さざなみ その6
「あ、ここで順路終わりだね。……ってあれ、ナギちゃん?」
隣を歩いていたナギちゃんが、いつの間にか少し後方で立ち止まっていた。何やら目を閉じて鼻をひくひくさせている。
「ど、どうしたの?」
「……本の匂いが」
何そのピンポイントな嗅覚。俺にはさっぱりわからない。
「こっちに……」
ナギちゃんは何かに操られているかのように順路の看板の脇を通り過ぎ、通路の奥へ進んで行ってしまった。俺は慌てて後を追いかける。
「ちょ、こっちって来てもいいの?」
「立ち入り禁止とは書いてなかったし……」
「まあそうだけど……」
なんとなく悪い気がしながらも、誰にも止められなかったのでつい俺も付いていってしまった。
通路の突き当たりの方まで来て、ナギちゃんが立ち止まった。
「ここだ」
そこにはこれまでの展示室とは違った、木製の両開きのドアがあった。かなり年季が入っているように見える。何度か改修されているはずだけど、ここだけ手が入っていないんだろうか。
「あ」
そんなことを考えているうちにナギちゃんが扉を開けて中に入ってしまった。鍵開いてるのかよ……。仕方なく俺も滑り込み、静かにドアを閉めた。
中に入って、ようやくその古い本特有の匂いを感じた。
ここは書庫のようだ。細かな彫刻が施されたアンティークな本棚。そこにぎっしりと古書がしまわれている。
本の知識は全然無いが、多分高いものなんじゃないだろうか。さらに中二階があり、本棚と本棚の間から伸びている階段で上に上れるようになっているようだ。天井に吊られたシャンデリアが淡く書庫内を照らしている。
これはもうテーマパークの展示の域を超えている。どう見ても本物だ。
「はああああ……」
ナギちゃんは聞いたこともないような甘い息を漏らし、書庫の中央でぐるぐると室内を見回していた。本好きにはたまらないんだろうな……。
「す、凄い……。かっこいい……」
「う、うん。確かに凄い。でもやっぱここ入っちゃいけない場所のような気がするから、もう出ない?」
「も、もう少し……」
「え?」
ナギちゃんは肩にかけていたバッグから白い手袋を取り出した。鑑定士の人みたいに慣れた手つきで手袋をしているけど、まさかいつも持ち歩いているのかな……。やっぱりこの子ちょっと変だ。
俺が呆れていると、ナギちゃんは慎重に一冊の本を取り出し、表紙を撫でる。黒い表紙に白い文字が印刷されたシンプルな見た目の本だった。本の角はすれて丸くなっており、表面にも細かな傷が無数についている。
「凄い……。多分百年は前の本です」
「ひゃ、百年……!」
そんな本とんでもない価値があるんじゃないのか? いや、ただ古いだけの本ならいくらでもあるし、そんなに貴重なものじゃないのか? 俺は混乱してきたが、ナギちゃんは床に座り込んでゆっくりとページをめくり始めた。
「な、ナギちゃんさすがに――」
俺は一応止めようとは思った。でもナギちゃんの顔を見て、なんとなく俺の手の方が止まってしまった。
こんなに楽しそうなナギちゃん、初めて見たな。
面白いことに対して(ちょっと気持ち悪く)笑うことはあったけど、今はわくわくしてたまらないって感じの表情だ。モラルか何かに夢中になっている女の子の楽しそうな顔かなら、俺は後者を取る。ごめんモラル。
気の済むまで、あるいは見つかって怒られるまで好きにさせてあげよう。俺は中二階へ続く階段に腰掛けて、ナギちゃんの楽しそうな姿を見守ることにした。
「……ここで何をしている」
突然背後から唸るような声が聞こえて、俺は身をすくませた。恐る恐る振り返ると、中二階へ続く階段の先で、一人のスーツの男が俺を見下ろしていた。
「あ、えっと……」
俺が言い訳を考えているうちに、その男はゆっくりと階段を下りてきた。俺は慌てて立ち上がり、ナギちゃんの傍に寄る。
「ナギちゃんその本しまって……!」
「え? でも……」
「その本をどうするつもりかな?」
一階に下りてきたスーツの男は、何を考えているのかわからない表情で自分の髪を撫でつける。三十代後半だろうか……ニルスさんたちほど体格は良くないけど、ただならぬ雰囲気がある。
