「あれ・・・?」
リーテシアの視線は二人を飛び越えて、山岳の上部を見つめている。
その視線を二人も追う。
人影だ。
3、4人だろうか。
こちらに向かって歩いてくる人影はどれも背中に大きな荷物を背負っていた。
いや、そのうちの一人はどうやら人を背負っているようだ。
負傷しているのだろうか。やけにぐったりしている様子だった。
「お、あれがぎょーしょーか!?」
「おお、タイミングばっちりじゃん!!」
二人が喜びをあらわにする。
しかしリーテシアは疑いの目を向けていた。
行商、というにはあまりにおかしすぎる点が幾つかある。
まず荷馬車も何もない。持ち運んでいるのは背中にある巨大なリュックサックだけだ。あれを商品だというのであれば、あまりにも商品の取り扱いがいい加減である。
次に人数も少なすぎる気がする。当然、少人数で活動する行商もいるだろうが、それにしても4人という人数は無謀な数に思えた。旅路を護衛する人物も見当たらない。いや、あの一人を背負っている人物は何やら長物を腰にぶらさげてる。あれは――大剣のようにも見える。あの人が一人で隊商を護衛していたのだろうか。
どうにも情報が少なすぎる。
あまり無防備に近寄るのは危険だ、と思ったがすでに遅かった。
ラミーとサジは何も警戒せず、彼らのところへ走って行ってしまったのだ。
(あぁぁぁーーーーー、もぅーーーーーーーーっ!!)
有事の際は魔法を使うことも考慮する。
まだ未熟な魔法しか扱えない彼女では、相手を驚かす程度しかできないだろうが、隙ぐらいは作れると期待するしかない。
慌てて二人を追いかける。
何だか今日はその構図ばかりな気がしたが、考えれば考えるほど気が滅入ってくるので、頭から無理やり振り払った。
向こうも駆け寄る子供の存在に気付いたのか、その足を止めた。
「む?」
先頭を歩いていた人を背負っている青年は、子供の姿を見て首を傾げる。
「こ、子供? なんでこんなところに・・・?」
続いて隣を歩いていた二十歳ぐらいの女性が驚いた声を出す。
そんな彼女の動揺に構わず、ラミーは早速と言わんばかりに詰め寄る。
「おうおう、おめーらがぎょーしょーかぁ? 商品見してくれ!」
「俺も俺も!」
そんな威勢に先頭の青年以外の二人が思わず後ずさる。
どうやらそんなに危険な人物でもなさそうだ。追いついたリーテシアは彼らの反応を見て、そう感じた。最も警戒を解くにはまだまだ情報が足りないので、警戒は引き続き続行する。
「あー、君たち・・・この辺で行商の人と会う約束でもしてたんか?」
背負われている男性が言葉を発する。その言葉には「本当に、こんな場所で?」というニュアンスも含まれているように聞き取れた。
三十を過ぎたあたりの男性だ。口元に無精髭を生やしているのが印象に残る人だった。
どうやら彼は右足を怪我しているらしく、右足には添え木と一緒に何かを破いたような布で固定されていた。少し赤黒い跡があるのは、血・・・なのだろうか。
そしてよく見たら、その男性を背負っている青年も左腕がなかった。左腕があるであろう部分の袖に何も通っていないことが身近で見て、気づいたのだ。それにしては背負われている男性は安定して彼におぶさっている。何故だろうと注視したところ、どうやら鞘に収まった剣を、背後にいる男性の臀部に椅子替わりのように敷いているようだ。右手が常に剣の柄にあるところを見ると、彼は右手一本で男性の体重を剣という媒介を以って支えているらしい。とんでもない筋力である。そして当の本人も涼しい顔をしているのだから、この人は何者なのだろう、と興味半分警戒半分で見上げてしまった。
「おう! あんたらだ!」
目上の人に対する態度ではない言葉を、ラミーが遠慮なく投げつける。
そんなラミーの言葉に彼は何度か瞬きする。
「お、俺ら? うーん・・・?」
「あのね? 私たちは特に君たちと約束をして来たわけじゃないのだけれど・・・もしかして別の誰かと間違っていない?」
