さざなみ その2
俺はエレベーターに乗り、屋上へ向かう。
今はもうすっかり存在感が無くなっているけど、屋上には子供用のゲームや乗り物が置いてあると聞いたことがある。なぜそんな場所に呼び出したんだ。
エレベーターの扉が開いて、すぐに榊さんは見つかった。
「やあ土佐君」
「……今すぐそのパンダから降りてください」
「え、なんで?」
「なんというか……見るに堪えないからです」
不満そうな顔をしながら、榊さんはパンダの乗り物を降りた。
「で、なんですか?」
「うん。ちょっと話そうじゃないか。コーヒーでいいかな」
「あ、はい」
榊さんは屋上の使い古された自販機に小銭を入れる。缶コーヒーを二つ買って、片方を俺にくれた。ベンチに座るように促されて、俺はちょっと距離を開けて榊さんの隣に座る。
コーヒーの缶を握り締めて、榊さんは語りだした。
「……ここの閉鎖が決まってね。数年前から収益が維持費を下回ってしまって、赤字続きだったから当然のことではあるんだが……」
「はあ」
「君は小さい頃、こういう場所に来たことがあるかな?」
「いや、近くのスーパーにはこういうところ無かったんで……」
「そうか……」
榊さんがコーヒーを開けて口を付けたので、なんとなく俺もそれに倣う。……ブラックだ、苦い。
「私の両親は厳しくてね。小さい頃から勉強勉強、それ以外のことはほとんど許してくれなかった。特に父は厳しくて、友達から漫画を借りてこっそり読んでいたのがバレた時なんて、顔が腫れ上がるまで殴られたよ」
俺の親父もそういう育てられ方をしたんだろうな。俺もそうやって育てられたから。逃げたけど。
「だけど私が試験で良い結果を出すと、時々母がこの屋上に連れてきてくれた。お金のかかるものは少ししか遊ばせてもらえなかったが、他の子供が遊んでいるのを見ているだけでも私は楽しかった。……私にとって、唯一のエンターテイメントがここだった」
話を聞いていると、なんとなく、榊アツシという男のことがわかってきた気がする。
「大人になるにつれ、もう子供じゃないんだからと、私は遊びからどんどん離されていった。そしてこの企業に就職し、働いて働いて、いつの間にか社長になっていた。気付いた時、私には仕事しかなかった」
「それで、謳歌学園に来たんですね」
「……ああ。最初にナユタちゃんに出資をお願いされた時、周囲は猛反対だったけどね」
榊さん、謳歌学園に出資までしてたのか……。
「でも、このままじゃ何も残せないんじゃないかと悩んでいた私にとって、ナユタちゃんの語る謳歌学園はとても眩しく見えた。だから私は反対を押し切って、ナユタちゃんに出資したよ。私も生徒にしてくれるなら、という条件でね」
「良かったんですか? 今後謳歌学園がどうなっていくかなんて、多分ナユタもわかってませんよ」
「いいんだ。私にとってこの場所が唯一の希望だったように、謳歌学園が、今の君や他の生徒たちにとっての希望になってくれればいい。いつか謳歌学園が無くなっても、きっと君や私の思い出には残る」
「……そうですね」
「ま、私の目が黒いうちは意地でも守るがね」
榊さんはそう言って、ニヤリと笑った。
この人は俺が思っていた以上に立派で、尊敬すべき大人だ。俺みたいな若造なんかとは考えの深さが違う。
「榊さんがちょっと変態っぽいのって、普段真面目な自分の裏返しなんですね」
「え? 私は裏も表も変態だが?」
「……だとしたらさっきの思い出話と辻褄が合わねえんですけど」
「禁じられれば禁じられるほどイマジネーションは膨れ上がるものだろう。私は外から入ってくるどんな小さな情報もキャッチし、それを想像で補ってきた……言わばこの変態性は、内から溢れ出たもの!」
榊さんは豪語するが、なんの自慢にもならん。
……いや待てよ? この変態性を逆手に取ればあるいは……。
「榊さん、その素晴らしい変態性を見越して一つ取引が」
「……ほう。取引となると私も個人的な感情を捨てなければならなくなる。ここからは社長とアルバイトの関係になるが、宜しいかね」
「構いません。……実は、南雲さんのことで」
「なっ、なんですと! 南雲さんがどうかされたのか」
喰いついた。個人的な感情が丸見えですよ榊さん。
「実は昨日、ゴールデンウィーク中にみんなでタイニーアイランドに行こうという話が出たのです」
「そ、それは聞き捨てならない。私も付いていっていいのでしょうな?」
「榊さん落ち着いてください顔が近い」
「あ、ああ。これはすまない」
「おほん……。しかしですね、問題が発生したのです。私やナギちゃんはしがない学生。ナユタも日常生活には最低限のお金しかかけられない苦しい生活を送っています。我々三人は、到底タイニーアイランドに行く余裕などないのです……。それを聞いた南雲さんは、みんなが行けないなら行かなくてもいいかな、と……」
「そ、それでは私と二人で――」
「よく聞いてください榊さん! 南雲さんは“みんなが行けないなら”行かなくてもいいかな、と言ったんです! つまり……いつもの五人全員が揃わなければ意味はない」
「……なるほど、話が見えてきたよ土佐君。つまり私に、君たちのチケット代を出せと言うのだね」
「誠に申し上げ難いのですが……榊さんが南雲さんと一緒にタイニーアイランドできゃっきゃうふふするには、それしかないかと……」
「うぬう……しかし……」
もう一押し。
「ところで榊さん。南雲さんがエステティシャンの資格を持っていることは覚えていますか?」
「ああ、もちろん。南雲さんのプロフィールはしっかり手帳にメモしてある」
きもちわるっ。
「実は先日、僭越ながらその手技を体験させていただく機会があったのです……」
「な、ナニィ! ど、どうだったのかね……」
「それはもう……天にも昇るような心地良さでした」
「ぬぬぬぬ」
「もしも榊さんが我々のチケット代を負担したとしましょう。その懐の深さを知った南雲さんが、お礼にと榊さんにサービスをすることは、当然のことではないでしょうか……?」
「た、確かに……」
いや当然ではない。
「それどころか、南雲さんのチケット代まで負担したとしたら……私が体験したものよりもさらに上質なサービスが――」
「取引成立だ」
「ありがとうございます」
俺と榊さんは堅く握手を交わした。ちょろい。




