第14話 退け、レムリアの名において
若き主君は、眼下の地獄を前に、一瞬で最善手を決断した。
「深追いはしない。帳簿とレオンを確保し、速攻で帰還するぞ」
カイルとエリンが、驚愕と疑念の目で若者を見る。
この地獄から何かを盗み出すなど、正気の沙汰ではない。
「試すことがある。化け物どもの動きが止まる、あるいは泥が引く瞬間が来るはずだ。その隙に帳簿を取りに行け」
若者の瞳。恐怖ではなく、冷徹な計算で光る。
「ただ、命令を忘れるな。帳簿なんかより自分の命を優先しろ。手ぶらでも構わん」
カイルを見据える。
「レオンが出てきたら、殴ってでも正気にさせて撤退させろ。……私が気絶したら、あとは頼む」
「……おい、まさか本気か?」
カイルが目を見開く。
「そんな玩具一つで、この地獄をどうにかできると……」
しかし、若者の瞳に宿る、揺るぎない「王の意志」に、言葉を飲み込む。
この若者は、勝算なき賭けはしない。
カイルは舌打ちした。
折れた左腕を庇い、右手に短剣を握り直す。
腰を浮かせ、獲物を狙う獣のような姿勢。
エリンも唇を噛み、最後のボルトをボウガンに装填した。
カチリ。冷たい金属音。
若者は懐から「公国全権委任の宝印」を取り出した。
鈍色の金属塊。
その芯には、マグマのような熱が篭っている。
「始めるぞ」
若者が宝印を高く掲げた瞬間。
世界から音が消えた。
◇ ◇ ◇
ドクン、と。
心臓と、宝印の魔石が物理的に同期した。
視界が明滅する。血管を溶けた鉛が駆け巡る。
父王の掠れた声。
『我ら一族の血は、封印の「杭」なのだ……』
「——レムリアの名において命ずる、退け」
腹の底から絞り出した、低い声。
同時に、掲げた宝印から蒼い光が放たれた。
夜空を切り裂き、波紋のようにキャンプへ広がる。
破壊の光ではない。
侵食を拒絶し、あるべき形へ押し戻す「秩序」の光。
光が触れた瞬間、黒いタールは「ヒィィィ」という沸騰音を上げて逆流した。
徘徊していた変異体たちは、巨人の手で押さえつけられたようにビタンッ! と平伏する。
醜悪な黒い蔓が光に焼かれ、炭化して崩れ落ちていく。
「今だッ! 行け!」
若者の、喉が裂けるような絶叫。
カイルが疾風のごとく走り出す。
痛みを忘れ、恐怖をねじ伏せ、数秒の隙を突く。
泥に沈みかけていた「兵站帳簿」をひったくり、そのまま大穴の縁へ。
「レオン! 生きてるか! 返事をしろ!」
穴の底へ向かって吼える。
光に照らされ、後退する泥の海。
その中から、ドロドロに汚れた人間の手が突き出された。
「……あ……あああ……」
レオンの声だ。
だが、助けを求める悲鳴ではない。
恍惚とした、異界の「聖歌」のような響き。
カイルが身を乗り出し、その滑る手をガシリと掴んだ瞬間。
ミシリ。
若者の手の中の宝印が、砕けるような音を立てた。
光が急速に衰える。
代わりに、若者の右手の血管が黒く浮き出した。
父王と同じ「黒い蔓」。皮膚の下を這い回り始める。
一族の血を「杭」として捧げる代償。
寿命か、魂か。何かが削り取られていく。
視界が赤く染まり、強烈な目まい。
地面が揺れ、空が落ちてくる錯覚。
「……ぐ、っ……あ……!」
カイルがレオンを引き抜こうとする。
だが、泥の中から樹木のような太い触手が数本、レオンの足に絡みついていた。
「殿下! こいつ、重すぎる! 泥が……泥が離さねえ!」
悲鳴にも似た報告。
引き上げられるレオンの目は虚ろだ。
だが口元だけは不気味に笑み、異界の歌を紡ぎ続けている。
「殿下! 鼻血が! もうやめて、殿下の命が吸い取られる!」
エリンが背後から肩を支え、叫ぶ。
若者の意識が遠のく。
宝印の光が消えれば、再び黒い波に飲み込まれる。
ここで手を離せば、自分たちは助かる。
だが、忠臣を見捨てる王になど、なるつもりはない。
歯を食いしばり、最後の力を右手に込める。
「カイル! 3、2、1で引いて、無理なら撤退だ! 行くぞ!」
◇ ◇ ◇
「……クソったれが、分かったよ! 博打の最後の一枚だ、付き合ってやる!」
カイルが叫ぶ。
激痛の走る左腕も使い、渾身の力でレオンの手を掴み直した。
血管が切れ、新たな血が噴き出す。
エリンは若者の体を必死に支える。
「3……2……1……!!」
若者のカウントに合わせ、宝印が最後の爆発的な一閃を放つ。
闇を焼き尽くす輝き。
「おおおおおおおッ!!」
カイルの咆哮。
足元の岩盤を踏み砕き、引き上げる。
ベチャリ。
生肉を引き剥がす音。
泥の触手が光に焼かれて千切れ飛び、レオンの体が宙に浮いた。
カイルはそのままレオンを抱え込み、背中から転がる。
救出成功。
しかし、代償は即座に訪れた。
宝印の光が、ガラスの砕ける音と共に消失する。
闇が戻る。
同時に、若者の右腕を走る激痛。
黒い蔓の紋様が、手首から肩口まで一気に駆け上がる。
皮膚が焦げ、肉が変質する感覚。
「殿下ッ!?」
エリンの叫び声が、遠い水底から聞こえた。
鼻と口から、鉄の味のする熱い液体がゴボリと溢れる。
若者の視界は、瞬く間に深淵の闇へと落ちていった。
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