背中の上でクエスチョンマークを浮かべる男性を他所に、膝を折り、ラミーに目線を合わせた女性が優しく言う。
「うん? おめーら、ぎょーしょーじゃないのか?」
「だった、というべきなのかしらね・・・」
女性はラミーの言葉に視線を少し外し、唇を噛んだ。それでも妙な不安を子供に与えないようにか、無理をした笑顔を向けてくる。
(何か・・・あったのかな。怪我もしているみたいだし・・・)
「もしかして、あなたたちはアイリ王国の子なの?」
今まで黙っていたもう一人の短髪の女性が問いかけてくる。
どうやらリーテシアに聞いてるようだ。
「あ、はい。そうです」
色々と頭の中で情報を整理していたせいか、若干そっけない返事になってしまったかもしれない。
「そう・・・実は私たち、本当はライル帝国に行商として向かっていたの。でもその道中、セーレンス川の辺りで休んでいる時に・・・」
魔獣に襲われた、と。
彼女は悲しみとも疲れともとれる表情で語る。
「だから、そこから一番近いアイリ王国で一度、怪我の手当てをしよう、という話になったのよ。ごめんね? お目当ての行商じゃなくて・・・」
「あ、いえいえ! そんなことがあったんですね・・・」
確かに山岳の向こうにあるセーレンス川の近くであれば、ライル帝国より山岳を渡った先のアイリ王国の方がまだ近い。それではクラシスからの情報にあった行商は何処へ消えたのだろうか。まだここまで辿り着いていないのか、もしくはガセだったのか。真偽は不明だが、少なくとも今ここにいる人たちは、ラミーたちが目的としていた行商とはまた別の人で間違いないようだ。
話によると、セーレンス川で魔獣に襲われるまでは20人規模で移動を行っていたらしい。魔獣に襲われたことで死亡した人もいれば、散り散りに逃げた人もいる。この人たちも命からがらでその場を脱したらしい。リュックサックに入っているのは、やはり商品で、魔獣に襲われたことを察した際に慌てて詰め込んだものばかりだそうだ。
誰が生きて誰が死んでしまったのかまでは確認する余裕がなく、一緒に行動を供にしていた人たちの安否も気にされていた。
「ところが、逃げたのはいいのだけど、なぜか俺らの方を魔獣が追いかけてきてね・・・ありゃもう駄目かと思ったね」
青年の肩越しに男性がため息とともに言葉を吐く。
「そこで、こちらの旅の方に助けていただいたのです」
紹介された隻腕の青年は「追い払っただけだがな」と頷きながら返事をする。
(この人は商人じゃないんだ)
護衛の人かと思っていたが、そうでもないようだ。
旅人。
連国連盟により、ほぼ大陸内の国家が管理されるようになってから、旅人という存在は数を減らしていった。未開の土地も減っていき、国々の生活水準も安定してきたため、無理して冒険をして生活を支える必要がなくなってきたことが最大の要因とも言われている。要は地に足をつけて生活するようになってきたのだ。
そんな事情はリーテシアにとっては知る由もない話だが、旅人、という聞きなれない単語に興味を示した。
「色んな国を旅されているんですか?」
「ああ。まあ国というより、場所だな。今もアイリ王国ではなく砂漠に用があって来た。その道中で彼らを拾ったわけだ」
やけに無表情で言葉を返す青年。
言葉自体には人間味があるものの、表情が変わらないので非常に感情がつかみにくい印象を感じた。
「いつつ・・・」
不意に男性が足の痛みに顔をしかめる。
「あ、ごめんなさい・・・怪我をしているのに・・・悠長に話をしている場合じゃないですよね」
そうだ。こんな場所でゆっくり話している場合ではない。
怪我を治療するためにアイリ王国へ足を向けてきたのだ。それならば早く国まで戻るのが先決だろう。
「話の途中だったのに、悪いね・・・どうにも痛み止めの効果が切れてきたみたいだ。そうだ、後でお詫びと言っちゃなんだけど、珍しいものを見せてあげるよ」
「珍しいもの?」
