第7話 酒場の天才詐欺師と、命をチップにした契約
重厚な扉が開かれる。
二人の衛兵に引きずられるようにして、男が放り出された。
カイル。
かつてその名を囁かれた天才外交官。
だが、そこにいるのは、泥と油にまみれた酔っ払いだ。
安物のシャツ。伸び放題の無精髭。
全身から、安酒の臭気と煙草、路地裏のドブの匂いを撒き散らしている。
しかし。
髪の隙間から覗く瞳。
ビー玉のように虚ろなその奥底に、世界すべてを嘲笑うような鋭さが潜んでいる。
ヴァインは苦虫を噛み潰した顔で見つめた。
宝石だった才能は、今や床に散らばるガラス片だ。
尖り、人を傷つけるだけの凶器。
カイルは主君の前で大げさにへたり込む。
ふぁあ、と大きな欠伸。
「……ひどいもんだ。サイコロの目が最高に乗ってたのに。騎士様たちが踏み込んできて台無しだ」
濁った目で若き王を見上げる。
敬意など、欠片もない。
「で……次期公王様。私のような『路地裏のゴミ』に何の用で?
説教なら、隣の牢屋のビショップ様にでもしてやってくれ。最近うるさかったのが、やっと静かになったと思ったら、あんたが捕まえたって?」
マルクスの捕縛すら知っている。
情報のアンテナは錆びついていない。
「まさか、ドワーフのところへ行け、とでも? あの偏屈な連中の住処に、また死にに行くような使いを送るつもりか?
それとも……私を処刑して、その汚れた血を帝国の機嫌取りに使いますか?」
挑発的。投げやり。
ヴァインは主君の反応を待つ。
普通の王族なら即座に首を刎ねる無礼だ。
だが、隻腕の王は違った。
「景気良く勝ってる最中に乱入させて、申し訳なかった」
謝罪。
威厳を損なわず、しかし真摯な響き。
カイルは欠伸を止め、珍しい虫でも見るように片目を細めた。
「ただ急ぎの用だったので、許してほしい」
若者は淡々と続ける。
「話が早いが、私を見くびるな。初対面の若造にお願いされたからと言って、素直に従うような人物だと考えるほど馬鹿じゃない」
カイルの目に、微かな興味が宿る。
「私はお前が『面白い』と思う世界がどのような世界なのかを聞かせてもらうために呼んだのだ」
一拍置く。
さらに踏み込む。
「『また』死にに行くような使い、と言ったな。すまないが、前にどのようなものがあったかも、ついでに酒の席の愚痴として聞かせてくれないか」
カイルは、よろよろと立ち上がった。
衛兵を払い除け、豪奢な椅子に座り込む。
懐からボロボロの銀のスキットル。一口煽る。
喉を焼く酒精の匂いが、謁見の間に漂った。
「……見くびるな、か。クク、若いくせに鼻が利く」
口の端を歪める。
「いいですよ、そういう『上から目線』じゃない物言いは嫌いじゃない。博打打ちに必要なのは、カードの強さじゃなく、テーブルの空気を読む力ですから」
カイルは天井のフレスコ画を眺めた。
独り言のように呟く。
「面白い世界、ねぇ……」
遠い響き。
「私が面白いと思うのは、『絶対に起こり得ないはずの破滅』が起きる瞬間か、あるいは『絶対に詰んでいる盤面』がひっくり返る瞬間ですよ」
視線が戻り、主君を射抜く。
「今のレムリアは、後者だ。帝国と教皇国、二つの巨獣が喉元に牙を立てている。普通なら、どっちかに尻尾を振るのが『正解』だ」
ニチャリと笑う。
「だが、あんたは両方の鼻面を殴りつけた。……最高に馬鹿げた、面白い一手だ」
ヴァインの背筋が冷える。
この男は本気だ。
国家存亡の危機を、賭博のチップとしてしか見ていない。
カイルは空になったスキットルを弄ぶ。
「……四年前、あんたの親父さんは北の『鉄の山脈』に三人の特使を送った」
苦い澱のような記憶。
「一人は臆病な文官。二人はドワーフを見下した高慢な騎士。……彼らはドワーフの『沈黙の掟』を理解していなかった」
目が急速に冷え込む。
「ドワーフにとって、言葉は鉄と同じだ。一度叩けば形は変わらない。……特使たちは、適当な嘘をついた」
呆れたように首を振る。
「結果、彼らの首は『三つが一つに繋げられた状態』で国境に放り出された。……それ以来、誰もあの山には近づかない」
カイルは若き王を見据えた。
深淵のような黒い知性と狂気。
「ドワーフたちは怒っている。帝国の採掘部隊が聖域を侵し、教皇国が工芸品を略奪していることに。彼らにとって、人間はみな嘘つきの盗っ人だ」
唇の端を吊り上げる。
「さて、殿下。そんな地獄へ私を送ろうっていうんだ。あんたは、あの頑固者たちに何を差し出す?
