「正しく逃げる」君が愛しすぎて、外堀をすべて埋めてみた
※前作の王子視点です。
王子は終始にこにこしています。
彼女は逃げ方がとても正しかった。
リリアーナ・クラウス。事前の報告によれば、侯爵家の権勢を笠に着て、金貨の輝きで人の心を繋ぎ止められると信じている、傲慢で強欲な悪役令嬢だった。
……だが、入学式で目の当たりにした彼女はどうだ。
僕と目が合った瞬間、彼女の瞳に宿ったのは熱烈な愛などではない。それは、計算外の障害物が目の前に置かれた時のような、明らかな「不快感」だった。
他の令嬢たちが僕の視線を奪い合っている中で、彼女だけは僕を自分の完璧な一日を妨げる「不純物」として頭の中から冷徹に切り捨てていたのだ。
「予定通りだ」
ざわめく会場で彼女が小さく誰にも聞こえない声で安堵を漏らしたのを僕は見逃さなかった。 なるほど。君が愛しているのは「秩序」か。 ならば、その完璧に整えられた彼女の世界を、僕という存在でかき乱してみたい
――そんな感情が渇望だと気づいたのは、もう少し後のことだ。
*
その後の彼女の振る舞いは、僕の予想を遥かに超えて愉快だった。
彼女は僕を避ける際、決して感情を剥き出しにしない。
「お気になさらず」という誰も傷つけない定型句を盾に、最短の礼、完璧な歩幅。
侯爵令嬢としての矜持を総動員して僕というイレギュラーを鮮やかに回避していく。
逃げれば逃げるほど彼女は僕に「隙」を見せていた。
無表情の裏で「最短の退路」を再計算しているのが分かる。
あのわずかに揺れるまつ毛で。
「大丈夫です」と、どこか事務的な拒絶を口にする時の微かな呼吸の乱れ。
「逃げるつもりですか?」
背後から声をかけた時、彼女の背筋がぴたりと硬直した。
振り返った彼女の目は、僕をどうにかして「当初の計画」の枠内に押し戻そうと必死に泳いでいる。
彼女は自分の足で自分の意志で逃げているつもりなのだろう。
だが、その足取りさえ僕にとっては「僕が用意した盤上」で踊らされているようにしか見えなかった。
君が「正しく」あろうとすればするほど、君の行動は僕に読みやすくなる。
その完璧な一日の行き着く先を、僕の腕の中に書き換えるのは造作もないことだった。
*
追いかけ回すのは愚か者のすることだ。
彼女は「正しさ」を愛し秩序に安らぎを覚える。
ならば僕がすべきことはたった一つ。
彼女が選ぶ「正しい道」の行き着く先をすべて僕の腕の中に書き換えてやればいい。
「静かな場所が好きでしょう」
僕がそう囁くたび、彼女の周りから雑音が消えていく。
彼女が愛する図書室。
彼女が心を休める散歩道。
僕の権力というペンで彼女の聖域を
「僕との共用区域」へと静かに上書きしていく。
彼女は僕を拒めない。
なぜなら僕が与えるのは彼女が喉から手が出るほど欲しがっている
静寂と平穏という名のあまりに正当な「配慮」だからだ。
彼女が規律正しい淑女であればあるほど、
僕の「誠実な婚約」という名の罠に、
自ら足を踏み入れていく。
気づけば彼女の周囲には
僕が用意した完璧な壁が築かれていた。
彼女が逃げるために積み上げた「完璧な所作」の石積みは、
今や彼女自身を閉じ込める、美しくも残酷な城壁へと変わったのだ。
*
そして今日、ついに最後の逃げ道を塞いだ。
彼女が期待に満ちた目で眺めていた、あの新入生の令嬢。
リリアーナの瞳には、
「自分の代わりに、この厄介な王子の隣という名の生贄になってくれる女性」を見つけたような、
救いにも似た安堵が浮かんでいた。
――残念だがそうはいかない。
僕はその令嬢を事務的にあしらい、
むしろその存在を利用して、
リリアーナが僕の隣に留まるべき「公的な理由」を周囲に静かに植え付けてやった。
彼女が僕という不条理から逃れるために用意した、最後の手札。
それさえも僕は僕のために使い切る。
僕を避けるために完璧に整えられた彼女の歩調が、
曲がり角の先で立ち往生する。
そこは、僕が用意した「行き止まり」だ。
「逃げるつもりですか?」
極上の微笑みを湛えたまま彼女に声をかける。
彼女は肩を震わせゆっくりと顔をあげた。
その瞳には、
自分が心血を注いで組み上げた計画表が、
完膚なきまでに崩れ去った絶望が浮かんでいる。
彼女は震える唇で、小さく呟いた。
「……予定外!」
ああ、やっぱり。
その反応も、想定の範囲内。
僕はにこにこと微笑んだまま、
心の中で答える。
——予定通りだ。