「国有旗と言ってね。国を建てる際に必要不可欠な旗印のことさ。これがまた高度な魔法技術が駆使されていて面白い一品なんだ」
「国有旗・・・?」
「知らないかい? 簡単に言ってしまえば、まだ誰の土地でもない場所にこの旗を立ててしまえば、その土地はその人間の『領土』ってことになるのさ。まあ連盟が国と土地を管理し始めてからは、余っている土地なんて無いにも等しいから、今となっては無用の長物になっちゃったけどね」
そんなものがあったなんて知らなかった。
しかし、どういう原理だろうか。
旗を立てるだけで、その人の所有地になる。
普通に考えれば笑い話にしかならないものだが。
「その・・・誰でも国を建てれちゃうってことですか?」
「まあ、その土地が誰のものでもなければね。誰かの保有する土地に旗を立てちゃったら、侵犯罪で連盟から指名手配されちゃうよ。ははは」
国を・・・建てる。
どこかそのワードは自分の心に深く染み渡った。
と、今はそんな場合ではなかった。
「あ! す、すみません・・・また引き留めちゃいました。はやく怪我を治療しないとですね」
「君・・・年のわりに、すごくしっかりしてるねぇ」
「い、いえ・・・そんなことは」
何故か苦笑する男性に、リーテシアも何故だか居心地が悪くなる。レジンに続き、似たようなことを言われ、どこか気まずい感情を覚えてしまう。この感情は何なんだろうか。よくわからない。
自分の感情に戸惑いを覚えていた時だった。
風の音に乗って甲高い音が上から鳴り響く。
「ギイイイィイイィイィイイイィイィーーーーーーーーーーッ!!」
『!?』
全員がその音、いや魔獣の発する声に反応する。
上――ちょうど山の頂上付近を見上げた瞬間、それは既に上空に飛んでいた。いや、跳んでいた。
数度、跳躍を繰り返しつつ、こちらに猛スピードで近づいてくる。
速い。
山頂あたりに小さな影があったかと思えば、その影がみるみるうちに大きくなっていく。
「あ、あれはさっきの!?」
行商の女性が先の恐怖を思い出したのか、青ざめながら叫んだ。
影があった山頂までは少なくとも3キロメートルほどの距離があったはずだ。
それがものの1分も経たずに、その魔獣は最後の跳躍を終えて、リーテシアたちの目の前に降り立った。
脚力、瞬発力が桁外れとしか言いようがない。
「きゃあっ!!」
「おおお、お、おわっ!?」
リーテシアとラミーが魔獣の着地による風圧で吹き飛ばされる。
サジも行商の女性二人と一緒に、魔獣の背中の奥で転がっていくのが見えた。
銀の体毛。
その銀の中に、頭頂部から尻尾にかけて赤毛が走るように戦慄いている。
巨大な猿のような魔獣はその肩を怒りに震わせながら、再度、超音波のような鳴き声を上げる。
「ギイイイィーーーーーーーーーーッ!!」
目的は男性を背負っている青年にあるようだ。
魔獣は左肩から腹部にかけて大きな傷を負っていた。おそらくは大剣による斬り傷だろう。血は止まっているものの、痛々しく傷口が残っている。
魔獣は右腕を青年がいる場所に力任せに振り下ろし、地面をえぐる。
青年は何事もなく、その攻撃をかわし、バックステップを踏むように距離をとった。
「な・・・なんてことだ・・・ま、まさか追って来たのか・・・!?」
男性の声に「そのようだ」と短く青年が答える。
魔獣。
話には聞いていたのだが、初めて目の当たりにしたリーテシアは震えが止まらなかった。
やや猫背のように見えるが、それでもゆうに3メートルは超えている。その体躯から発せられる怒り。その殺意に満ちた相貌を正面から見れば、きっとリーテシアの体はすぐに竦み上がり、一呼吸する間もなく殺されるだろう。
それだけの圧倒的な恐怖を感じた。
すぐ隣のラミーも瞬きすら忘れ、言葉を失っている。
「随分と興奮しているようだな」
淡々とした声が、あまりにもこの場に似つかわしくない。
青年は魔獣の殺気を正面から受け、表情を変えずに、しかしいつでも攻撃をかわせるよう、踵を軽く浮かしながら半身で対峙する。
