失言
幼い初恋を、私は不用意な言葉で葬ってしまった。
幼稚園のころ、よく言えば活発だった私をもてあました母は、隣町にできたスイミングスクールに入れた。水遊びにすっかり味をしめた私は、週に一度のレッスンを楽しみにしていた。
そして、夏休みには集中クラス。毎日スイミングに通った。そのクラスには、いつもは居ない細っこい男の子が居た。薄茶色のきれいな目をしていたその子は、私が行くことになる小学校の近くに住んでいた。
違う幼稚園の子だったけど、途中まで帰り道が一緒になるので、一週間通ううちに母親同士が意気投合したらしく、集中クラスが終わってからも同じ時間にレッスンに通うようになった。
レッスンが終わると、母たちは自転車を押してしゃべりながら並んで歩く。私たちはママチャリの荷台につけた幼児いすで、おしゃべりをしたり、
「あやちゃん、ボクのビスケットはんぶん あげる。あやちゃんのポッキーはんぶん ちょうだい?」
「いいよ。はい」
と、持ってきていたおやつを分け合ったりしながら帰った。
小学校に入ってからは、自分たちの自転車で並んで走った。
学年が進んで、下校時刻や他の習い事でレッスンの曜日が合わなくなるまで。
小学校に通うようになると、当然のごとく同じ学校になった。
一学年三クラスだったので、一緒の組になることもあり、ならないこともあり。スイミングという接点がなくなると、彼に対して特別な感情も無いので、”あぁ、今年は居るな”位の感覚で彼を見ていた。
彼は、クラスの真ん中より少し低いくらいの背で、相変わらず細かった。ただ、存在感のある子でクラスで”何か面白いこと”をするときは、必ず中心に居るような子だった。
彼、山岸 亮を意識したのは、四年生の音楽会だった。
その年赴任してきた音楽の専科の先生がどういう方針だか、音楽会の合奏のピアノ伴奏を児童に任せた。それも全学年。
私の学年でも、ピアノを習っている子達が複数立候補した。私も習っていたけど、あまり熱心な生徒ではなかったので、他人事のようにそれを眺めていた。
希望者を集めての選考会が行われ、その座を射止めたのは彼だった。
「山岸ー。ピアノってどんな楽譜? 見せて、見せて」
友人たちと数人で見せてもらったピアノの楽譜。うそ、これ弾くの? 弾けるの?
小学四年生の小さな手には難しい曲だった。
さすがに、学級担任の先生も危機感を覚えたようで、彼は放課後や昼休みに特別練習を受けていた。
放課後、私たちがドッチボールをしている校庭に彼の弾く、つまり気味のピアノの音が毎日のように流れてきていた。
「山岸、かわいそー。遊べないなんてな」
「私、来年、絶対ピアノ希望しなーい」
そんな無責任な同級生の言葉をよそに、日を追って曲は仕上がっていった。
音楽会当日の夕食の席で、母は彼をべた褒めした。
「亮くんのピアノ、すごかったわねぇ。もう、ブルグミュラー終わるんだって。綾子とは、大違いね」
はいはい、どうせまだバイエルが終わりませんよーだ。そう、ふてくされながらも心の中では彼に賞賛を送っていた。
翌週の水曜日。飼い犬のモンジローの散歩に出かけた私は、スイミング帰りの彼に出会った。
「あれ、田村」
「あ、山岸。そうか。今日はスイミングなんだ」
「お前は、やめたの?」
「うん。バタフライなんて泳げなくっていいし」
「いいのか?」
「いいの」
小学校の横の公園に行くつもりだったので、そのまま並んで歩いた。彼は乗っていた自転車にまたがったまま地面を蹴るようにして、私の歩くスピードにあわせて進む。
「そういえばさー、音楽会のピアノ。うちのお母さんがほめてた」
「そう?」
と、どこか得意げに笑った。
「私は、じーっと座って練習できないからなぁ」
「田村、動いているほうが得意だもんな。いいじゃないか。運動会ではヒーローだし」
「ちょっと。ヒーローって男じゃないの!」
「あれ、お前、女だったんだ」
「どういう意味よ!」
叩くふりをする私を、けらけら笑いながら避けて
「俺、田村の走るところ、かっこいいと思うよ」
そう言った彼は、じゃあな、と、ペダルに足を乗せて走っていってしまった。
なんだか、心がくすぐったかった。
五年生でも相変わらず、音楽会のピアノは児童が担当することになった。
私たち、高学年の中には『ピアノの下手な音楽の先生』疑惑も持ち上がっていたけど、そんなことはお構いなしに、話は先生たちの間で進んでいく。
去年、彼が特訓を受けているのを見た同級生たちは、誰もピアノを希望しなかった。
彼も、
「今年は、俺、打楽器がしたい」
と逃げた。
先生、どうするつもりだろ、と、やっぱり他人事としてみていたら。
彼が、先生の説得に落ちた。『去年ほど難しくないから』という言葉に負けたらしい。
今年は私は、マリンバ。ピアノの横での演奏だ。
「うーん、田村さんのマリンバ。ちょっと位置をずらしましょうか」
「そうですね、山岸君の身長だと、指揮が見えなさそうですね」
私は四年生の終わりから、ひょろひょろと手足が伸びて、気づくと学年で一番背が高くなっていた。私の陰でピアノからの視線がさえぎられていると先生たちが言う。
好きで、伸びたんじゃないわよ。先生がピアノ弾いたら問題ないじゃないの。無理やり山岸に弾かせたくせに。
前思春期に入りかけていた私は、音楽の先生を心の中で罵った。
音楽会まで、あと二週間ほど。
雨が降っていてちょっと寒い日。五時間目は、合奏の練習だった。
寒いせいか、なんだか気持ち悪くって体に力が入らない。
あーだるい。座りたい。
座っちゃおっかなー。とか思っていると
「先生!」
誰かの叫ぶ声がした。周りがふーっと陰った。
気が付いたら、ベットに寝ていた。
「田村さん、気が付いた?」
もぞもぞした私の気配を感じて、声をかけてきたのは養護の先生。
「あれー? なんで?」
保健室?
