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黒曜の鬼  作者: 高町 湊
2/2

二人の始まり

 いわゆる過去編です。


 五更館の廊下を、氷芽は両腕を組んで行ったり来たりしていた。

 そして、ある一室の前でピタリと足を止めて、ドアを見返した。

「遅い!」

 零れたのはそんな不満。

 というのも、外出の約束をしていた子狸が時間になっても部屋から出てこないのだ。

 さすがに時間の限界と感じたのか、氷芽はドアノブへと手を伸ばし、開けた。

 ドアの向こう、部屋は至って質素な作りだった。

 真っ白い壁紙の部屋に、執務用の机とベッド、本棚があるだけ。そしてそんな執務机に上体を預けて寝息を立てている部屋の主――子狸。

 部屋に侵入した氷芽はその子狸の許まで向かうが、ふと、その机の上に置かれているプラスチックケースに目を奪われた。

 いや。正確にはその中にしまわれている一本の小枝に。

「コイツは、まだこんなのを持っていたのか」

 それは十年前。二人を結びつけたきっかけ。



 周りを田んぼや山に囲まれた田舎。

コンクリート舗装すらされていないその道を、一台の、およそこの場とは似つかわしくない黒塗りの高級車が走っていた。

 その車の後部座席。着物を身に纏っている艶やかな黒髪の少女は、流れる景色を車窓から眺め、あどけないその容姿とは不釣り合いな嘆息をこぼした。

「まったく。この私が、こんな片田舎に追いやられるとはな」

「今回はただ、避暑に訪れただけじゃねぇか」

 と、運転席でハンドルを握っていた体躯のいい三十代後半ぐらいの男――高丘(たかおか)は、十歳にもなっていなさそうな少女にそう言った、

「もうしばらく辛抱してくれ氷芽嬢。じきに、別荘につくからよ」

「ふんっ」

 そんな高丘に、面白くなさそうに鼻を鳴らして返した氷芽。

 そのまま走ることしばし。窓の外を眺めていた氷芽の目に、ある光景が止まった。

「高丘、車を止めてくれ」

「おう、氷芽嬢」

 急な命令にもかかわらず、綺麗に停車した。

 何事かと高丘が氷芽の視線の先に目をやると、合掌造りの民家の脇で、数人の子供が輪になって何かをしていた。

「高丘、アレは?」

「何だろうな。ここからではよく分からんが……何かを囲っているみたいだな」

 よく目を凝らす二人。

 二人の場所からは五十メートルばかり。普通の人間の視力ではまず無理だろうが――

「狸か?」

 氷芽の瞳は、子供達に囲まれている小さい狸を確かにとらえた。

 ふっと鼻で一息。氷芽はドアに手をかけ、車の外へ。

「すぐ戻る。ここで待っていろ」

 それだけ言い残し、氷芽は子供たちの許へ。

 声の届く場所まで近づくと、集団のやっていることが氷芽の予想とそう大差ないことが判明してきた。

「オラ、どうしたんだよ」

「もっとなけよクソ狸が」

「気持ち悪いんだよ」

 そんな暴言の数々を聞きながら、氷芽は近くにいた小柄な男の子の肩を掴んだ。

「おい貴様等、何をしている」

「あん? 何だよお前」

 氷芽の声に振り返った集団。見た目は小学校低学年、氷芽と同い年くらいだろうか。

 その内の一人、集団の中で一番体つきのいい男の子が一歩前に出た。

「俺達の邪魔すんのかよ」

「別にそういうつもりではないが、何をしていたんだ?」

「決まってんじゃん。妖怪退治だよ」

「妖怪、だと?」

 男の子の言葉に、氷芽は視線を子供たちの足元――ピクリとも動かない灰褐色の物体、狸へと向けた。

 子供なのだろうか小さい体つきだが、見た目は狸そのもの。

 とてもではないが妖怪には……。

「あ、もしかして妖怪の仲間か!」

 子供の声。それが耳に届いた瞬間、氷芽は体をビクッと震わせた。

 胸が締め付けられるような錯覚を覚え、動機が早くなる。

「……どういうことだ?」

「だてそうだろ? 妖怪のことをかばうんだからよ」

「妖怪の仲間だってことだな」

 子供たちは次第に手を叩きだし、「妖怪」「妖怪」と声を合わせ始めた。

 それを前に、氷芽は何も言い返すことが出来なかった。いや。正確には子供たちに構っている余裕などなかった。

 脳内にちらつく過去に囚われ……。