金か? 領地か? それとも、自分の『首』でも賭けるつもりですか?」
挑発的に光る瞳。
「私が動くかどうかは、あんたが提示する『チップ』次第だ。この退屈な世界を壊すに足る、最高のチップをね」
◇ ◇ ◇
沈黙。
重く、揺らぎのない時間。
ズキン。
若者の右肩が跳ねた。
幻肢痛。
骨の軋むノイズが思考を遮ろうとする。
それを、無言で飲み込む。
「残念ながら、金も領地も出せないな」
カイルの眉が動く。失望。
「出せるのは、ドワーフが好きであろう大量の酒だけだ」
「……酒?」
「もうお前の言う通り、片方の鼻面を殴った後だ。もう一方を殴っても構わない。帝国と教皇国、どちらも敵に回した今、失うものは少ない」
若者の目が、カイルを正面から射抜く。
「私から出せるチップは、ドワーフの喉を潤すための酒。私が死守すべきなのは、カイル、お前の無事な帰還。そして報酬は……この詰んでいる盤面をひっくり返す道のりを、私直属の部下として一番近い距離で味わうこと」
一拍。
「どうだ? 足りないか?」
ヴァインは息を呑む。
金でも爵位でもない。
ただの酒と「特等席」。そして「お前を死なせない」という誓い。
あまりにも無謀で、純粋なチップ。
カイルはきょとんとした。狐につままれたような顔。
次の瞬間。
「は……はははは! 酒、だと? 地図の書き換えを頼む相手に、ただの酒と『特等席』だと!
クク、クハハハ……ッ!」
腹を抱えて笑う。
涙を汚れた袖で拭う。
その瞳に、虚無感はない。
獲物を見つけた猛獣の、ぎらついた生気。
「いいでしょう。気に入った」
立ち上がる。
もう酔いはない。
「大国の顔色を窺う退屈な演説より、よほど目が覚めるチップだ。……あんた、最高に狂ってるよ」
ニヤリと笑う。
「……酒は、王家の『建国以来の秘蔵酒』をすべて吐き出してもらいますよ。ドワーフの鼻をひっくり返させるには、それぐらいの『狂気』が必要だ」
そして、カイルは初めて。
酒臭い、しかし完璧な宮廷作法で一礼した。
「承知いたしました、殿下。私の命、あんたの盤面をひっくり返すために賭けてやる」
顔を上げる。不敵な笑み。
「……その代わり、私が戻るまでこの国を潰さないでくださいよ。最高の舞台が瓦礫になってちゃ、報酬の受け取りようがない」
ヴァインは震えた。
「不実な男」が、この主に賭けた。
「面白そうだから」という、最も不純で、純粋な理由で。
最も危険な契約。だが、これ以上の劇薬はない。
カイルが地下へ向かう。
その背中は、もはや「ゴミ」ではなく、「天才」のそれだ。
北の山脈への、命がけの旅立ちが始まろうとしていた。
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▼次回予告
12/27~12/30は1日3話投稿です!
投稿スケジュールは08:10、12:10、20:10になります!