「練習中に倒れたみたいよ。山岸くんが叫んだから、浜野先生が間に合ったんだって。怪我が無くってよかったわね」
そろそろ、六時間目も終わるわ。そう言って起きあがらせてくれた先生にお礼を言って、教室に戻った。
帰るときには、心配した担任の先生に家まで送られた。母には、『昨日、いつまでもテレビを見ているから』と叱られ、
「具合が悪いんだから、さっさと寝なさい」
と、布団に押し込められた。
翌朝、私は初潮を迎えた。
違和感のあるお腹を抱えて登校すると、彼が丁度下駄箱の前にいた。
「おはよう。もう大丈夫か」
「おはよ。昨日はありがとね」
「丁度、お前の横顔が見えててさ。人間の顔じゃなかったから、ヤベーって思って」
「人間の顔じゃないって、なによ。それ」
膨れて見せる私に、いつものようにケラケラ笑う彼。なのに、昨日よりちょっと大人になった私は、その笑顔がなんだかドキドキするものに思えた。
具合悪いの、気づいてくれたんだ
六年生になった。
今年も、彼とは同じクラスになれた。
一年生をつれての春の遠足、修学旅行、五年生とのキャンプ。一学期から行事が目白押しだった。それも、『最高学年として、下級生を引っ張っていくように』とのお達しで、いろいろ計画を練る立場で。
彼は、相変わらず”面白いこと”の中心人物で、計画立案の大部分に関わっているようだった。
「なんかね、山岸を中心に学校が回ってる」
おやつを食べながら、母に話すと
「亮くんは、幼稚園からそうだったみたいよ。リーダー気質って言うのかしらね。うまいこと、周りを引き込むらしいよ」
それで反感を買わないのは人徳よね。そう笑いながら、母はお茶を飲んだ。
「若菜ちゃんのお兄ちゃん、有名だよ。公園でも面白い遊び考えてるって」
そう話すのは三歳下の妹、涼子だった。若菜ちゃんは彼の妹で、涼子と同級生になる。この二人も、私たちのスイミングの間に仲良しになった、物心付くころからの幼馴染ってヤツね。
ふぅん。彼って、下級生にも有名人なんだ。
人徳、ねぇ。
私以外の子が彼を褒めるのがなんだか気に食わず、菓子鉢に残っていたおせんべいを引っつかんで部屋へ篭った。
今年の音楽会の楽器選びは、すごくもめた。彼がピアノを拒んだ。
「先生、俺、第一希望に大太鼓を書いた。第二希望は木琴。で、第三希望がリコーダーだ。鍵盤楽器を希望していないのに、なんで俺がピアノをさせられるんですか。アコーディオンになれなかった子とか、鍵盤楽器を希望している子って他に居るよね。その子達がしたら良いじゃないですか」
ピアノをするより、リコーダーのほうがいい、とまで言い切った。
リコーダーって、思いっきりその他大勢なのに。そこまで嫌がっているのを押し切るつもりかしら?音楽の先生?
結果としては、大太鼓は毎年打楽器を担当している子がすることになって、彼は木琴になった。ピアノは、一組の女子になった。噂では、将来音大を目指しているって言うし、妥当なんじゃないかな。
私は、今年はビブラフォン。あの、ボワボワっとした響きが面白くって。
で、木琴の隣がビブラフォンだったりするのよね。ちょっと前にはやったアイドルの歌じゃないけど、『練習する気も、しない気も』よ。やる気がでる位置だわ。
今年の音楽会の練習は、それだけで楽しみで。いつもの年より一生懸命練習した。
「ビブラフォンって、面白い音がするよな」
二時間連続の音楽会の練習中。間に挟まれた休憩のときに、彼が話しかけてきた。
「そうなのよ。去年、近くで聞いてたから、絶対今年は! って、勝ち取ったわよ」
バチを持ったままファイティングポーズをとる私を見ていた彼は、笑いながら
「田村、叩くの得意そうだしな」
「ちょっと、どういう意味よ」
「ほら、すぐ叩く。いてっ。お前バチでたたくなよ」
ヒュー暑いね、とトイレから戻って来ながら、からかっていく男子も一発叩いたところで、休憩時間が終了した。
冬休みが終わって、そろそろ卒業式の練習が始まった。
私は日番だったので、一人残って日誌を書いていた。相方は、
「ごめん、今日塾なんだ」
と言って帰ってしまった。いつも一緒に帰る美由紀ちゃんは、昨日から熱を出してお休みだし。あ、帰りに連絡帳届けるのを覚えとかなきゃ。
「あれ、田村居残り?」
そういって入ってきたのは、同じクラスの上野だった。
「居残りじゃなくって、日番。上野は、何?」
「俺、漢字の居残り勉。職員室でやらされてた」
手を止めて話していると、上野が鼻の横をこすりながらとんでもないことを言ってくれた。
「山岸がさ、お前のこと好きらしいぜ」
一瞬で、頭が茹るかと思った。でも、なんで、それをあんたが言うのよ。
照れもあった私が言った言葉は最低だった。
「山岸? 私より、チビじゃない。いい迷惑だわ」
そういって、ふと見た教室の入り口に。
薄茶色の目を見開いた彼がいた。