第15話 代償は右腕の侵食、救い出したのは「歌う騎士」
……どれほどの時間が経ったのか。
浮上した意識が捉えたのは、激しい揺れと、耳をつんざく雨音。
若き主君は、蓑虫のように毛布に包まれ、誰かの背中に括り付けられていた。
黒い煤を洗い流す、冷たく激しい雨。
「……起きたか、殿下」
カイルの声だ。
疲労の色は濃いが、口調には安堵が混じる。
傷ついた左腕を庇い、右手一本で手綱を操っている。
「……まだ死ぬなよ。あんたが死んだら、この『血塗れの帳簿』も『不気味な歌を歌う騎士』も、全部ゴミになっちまう。俺の苦労を無駄にするな」
霞む視界。
だが、右腕が鉛のように重いことだけは、はっきりと理解できた。
指先の感覚がない。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
雨は小降りになったが、冷気は骨まで染みる。
国境付近の古い監視塔の廃墟。
エリンが焚き火を熾す。
爆ぜる音だけが、静寂を破る。
カイルは「兵站帳簿」を乾かしている。
表紙は黒い粘液で汚れているが、中の数字は読めるはずだ。
部屋の隅には、レオン。
傷一つない。
だが、瞳の焦点は合わず、虚空を見つめて唇を微かに動かし続けている。
声はない。呼吸のリズムだけが、あの不気味な「古い歌」の韻律を刻んでいた。
手足に焼き付いた、黒い泥の染み。
「……ウーゴは、助けられなかった」
エリンが膝を抱えて呟く。
「でも、帳簿はあります。レオンも、体は無事……」
エリンの視線が、若者の右腕に止まる。
「殿下、その、右腕……」
若者は、痛みを堪えて袖を捲った。
手首から心臓へ伸びる「黒い蔓」の紋様。
皮膚の下で脈打ち、不気味に定着している。
父王の胸にあったものと同じだ。
もはや一時的な拒絶反応ではない。魂に刻まれた「封印の鍵」の化身。
「殿下、動けますか?」
カイルが冷徹な瞳で見る。
「城からの緊急信号が届いています。ヴァインたちが不在を隠すのも限界でしょう」
薪をくべる。
「帝国の本隊も動いた。北の『異変』に気づき、山ごと焼き払う気かもしれない。……教皇国も、あの蒼い光を見て『聖戦』の大義名分を得たと確信しているでしょう」
若者は黒い蔓を見つめた。
重い。物理的にも、運命的にも。
だが、この痛みこそが「門番」である証。
「……戻ろう」
若者は立ち上がる。
「城に戻って、次の手を打つ」
カイルは帳簿をめくりながら、主君の顔を盗み見た。
蒼白だが、瞳の光は失われていない。
「……さあな。だが、あの若造は死なないよ」
エリンに向かって言う。
「死ぬような奴は、あんな無茶はしない。あれは、自分が生き残る前提で博打を打てる奴の目だ」
若者が二人を見据える。
「エリン」
掠れた、だが明確な声。
「帳簿とレオンの秘匿は任せた。レオンのことはアラリックに伝えて、ありとあらゆる手を尽くしてくれ」
エリンが頷く。
「そして……アラリックの大事な右腕を、こんな状態にしてすまないと伝えてくれ」
エリンの目が揺れる。王族の謝罪の重み。
「……分かってる。レオンも帳簿も、泥一つつけずにアラリックに届けるわ」
エリンは立ち上がり、虚ろなレオンを馬の後ろに固定した。
「……あんたの右腕、恨み言の一つでも言いたいけど……あんたが一番無茶してるんだもんね」
一瞥する。
「死なないでよ。帰ってきたら、約束の『重役』なんだから」
彼女は雨の中、北の山道を迂回して駆けていった。
◇ ◇ ◇
廃墟に残った二人。
「カイル、帳簿の内容を確認して、使える駆け引きだけ記憶しろ」
「御意。……暗算なら任せてください」
「それと、北の『異変』のもっともらしい理由を考えろ。突っ込まれたら、『我が国の切り札が暴走した』という文脈で振る。嘘八百でいい、煙に巻け」
カイルがにやりと笑う。
「クク、面白い。あんたの『切り札』を演出する脚本家になれってことか。三文芝居は得意ですよ」
「今すぐ城に向かうが、私はぎりぎりまで休む。帳簿の最重要項目だけ、直前に聞く」
魔力の消耗が、睡魔となって襲う。
「では、最後のひと踏ん張り……任せたぞ」
カイルは泥と粘液の帳簿をめくり、その凍てつく知性で「弾薬」を選別し始めた。
「……面白い。帝国の『胃袋』は、想像以上にボロボロだ。横領、水増し、架空請求……」
嬉々として呟く。
「いいですよ、殿下。あんたが眠っている間に、この腐った帝国を真っ二つに割る『毒』を、すべて頭に叩き込んでおく」
◇ ◇ ◇
若者は馬の背で、再び深い眠りに落ちた。
右腕の「黒い蔓」がドクンと脈打つ。
夢の中に現れる「底なしの穴」と「泥の中から手を伸ばす無数の影」。
耳元では、レオンの歌う不気味な韻律が、止まない呪いの子守唄のように響き続けていた。
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