……さすがにこれはナユタの仕込みでもないだろう。
「すいません、ちょっと好奇心で覗いてみただけなんです。戻してすぐ帰りますから」
男は品定めするような目で俺とナギちゃんを見た。
「その本がなんなのか、知っているのか?」
「し、知りません……」
「後ろの子は?」
ナギちゃんは俺の後ろで首を振った。
「そうか……。ではその本を渡しなさい。見逃してあげるから」
男は口だけで笑って、手を差し出した。
「……ナギちゃん、それ貸して」
俺はナギちゃんからその黒い本を受け取り、男の方へと歩いていく。
近くまで来ると、俺は見下ろされる形になる。
「さあ」
男に促されて、俺が本を渡そうとした時だった。
バンという弾けるような音とともに、書庫の扉が勢い良く開いた。ナギちゃんの小さな悲鳴。
「……え?」
俺は扉の向こうにいたニックと、思いっきり目が合った。「やあ」と言わんばかりのモーションで片手を上げたので、俺は小さく頭を下げた。
「なんだ、貴様は……」
え? この人、タイニーアイランドのスタッフじゃ――
そう思うや否や、ニックは着ぐるみとは思えないスピードでスーツの男に肉薄した。
スーツの男は一瞬にして俺の手から黒い本をひったくり、掴みかかろうとしたニックの手をかわす。そしてそのまま書庫の出口に向かって前傾姿勢で走り出した。
逃げられる。
俺がスーツの男の背を見ながらそう思った瞬間、目の前を大きな何かが高速で飛んでいって、それがスーツの男の背に当たって、男は廊下の床に倒れこんだ。
男はすぐさま体を起こそうとするが、頭の取れたニックがすでに背後にいて、男の背に膝を落として押さえつける。
「ぐっ……貴様、何者だ……!」
「……通りすがりのマスコットキャラさ」
すぐに警備の人が駆けつけてスーツの男は取り押さえられた。
いつの間にかニックは頭を取り戻していたが、あの癖のある長い髪と、特徴的な低い声を、俺は知っているような気がしてならなかった。
・・
騒動が落ち着いて、警察の聴取から解放されたあと、俺とナギちゃんはなんとかナユタたちと合流することができた。
「で、一体何があったのだ?」
もう陽も落ち始めていたので、ゲート目指して五人で歩きながらナユタの尋問に答える。
「いやそれが……。ナユタたちと分かれたあとサピエンティア大聖堂に行ってたんだけど、そこでナギちゃんが書庫を見つけてさ」
「ご、ごめんなさい……」
「いやいや、むしろお手柄だったでしょ。あそこ普段は鍵かかってたらしいから。もしあそこで俺たちが気づいてなかったら、あの本盗まれちゃってたよ」
「本? 盗まれそうになったのか?」
ナユタは興味津々だった。
「そうそう。すっごい古い本みたいでさ。多分価値がある本なんだと思う」
「ほー。それでどうやってその場を切り抜けたのだ?」
「……それが、ニックが来てくれたんだよ」
「ニックが!?」
驚くのはわかるが、歩きながらガンガンとタックルするのをやめていただきたい。
「あ、ああ。ニックが突然入ってきて、アクション映画みたいな動きでその男を取り押さえたんだよ」
「かかかかっこいいー!」
ナユタは目を輝かせ、打ち震えた。
「お前は能天気でいいな……俺はちょっと気味の悪さを感じてるっていうのに」
「気味の悪さ?」
「だってさ、おかしくないか? ニックは基本的に正面ゲートでゲストを迎えてるはずなのに、俺たちのピンチに完璧なタイミングで現れたんだぞ?」
俺の発言に、一同は顔を見合わせた。
「うむ、確かに……」
「ちょっと都合良すぎかもねー」
「……なんでだろう」
ナギちゃんはミステリー小説の世界に迷い込んだように、顎に指を当てて考え始めた。
「……持ってたりして、全てを見通すオーディンの目」
俺の発言に、誰からともなく全員が足を止めた。
「ま、まっさかー!」
「まさかなー!」
ナユタの引きつった笑顔に、俺を含め、みんなが乾いた笑いで応えた。
まさかな。