「やめろ。私は、妖怪じゃ」

「おい小僧ども。ウチのお嬢に何してんだ?」

 それは唐突だった。

 車内で待機していたはずの高丘が、氷芽と子供たちの間に割って入ってきたのだ。

 高丘の三白眼が子供たちを見下ろす。

「用があるんなら、代わりに俺が聞くがどうすんだ?」

 指の骨を鳴らしながら高丘が近づくと、子供たちは一歩ずつ後退し始めた。が、それも当然か。子供たちからすれば、高丘がクマに見えていても不思議ではないから。

 子供たちは散り散りに逃げていった。

 その様子を見て、氷芽はふぅっと小さく深呼吸。

「すまない高丘。助かった」

「かまわねぇよ。それより大丈夫か?」

「……あぁ」

 なずき返し、車へと戻ろうとした氷芽。が、数歩進んだところで足を止め、くるりと振り返った。

 その視線の先に映ったのは、ぐったりとして動く気配のない狸の姿。

 腹部が動いているから、生きてはいるようだが……。

「ふん、くだらない」

 まるで自嘲的な笑みを残し、今度こそ氷芽は車に乗り込んだ。



 氷芽を乗せた車は、舗装された山道を走り、ある屋敷の前で停車した。

「到着したぜお嬢」

 運転席から降り、後方のドアを開けた高丘。

 促されるまま車外へと出た氷芽。そのまま辺りを見回してみる。

 目の前には、立派な門構えの日本家屋……というよりも、もはや屋敷だ。その周りには木がうっそうと生い茂り、時折吹く風に葉を躍らせている。

「本当に追いやられたんじゃないかと不安になってきたな」

 額に手をやり嘆息。

 これだけ緑の多い場所だと、避暑と言う言葉にも納得できるが、とにかく人の気配がしなさすぎる。こんな山の中に人が住んでいたら、それはそれで驚きな気もするが。

「さぁ行きますぜ」

「あぁ」

 黒いトランクを引きずる高丘に続き、氷芽は小走りで門をくぐった。

「お嬢。念のために確認だが、今日から三日間、アンタにはここで生活してもらう」

「生活してもらう……か。避暑にしては、随分と強制的だな」

「無茶言うな。当主の、アンタの母親の命令なんだからよ」

 “母親”

 その言葉を聞いた途端、氷芽はその場で足を止めた。

 両手を握りしめ、視線を地面へと落とす。

「私が周りに何と言われようと関心を持たなかったあの女が、だと?」

 奥歯をギリッと鳴らし、吐きだした氷芽。

 その様子を見ていた高丘はやれやれと肩をすくめた。

「あの人なりに、親らしいことをしようとしたかったんじゃないのか?」

「親らしいことだと?」

 ふっと鼻で笑い、氷芽は玄関の戸に手をかけ、戸を開けた。

「そんなこと、もっと別にあるじゃないか」


 人の気配がない場所にしては、屋敷の中は手入れが息届いていた。廊下どころか、その脇に置かれている熊のはく製や、甲冑にも埃一つない。

 氷芽は高丘に続き、その廊下を移動していた。

「随分と掃除が行き届いているな」

「そりゃ、事前に掃除だけしに来たから――と、着いたな」

 ある障子戸の前で足を止めた高丘は、戸を開けた。その向こうは十五畳ほどの畳張りの部屋になっていた。

「今日からここがお嬢の部屋になるから、好きに使うといい」

「ここで三日間を過ごすのか」

 嘆息しながらも室内に足を踏み入れた氷芽。

 一人で使うには十分な広さと、冷房はないが土地柄のおかげか暑苦しさを感じない室内温度。なるほど、避暑にはもってこいの部屋だと氷芽は得心した。

 その後、食事の準備があると高丘は退室。氷芽は障子戸の対面にあるガラス戸を開け、縁側へ。軒下に吊るされた風鈴の音を聞きながら目を閉じる。

 思い返すのは、この別荘に来る前に会った子供たちの言葉。

「妖怪……か」

それは、産まれた瞬間から氷芽を縛り続ける一言。

明治初期から続く呉服店に世を受けた氷芽には、産まれた時からある噂が流れていた。

呉服店「五更」の当主である五更早苗と鬼との間に生まれたのが、氷芽だと。

真実がどうかはわからない。ただ、早苗が未婚で、氷芽の父親が不明という事実がその噂に真実味を帯びさせていた。

妖怪の血が混じった人間、混血として氷芽に向けられる畏怖・奇異・侮蔑の入り混じった視線と陰口。それに晒されながら生きてきた六年間。唯一の味方は、親代わりに自分を育ててくれた高丘だけだった。

