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隻腕の代理王 ―腕一本で国が救えるなら、安いものだ―  作者: ryoma
【第3章:帝都強行編】

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第14話 退け、レムリアの名において

若き主君は、眼下の地獄を前に、一瞬で最善手を決断した。


「深追いはしない。帳簿とレオンを確保し、速攻で帰還するぞ」


カイルとエリンが、驚愕と疑念の目で若者を見る。

この地獄から何かを盗み出すなど、正気の沙汰ではない。


「試すことがある。化け物どもの動きが止まる、あるいは泥が引く瞬間が来るはずだ。その隙に帳簿を取りに行け」


若者の瞳。恐怖ではなく、冷徹な計算で光る。


「ただ、命令を忘れるな。帳簿なんかより自分の命を優先しろ。手ぶらでも構わん」


カイルを見据える。


「レオンが出てきたら、殴ってでも正気にさせて撤退させろ。……私が気絶したら、あとは頼む」


「……おい、まさか本気か?」


カイルが目を見開く。


「そんな玩具一つで、この地獄をどうにかできると……」


しかし、若者の瞳に宿る、揺るぎない「王の意志」に、言葉を飲み込む。

この若者は、勝算なき賭けはしない。


カイルは舌打ちした。

折れた左腕を庇い、右手に短剣を握り直す。

腰を浮かせ、獲物を狙う獣のような姿勢。

エリンも唇を噛み、最後のボルトをボウガンに装填した。

カチリ。冷たい金属音。


若者は懐から「公国全権委任の宝印」を取り出した。

鈍色の金属塊。

その芯には、マグマのような熱が篭っている。


「始めるぞ」


若者が宝印を高く掲げた瞬間。

世界から音が消えた。


◇ ◇ ◇


ドクン、と。

心臓と、宝印の魔石が物理的に同期した。

視界が明滅する。血管を溶けた鉛が駆け巡る。


父王の掠れた声。

『我ら一族の血は、封印の「杭」なのだ……』


「——レムリアの名において命ずる、退け」


腹の底から絞り出した、低い声。


同時に、掲げた宝印から蒼い光が放たれた。

夜空を切り裂き、波紋のようにキャンプへ広がる。

破壊の光ではない。

侵食を拒絶し、あるべき形へ押し戻す「秩序」の光。


光が触れた瞬間、黒いタールは「ヒィィィ」という沸騰音を上げて逆流した。

徘徊していた変異体たちは、巨人の手で押さえつけられたようにビタンッ! と平伏する。

醜悪な黒い蔓が光に焼かれ、炭化して崩れ落ちていく。


「今だッ! 行け!」


若者の、喉が裂けるような絶叫。


カイルが疾風のごとく走り出す。

痛みを忘れ、恐怖をねじ伏せ、数秒の隙を突く。

泥に沈みかけていた「兵站帳簿」をひったくり、そのまま大穴の縁へ。


「レオン! 生きてるか! 返事をしろ!」


穴の底へ向かって吼える。

光に照らされ、後退する泥の海。

その中から、ドロドロに汚れた人間の手が突き出された。


「……あ……あああ……」


レオンの声だ。

だが、助けを求める悲鳴ではない。

恍惚とした、異界の「聖歌」のような響き。


カイルが身を乗り出し、その滑る手をガシリと掴んだ瞬間。


ミシリ。

若者の手の中の宝印が、砕けるような音を立てた。

光が急速に衰える。


代わりに、若者の右手の血管が黒く浮き出した。

父王と同じ「黒い蔓」。皮膚の下を這い回り始める。

一族の血を「杭」として捧げる代償。

寿命か、魂か。何かが削り取られていく。


視界が赤く染まり、強烈な目まい。

地面が揺れ、空が落ちてくる錯覚。


「……ぐ、っ……あ……!」


カイルがレオンを引き抜こうとする。

だが、泥の中から樹木のような太い触手が数本、レオンの足に絡みついていた。


「殿下! こいつ、重すぎる! 泥が……泥が離さねえ!」


悲鳴にも似た報告。

引き上げられるレオンの目は虚ろだ。

だが口元だけは不気味に笑み、異界の歌を紡ぎ続けている。


「殿下! 鼻血が! もうやめて、殿下の命が吸い取られる!」


エリンが背後から肩を支え、叫ぶ。

若者の意識が遠のく。

宝印の光が消えれば、再び黒い波に飲み込まれる。


ここで手を離せば、自分たちは助かる。

だが、忠臣を見捨てる王になど、なるつもりはない。


歯を食いしばり、最後の力を右手に込める。


「カイル! 3、2、1で引いて、無理なら撤退だ! 行くぞ!」


◇ ◇ ◇


「……クソったれが、分かったよ! 博打の最後の一枚だ、付き合ってやる!」


カイルが叫ぶ。

激痛の走る左腕も使い、渾身の力でレオンの手を掴み直した。

血管が切れ、新たな血が噴き出す。


エリンは若者の体を必死に支える。


「3……2……1……!!」


若者のカウントに合わせ、宝印が最後の爆発的な一閃を放つ。

闇を焼き尽くす輝き。


「おおおおおおおッ!!」


カイルの咆哮。

足元の岩盤を踏み砕き、引き上げる。


ベチャリ。

生肉を引き剥がす音。

泥の触手が光に焼かれて千切れ飛び、レオンの体が宙に浮いた。


カイルはそのままレオンを抱え込み、背中から転がる。

救出成功。


しかし、代償は即座に訪れた。

宝印の光が、ガラスの砕ける音と共に消失する。

闇が戻る。


同時に、若者の右腕を走る激痛。

黒い蔓の紋様が、手首から肩口まで一気に駆け上がる。

皮膚が焦げ、肉が変質する感覚。


「殿下ッ!?」


エリンの叫び声が、遠い水底から聞こえた。

鼻と口から、鉄の味のする熱い液体がゴボリと溢れる。


若者の視界は、瞬く間に深淵の闇へと落ちていった。


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