第8話 暗殺ごっこに興じる少女と、もう一つの守るべき命
カイルが鼻歌交じりに地下へ消える。
入れ替わるように、重厚な扉が開かれた。
騎士団長アラリックだ。
その背後に、場違いなほど小さな影を引きずっている。
「殿下、こちらを」
アラリックが一歩下がる。
影が前に出た。
十代半ばの少女。
エリン。
使い古された革の軽鎧。泥のこびりついたブーツ。
短く刈り込んだ黒髪はボサボサで、頬には煤と脂の汚れが張り付いている。
だが、瞳だけが異質だ。
野良犬、あるいは手負いの狼。
そこにあるのは、触れれば切れるほどの敵意と警戒心だけ。
「我が団で最も腕の立つ斥候、エリンです。作法など教えておりませんが……腕は確かです」
アラリックは少女の肩に手を置こうとし、無言で避けられたことにも気づかず続ける。
「風の音で敵の数を知り、気配を殺して壁を越える。騎士では踏み込めぬ死地も、彼女ならば」
エリンは若き主君を見上げる。
値踏みする目。
畏敬などない。「こいつは私をどう使う?」という、冷徹な計算だけが光っている。
「……カイルの護衛兼、監視として同行させます。あの男の手綱を握り、万一裏切った場合には、その喉を食いちぎる役目として」
若者が視線を向ける。
エリンはふいっと目を逸らし、不貞腐れたように唇を動かした。
「……よろしく」
たった一言。
だが、重心は低く、隙がない。
生きるために泥水を啜ってきた者特有の、静かな殺気。
若者が頷く。
直後、影の底からリオラが滲み出た。
音もなく主君の耳元へ滑り込む。
「殿下。城下の情報屋より、面白い『種』を見つけました」
いつもより低く、湿り気を帯びた声。
「帝国の圧政を逃れ、我が国に潜伏中の元・輜重兵。名をウーゴ。彼は帝国の兵站、つまり『胃袋と財布の中身』を把握しています」
若者の眉が跳ねた。
戦争において、剣や槍よりも重いもの。
兵の腹を満たす麦と、鉄を買う金だ。
「……帝国の内臓、それも急所を知っているか」
「はい。彼を引き込めれば、帝国の『鼻面』を砕く算段が立ちます。物資を断てば、千人長の騎兵とて飢えた案山子」
リオラは言葉を区切る。
「……ただし、彼は現在、教皇国の信者たちに『異端』として追われ、廃屋に隠れています。帝国から逃げる際、教皇国にとっても不都合な『毒』を持ち出した可能性があります」
帝国と教皇国、双方から追われる男。
火薬庫だ。
だが、使いようによっては最強の爆弾になる。
沈黙。
謁見の間の冷たい空気が、肌を刺す。
ズキン。
若者の右肩が脈打つ。
幻肢痛。
失った腕が、見えざる炎で焼かれる感覚。
骨の軋むノイズが思考を白く塗りつぶそうとするのを、鉄の意思でねじ伏せる。
息を吐く。
「アラリック、リオラ」
二人の背筋が伸びる。
「私はお前たちに裏切られるなら、仕方ないと思っている。それくらい、お前たちの目を信頼している」
アラリックが目を見開く。
リオラの長い睫毛が、微かに震えた。
王族とは本来、誰も信じぬ生き物。
だがこの隻腕の王は、全幅の信頼という名の鎖を、自ら首に巻いて差し出したのだ。
「その忠臣が推薦するなら、全面的に信じよう」
若者はエリンを見た。
少女は驚いたように、瞬きを繰り返している。
「エリンにも伝えておけ。使い捨ての駒ではない。帰ってきたら重役で酷使してやるから、命を安売りするなと」
エリンの瞳が揺れる。
「死んでこい」とは言われても、「帰ってこい」と言われたことなどないのだろう。
唇を噛み、何かを堪えるように俯く。
「カイルにも伝えろ。『守る命がもう一つ増えたが、頼む』と」
若者はリオラに向き直る。
「リオラ。早急にその異端児を保護しろ。教皇国の追手よりも先にだ」
リオラは深く、額が床につくほど頭を垂れた。
「……承知いたしました。我が命に代えても」
◇ ◇ ◇
城門。
霧が晴れ始めた朝。
湿った石畳が白く光る。
木樽を山積みにした幌馬車。
積み荷は、公国の歴史そのものである秘蔵酒だ。
カイルは御者台で、けだるそうに煙草を燻らせている。
見送りの兵士から伝言を聞くと、紫煙と共に鼻で笑った。
「守る命がもう一つ、ねぇ。……自分の国だけで手一杯だろうに。面倒な荷物が増えたもんだ」
カイルは馬車の横のエリンを見る。
少女は腕を組み、不機嫌な猫のように睨み返した。
「おい、そこの不機嫌な小娘。護衛だか監視だか知らんが、足手まといになるなよ。死にたくなければ私の背中に隠れてろ」
エリンは答えない。
代わりに、腰の短剣を鞘に収めた。
カチリ。
冷たく硬質な音が鳴る。
『余計な口を叩くと、背中から刺す』という警告。
カイルは肩をすくめる。
エリンは尖塔の方を一度も振り返らず、歩き出した。
だが、その足取りに捨て鉢な軽さはない。
「帰ってきたら重役」という約束。
その重みが、少女の背筋を微かに緊張させていた。
「はいはい、出発だ。地獄への観光旅行といこうぜ」
手綱を振るう。
ギィ、と車輪が軋んだ。
轍の音が、朝の静寂に泥臭く響く。
不実な外交官と、野良犬のような斥候。
水と油の二人が、国の運命を乗せて、霧の向こうへと消えていく。
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