第5話 裏切り者の「光の合図」と、完璧な罠
侍女長リオラは、城の東棟、深く濃い影の中で息を殺していた。
壁のシミのように、闇に溶ける。
湿った石の匂い。カビた空気。
通り過ぎる衛兵すら、そこに「死」が潜んでいることに気づかない。
主君の命は、氷の刃だった。
――セドリックにだけ、嘘を伝えろ。
――その嘘がどこへ流れるか、見届けろ。
忠実な部下を疑う、冷酷な賭け。
だが、迷いはない。
リオラはじっと待つ。
雨音が、永遠のように長く感じられた。
◇ ◇ ◇
カツ、カツ。
乱れた足音。
セドリックが飛び出してきた。
雨に濡れたマントが重く引きずられる。
顔色は蝋のように白く、額には脂汗がびっしりと浮いていた。
視線が泳ぐ。呼吸が浅い。
悲しみか、それとも歓喜か。
リオラは影から滑り出る。
音もなく、獲物を追う毒蛇のように。
セドリックは自室へ戻らない。
何度も背後を気にしながら、人気の絶えた物見櫓へ。
やはり、黒だ。
胸の奥で、殺意が冷たく結晶化する。
城壁の一角。
雨風が吹き荒れる暗がりで、彼は立ち止まった。
震える手で懐から手鏡を取り出す。
松明の火を拾い、闇夜に向けて反射させた。
チカ、チカ。
頼りない光の点滅。
古典的だが、確実な密通手段。
リオラは雨に打たれるまま、瞬きもせずに見届ける。
点、点、線。
内容は読み取れない。だが十分だ。
彼は今、主君のついた「特大の嘘」を敵に売った。
「王は死んだ」と。
裏切り確定。
リオラは闇に溶けるようにその場を離れた。
報告しなければ。
この国を蝕む癌細胞の正体を。
◇ ◇ ◇
合図から十五分。
ブォオオオオッ――!
腹の底を揺らす進軍ラッパ。
夜の静寂と雨音を、無遠慮に引き裂く暴力的な音。
「日の出まで待つ」と言った千人長が、約束を破り捨てて門を叩いている。
「開門! 開門せよ! 公王崩御の報を聞いたぞ! 盟約に基づき、帝国軍が城内の治安を維持する!
門を開けよ!」
門塔の上。
リオラは若き主君の傍らに立つ。
雨に打たれる若者の横顔。
怒りも焦りもない。
ただ、罠にかかった獣を見下ろす、冷え切った瞳だけがある。
ズキン。
主君の右肩が、小さく跳ねた。
失った腕の断面が、湿気と寒さで疼いているのだろう。
骨をヤスリで削るような幻肢痛。
それを、若者は無言で飲み込む。
「……崩御? それは異なことを」
若者が声を張り上げる。
よく通る声が、雨音を貫いた。
「誰がそのような嘘を。父は今、安らかに眠りについている」
松明に照らされた千人長の顔が強張る。
「……なんだと」
「千人長。貴公にだけ特別に、父の健在を『確認』させてやろう」
若者の口元。
氷のような薄ら笑い。
「ただし、供は認めん。貴公一人だ。武器を捨てて来い。皇帝の名代として恥じぬ振る舞いができるならな」
◇ ◇ ◇
公王の寝室。
静寂。
薬草の煮える匂いと、雨の湿気。
濡れた鎧を脱がされた千人長が、アラリックたちに囲まれて入ってくる。
武器を持たぬ姿は、心なしか一回り小さく見えた。
豪奢な天蓋付きの寝台。
そこには、公王エドワード三世の姿。
魔法的な処置で肌の変色は消え、穏やかな寝息を立てている。
頬には赤み。
死の気配など、どこにもない。
「……確かに、生きておられる。しかし、この深い眠り方は……」
千人長が不審そうに近づこうとする。
スッ。
若き主君が立ち塞がった。
「そこまでだ。万能薬は預かる。だが、ご覧の通り今は必要ない」
隻腕の姿が、千人長を威圧する。
射抜くような視線。
ズクリ、とまた痛みが走ったのか、若者の眉間が一瞬だけ歪む。
だが、声は揺るがない。
「それよりも千人長。一つ聞きたい」
一歩、歩み寄る。
「貴公は、私が『セドリックにだけ伝えた嘘』を信じて、これほど早く動いた。夜明けを待つという約束を破棄してまで」
千人長の顔から、血の気が引いていく。
嵌められた。
論理の檻に閉じ込められたことに、今さら気づいたのだ。
「つまり、貴公らの手駒は、無益な混乱を招くだけの『質の低い、口の軽い男』だったということだ」
重い沈黙。
暖炉が爆ぜる音だけが、千人長の屈辱を際立たせる。
若者は、泳ぐ目を見据えて言い放つ。
「帝国ともあろう大国が、これほど脆い駒を使っているとは失望した。もっと賢い駒を使うよう、本国の主によく伝えておくことだ」
千人長の拳が震える。
反論できない。
反論すれば、内通者の存在を認めることになる。
屈辱に顔を歪め、唇を噛み締める。鉄の味が広がるほどに。
「……今すぐ、兵を引け。これ以上の狼藉は宣戦布告と見なす。それとも、『誤報に踊らされた無能』として、皇帝への報告書に名を連ねたいか?」
千人長は、言葉を失った。
一礼もせず、逃げるように踵を返す。
嵐の中へと消えていく惨めな背中。
リオラは密かに息を吐いた。
圧倒的な軍事力を持つ大国を、言葉と知略だけで退けた。
幻肢痛に耐え、己の身を削りながら。
この若き主君は、本物だ。
この人に、私の命を預けよう。
そう、血の味のする口の中で誓った。
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▼次回予告
12/27~12/30は1日3話投稿です!
投稿スケジュールは08:10、12:10、20:10になります!