「フゥーーーーッ! フゥーーーーッ!!」
魔獣の口元から涎がだらだらと流れ落ちる。
と、何の予備動作もなく、魔獣の長い尾が薙ぎ払うように青年を襲う。
「っっ、おお、おわああぁあぁぁっ!!!」
叫び声をあげたのは言うまでもなく、彼の背中にいる男性である。
青年は屈んでその一撃をかわしていた。その背中にいる男性の目の前を恐ろしいスピードで魔獣の尾が通り過ぎていったことを考えれば、彼の叫びも納得ができるものだった。
青年は攻めあぐねている。
理由は明白だ。
背中の男性を背負ったままでは、大剣を使用することもできないため、回避行動でその場を凌ぐほかない。
男性を降ろせば、ようやく戦いに身を投じることもできるのだが、それを許さないのが目の前の魔獣である。
常に視線は青年から外さない。
少しでも隙を見せれば、その首を噛み砕くと言わんばかりの気迫である。
「ぉ、・・・、っ・・・。ぉ、俺よ、ぉ・・・」
「・・・・・・・・・・え?」
ラミーが喉に恐怖が詰まったかのように、喋りづらそうに声を出す。
その顔は汗だらけで、声を出すのも辛そうに見えた。
「へ、へへ・・・・・・、くっそ・・・マジでビビッて、やんの・・・だっせー・・・」
「・・・・・・、しょ、・・・しょうがない、よ・・・こんなの・・・」
リーテシアも引っ張られるように、声を振り絞った。
「・・・ぁぁ、だっせー・・・」
「・・・・・・」
自分に語りかえるようにそう繰り返す。
こんなラミーの表情を見るのは初めてだったので、どう返していいか分からなかった。
「だっせー、のは・・・へ、へへ・・・ああ、ちくしょう・・・だっせーのは、ムカつくぜ・・・」
何を思ったのか、彼は震える膝に手をつきながら立ち上がった。
「なっ・・・!」
何故立ち上がるのか。
もし、このまま下がって、どこか岩場の陰に隠れるならわかる。
だが、その表情を見上げたリーテシアは彼が引く気がないことを悟った。
ラミーは意志と無関係に笑い続ける膝に拳を突き立て、恐怖に震える体を鼓舞する。
そして叫んだ。
「おおぉぉおおぉ!! あー、ちっくしょー! 見せてやるぜ、てめーなんざ頭突き一発で沈めてやるってのぉぉぉぉっ!!」
ラミーが走る。無論、魔獣に向かって。
自殺行為だ。
リーテシアも上手く動かない体に必死に「動け」と命令し、彼の服を掴もうとしたが間に合わない。
その気配を感じ、魔獣もラミーに視線を移す。
戦況がラミーの行動により、それぞれが変わり始める。
ラミーは走る。無謀にもその小さな拳を掲げて。
魔獣は牙を剥く。向かってくる小さな障害を踏みにじるように左の拳を無造作に振るう。
青年は背負った男性を素早く岩場に降ろす。そしてその右手は腰の大剣の柄を握る。
サジと行商の女性二人はそれを見て、男性に駆け寄る。少しでもこの場を離脱するために。
そして、リーテシアは――、
魔法陣を織りなす光が空に走る。
いつもならば思考が先に、行動が後に、それがリーテシアの行動プロセスだった。
しかしこの場は考える時間は与えてもらえない。
何が最善か。
それを感覚だけでとらえ、行動するしかないのだ。
だから彼女は無意識に魔法を選んだ。
もうすぐラミーの脇腹に向かって、魔獣の左拳がめり込むだろう。そうなればラミーの死はもう免れない確実なものとなる。
それだけは避ける。
避けなくてはならない。
大剣を手に持った青年も動いてはいるが、魔獣の方が一手早い。
リーテシアが動かねば、ラミーは死ぬ。その未来を防ぐために最適な魔法を彼女は発動させた。
「――っ!」
山岳の中を流れる風の向きが変わり、それは突風となってラミーを吹き飛ばした。
空を切った左拳に少しだけバランスを崩す魔獣であったが、すぐ後ろからくる死の気配に機敏に反応し、その場から飛び跳ねた。
その刹那、魔獣がいた空間を大剣の横薙ぎの一撃が、音を立てて通り過ぎる。
こうして、予期せぬ魔獣との戦いが幕を開けた。