「まだ、逃れられないのだな」

氷芽の呟きが、木漏れ日に消えた。

夕食を食べ湯あみも済ませた氷芽は、あてがわれた自室に敷かれた布団の中に入っていた。まだ十時にもなっていないが、消灯し、既に眠る準備万端といったところだが……。

「……何だ、この感じ」

 眠りに落ちるどころか、氷芽の意識は冴えていた。布団に入った頃からだろうか。妙に胸がざわついているのだ。


「――目を覚ませ」


 突然の声。それに、氷芽は慌てて体を起こした。

 周囲に目を配る。が、誰かがいる気配は感じられない。

「こっちだ。外へ出てこい」

 その声に誘われるように、立ち上がった氷芽はゆらゆらと縁側へ。サンダルに履き替えて外へと出る。

 氷芽が出たのは、ロの字に建てられている建物の丁度中心部分。各部屋の縁側と面している中庭だ。

「誰だ! どこにいる」

 中庭脇にある池の傍まで行き、声を張り上げる氷芽。

 と、中庭の中央で影が動いた。

「ここだ」

 その影の姿を見て、氷芽は息を飲んだ。

 二メートルはありそうな、筋肉質の体躯。上半身には何も身につけず、ジーパンをはいているだけ。そして最大の特徴は――

「こうして会うのは初めてだな、我が娘よ」

 赤色の肌と、頭部から生えている二本の角。

 それはまさしく、鬼と呼ばれる者の姿だ。

 架空の存在とされていた妖怪、それも鬼を前にして息を飲みこむ氷芽。その異形を前に足がすくんでいる。が、ぎゅっと両手を握りしめて真正面から鬼を睨みつけた。

「お前は? それに娘とはどういうことだ!」

「そのままの意味だが? 何だ。貴様、あの女に聞いていないんだな」

 そのままの意味。

 文面通り受け取れば、氷芽がこの鬼の娘だと言うことの肯定だが……。

「違う! そんな、そんなの認めない!」

 かぶりを振り否定する氷芽。それに、鬼は深々とため息を吐いた。

「あくまで信じねぇか。なら、これならどうだ?」

「何を――ッ!」

 氷芽の胸の奥で、何かがドクンと脈打った。それはあたかも静かな水面に広がった波紋のように、次第に大きさを増す。

 氷芽はたまらず自分の両肩を抱いた。

「抗うなよ、衝動に身を任せな。テメェ本来の姿を取り戻せ」

「本来の、姿だと?」

「そうだ。テメェの鬼の姿だ」

 次第に体は高熱を帯び、まるで体内から燃え尽きていきそうな錯覚を氷芽は覚えた。

 果たしてどれだけの時間が経った頃か。次第に落ち着きを取り戻してきた氷芽の瞳に、月明かりに照らされ、池に描かれた自分の姿が映った。

 艶やかだった黒髪は白く染まり、頭部から二本の、目の前の鬼と同じような角を生やしている自分の姿が。

「何だ……この姿は」

 驚愕に目を見開く氷芽。

 対して、鬼は口元に笑みを浮かべた。

「それがお前の本当の姿だよ。そして何より、お前の中にこの俺の、酒天童子の血が流れている何よりの証拠だ」

 凍りつく氷芽。

 本当に、自分は妖怪の――鬼の子供だったのか? だからこんな姿に?

 ウソだと信じたい。こんなものは目の錯覚、あるいは悪い夢だと。けれどためしに頬をつねってみたところで、痛みを感じるだけ。

 そのことが何より、現実だということを思い知らしてくる。

 氷芽はその場に膝をつき、俯いた。

「いいねぇその表情。今までかたくなに信じようとしてこなかったことが、現実に、事実として突きつけられた絶望に染まった顔」

氷芽が顔を上げると、酒天童子が愉悦に歪んだ顔で喉を鳴らしていた。

「くく。無理やりあの女を孕ませ、その結果、産み落とされたテメェは親の愛を失った。そりゃぁそうだろうな。テメェを見ればいやでも俺のことを思い出すからよ」

 言われ、氷芽は自分の母のことを思い出した。

(なるほど。だったら、今まで母さんがまるで私と関わろうとしてこなかったことも理解できるな。むしろ、私のことを憎んでいたかもしれんな)

 納得は出来る。出来るが……。

「そして周りからの愛もしかり。誰だって、妖怪の子供と仲良くしようとは思わねぇからよ」

 下唇をかみしめ、氷芽は両手を強く握りしめた。

 そして。

「貴様の……で……」

「あ? 声が小さくて、何て言ったか聞こえねぇな」

「貴様のせいで私は!」

 咆号を上げながら地を蹴った氷芽。

 速い。人間の限界を超越した速度で、一瞬で鬼に接近する。けれどそのことに一番驚愕したのは氷芽自身だった。

「――なっ!」

 普段とは段違いなその速度に、氷芽自身が反応できていない。

 減速が間に合わない!

 そのまま鬼にぶつかると、氷芽が目を閉じた瞬間だった。自らの半身をずらして、鬼は氷芽をいとも容易く避けた。

 対して氷芽は蹴躓いて転倒。

「おもしれぇな。俺の血が入っているはずなのに、もう半分が人間の血というだけで、こんなにも弱くなんのかよ」

「……の、黙れ!」

 キッと顔を上げる氷芽。その双眸に宿るのは、強い怨嗟か。

 自分に混血という宿命を科し、普通の人間とは違う人生を歩ませた相手が目の前にいるのだ、それも無理はないだろう。

 だが、鬼は意にも介さないと言った様子で笑い声を上げている。

「憎いかこの俺が。けどな」

 瞬間、氷芽は自分の目を疑った。視界から鬼が消えたのだ。

 慌てて辺りを見渡す。と、そんな氷芽の前に影が差した。

 鬼だ。いつの間にか、鬼が眼前に――目と鼻の先まで近接していたのだ。それと同時に氷芽は理解した。

 何も消えたわけではない。ただ、自分が鬼の動きを捉えられなかっただけなのだ。

「今のテメェには、テメェから全てを奪ったこの俺様を倒せねぇな」

 背中に、まるで鉄球でも思いっきり落とされたかのような衝撃。

 氷芽の背骨が軋み、苦痛の声が漏れる。

 もしも氷芽が普通の人間の状態だったら、今の一撃で、間違いなく背骨を砕かれていただろう。

 身動きできない氷芽の頭髪を乱雑に掴み、鬼は無理やり顔を上げさせた。

「全てを奪った俺が憎いなら強くなれ。そして殺しに来い」

 ククっと漏れる笑い声。

 氷芽は唇を固く噛みしめた。いや、正確には噛みしめることしかできなかった。そうしないと恐怖で体が震えてしまいそうで。

 氷芽が何も反応を示さなかったことが気に食わなかったのか、氷芽を解放した鬼は反転し、舌打ちした。

「三代妖怪が一角、酒天童子。いつでもテメェの挑戦を待ってるぜ」

 言い終わるのと同時。鬼――いや、酒天童子の体が黒い靄のようになり、やがてかき消えるように姿を消した。

 一人残された氷芽。右手を強く握りしめ、地面に強くたたきつけた。



 三日後。

 日光の光を浴びて黒光りする車が、氷芽を乗せて、田んぼや畑に囲まれた田舎道を走っていた。

 後部座席に座った氷芽は、窓枠に肘を乗せ、窓の外へ視線を向けている。

 この三日間……というよりも、酒天童子の襲撃を受けてkらら氷芽はあることをずっと考えていた。

「お嬢。元気がないが何かあったのか?」

「いや、何でもない」

 運転席でハンドルを握っている高丘にも、どこか気のない返事をし。

 そんな氷芽の目にあるものが映った。

 窓の外。子供たちが集団で固まって、輪になって何かを囲っているようだ。氷芽はすぐにぴんときた。

「高丘、止めてくれ」

「あいよ」

 静かに停車。溜め息をつきながら、氷芽は車から降りた。そして子供たちの方へ。その途中、道端に落ちていた木の枝を手に取った。

「おい、お前達」

「ん? こないだの」

 集団に声をかけると、その内の一人が振り返った。

 見覚えのある顔だ。二日前、別荘に行く途中狸をイジメていた子供の一人だ。そしてやはりと言うべきか。子供たちの中心部には見覚えのある狸の姿が。

 どうやら、性懲りもなく同じことをしているようだ。

木の枝の先端を集団に向ける氷芽。

「今すぐ散れ。さもないと」

「何だよ。」

「全員、潰す」

 瞬間、場の空気が変わった。冷たい空気が辺りを充満し始めたのだ。

 そして。氷芽の紙が白銀に染まり、二本の角が生える。

 ――鬼の姿だ。

 子供たちの間に動揺が走る。が、それに構う氷芽ではなかった。跳躍し、一番近くにいた子供の首筋に木の棒を叩き込んだ。そして、もう一人。

 まるで舞でも踊るような連続攻撃。次第に子供達は散り散りに逃げだした。

「ふん、くだらんな」

 鼻で笑い、氷芽の視線は倒れている狸へ。

「おいお前。いつまで倒れているふりをしている」

 ビクッと震える狸の体。そしてゆっくりとその体を起こした。

 後ろ足二本で立ちあがっても、やはり普通の狸よりも一回り小さいくらい。どことなく感じる気弱さがそう見せているだけなのかもしれないが。

 狸は器用に腰を折り。

「先日に続き助けていただき」

「キミはアレか、マゾなのか?」

「えっと……え?」

 氷芽の突然な言葉に目を丸くする狸。構わず氷芽は続ける。

「虐げ続けられているのに反抗しないのは、そうされるのが好きだからじゃないのか? まったく、マゾの鏡だよ」

「な。ち、違います。僕は」

 段々と小さくなる狸の声。しかし氷芽は何もしゃべらない。いや、狸の次の言葉を待っているのか。

 やがて狸は俯き。

「貴女には分からないですよ。生まれつき戦う力がない者の気持ちなんて」

「あぁ、そうだな。理解したくもない」

 絞り出したような狸の言葉に、氷芽はふっと鼻で笑った。

「弱い自分が嫌だったら、強くなればいい。生まれつき戦う力がないと言うのなら、これから身につければいいだけではないか」

「そんな簡単に……」

「簡単だとは思っていないさ。けど、そうするしかないのなら、為すべきじゃないのか? 一生俯いて生きてもいいのなら話は別だがな」

 それだけ告げ、氷芽は反転。その場を去ろうと一歩足を踏み出す。と、その時だった。

「待ってください!」

 狸の声。氷芽は思わず足を止め振り返った。そんな氷芽をまっすぐ見返す狸。

「どうしてそんなに強くいられるんですか?」

「どうして、か」

 小声で繰り返し、口元に僅かな笑みを浮かべる氷芽。

 小さいころから『混血』として周りの人間から忌み嫌われ、親すらも頼れない中で生きてきた。自然と心も強くなるはずだ。それに……。

「酒天童子を倒すんだ。せめて、まずは想いだけは強く持たねばな」

「酒天……童子?」

「何だ、あれはそんなに有名なのか?」

「有名なんてものじゃありません! 三代妖怪の一角、酒天童子。名実ともに最強の鬼ですよ! 貴女がかなう相手じゃ」

 我を忘れたようにまくし立てる狸の言葉が、ふいに途切れた。

 氷芽がどこか優しげな笑みを浮かべていたせいだ。

「そんなものは百も承知さ。けれど、この願いだけは徹頭徹尾貫き通す」

 それだけ残し、氷芽はまたも反転。今度こそその場を後にしようとする。

 が、またしても。

「あ、あの!」

 またしても狸に呼び止められた。

 足は止めるものの今度は振り返らない。

「今度はいったいなんなんだい? 用があるなら一度に言ってくれ」

 ため息交じりの、どこかうんざりした様子の氷芽。

 そんな氷芽に、狸はただ一言伝えた。


「僕を一緒に連れていってください!」



「あれからもう十年か」

 酒天童子と邂逅し、そして一匹の小さな化け狸を五更家に迎え入れてから。

 あの頃から自分はいったいどれだけ強くなっただろうか。

 ぎゅっと両手に力を入れる氷芽。

 と、変化が起きた。小狸の体がもぞもぞと動きだしたのだ。どうやら目覚めが近いようだ。

「ん? あれ、氷芽様?」

「ようやく起きたか」

 ゆっくりと顔を上げた小狸に、嘆息する氷芽。

 しかし小狸はどこか焦点の合っていない、眠気眼のままだ。

「まさか氷芽様が夜這いに来てくださるなんて、感激の極み。さぁ、おいしく召し上がってください」

「何を召し上がればいいのか疑問だが、とりあえず、キミがまだ夢の中ということは理解した」

 頬をぽっと赤く染める小狸に氷芽は頭痛を感じた。

 出会った頃の、あの気弱な狸はどこに言ってしまったんだろうか。

「それにしても氷芽様。何か御用でしたか?」

「でしたか、じゃない。仕事だ。今日の十時から依頼先に赴くと伝えておいたはずだが?」

 数秒の間。小狸はポンッと手を叩き。

「そういえばそうでした。すぐに用意を」

「もう出来ている。後はキミが車を出してくれるのを待つだけだ」

「なるほど、さすが氷芽様です」

「うん。何だかその言い方は腹が立つな」

 席を立ち、二人は部屋を後にした。

 向かうは先日依頼のあった場所。

 地図には載っていない、妖怪と人間の混血のみが暮らす小さな村――霞ヶかすみがもり


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