第13話 腐った大地と、異形の兵士たち
若き主君は一人、闇と沈黙の街道を駆けた。
黒い煤が、弔いの灰のように音もなく降り積もる。
愛馬のたてがみと、マントがどす黒く染まっていく。
北へ進むにつれ、気温が急激に下がった。
生命を拒絶する、死の冷気だ。
鼻孔を突く強烈な硫黄の臭気。
古びた鉄錆と、乾いた血の匂いが肺腑を焼く。
数時間の強行軍。
巨大な裂け目のような影が現れる。
「鉄の峡谷」の入り口だ。
緑の針葉樹は、見る影もない。
分厚い煤が色彩を奪い、木々は枯れ木の墓標となって立ち尽くしている。
風が枯れ枝を鳴らす乾いた音だけが響く、灰色の死の世界。
その先に、不気味な光源が見えた。
帝国の篝火。
炎の色さえも、病的な紫色を帯びている。
◇ ◇ ◇
若者は岩陰に馬を隠し、泥と煤の地面を這う。
隻腕の不自由さを感じさせぬ低い姿勢。
稜線を越え、眼下を目にした瞬間、背筋が凍った。
帝国の輜重部隊のキャンプ地。
数十のテント。積み上げられた物資。
だが、兵士たちの様子が異常だ。
歩哨も立てず、暖も取らず、ただ棒立ちになっている。
互いに言葉を交わさず、瞬きもしない虚ろな目で、地面に穿たれた巨大な「穴」を凝視している。
不気味な宗教儀式のように。
穴からは、黒いタールのような粘液が脈打つように溢れ出している。
粘液が触れた草木はジュワジュワと腐り落ち、土が壊死していく。
腐った卵と甘い果実を混ぜたような、吐き気を催す腐臭。
「……遅かったな、殿下」
背後の枯れ草が鳴り、首筋に冷たい切っ先が触れた。
若者は動じず、手を挙げる。
声の主は、鉄錆と蒸留酒の匂いを纏ったカイルだった。
伊達男の面影はない。
左腕はズタズタに裂けたコートごと不自然に吊られ、鮮血がボタボタと滴っている。
顔色は蝋のように白く、脂汗が浮いていた。
傍らには、エリンが岩に背を預けている。
生意気な少女が、今は肩で息をし、壊れたボウガンを抱きしめていた。
瞳に焼き付いた恐怖の色。
「よく生き残ってくれた」
若者はカイルの濁った瞳を見る。
「来るのが遅くなりすまない」
カイルは短剣を下ろした。手は微かに震えている。
「……状況を教えてくれ。レオンとウーゴは死んだのか? 引き返せと厳命していたはずだが」
カイルは力なく首を振った。
「死んだかどうかは、賭けの対象にもなりゃしませんよ。あの黒い泥の中に消えて、生きて戻った奴はいない。だが……」
激痛に顔を歪ませ、傷口を強く押さえる。
「引き返せという命令は、奴らも守ろうとしていた。だが、運が悪すぎたんです」
◇ ◇ ◇
カイルが、うわ言のように悪夢を語り始めた。
「合流地点で、ウーゴが俺に情報を渡そうとした瞬間だ。山が『悲鳴』を上げたんだ。大地が、腹の中の腐った中身をぶちまけるように、唐突に割れた」
エリンが、泥と涙で汚れた顔を上げて継ぐ。
「……帝国兵たちは、狂ったように掘り続けていたわ。ドワーフの忠告も無視して。彼らが掘り当てたのは、青晶石じゃなくて、巨大な『肉の洞窟』だった。そこから、黒い蔓が……何百本もの蛇みたいに一斉に溢れ出してきたの」
カイルが顎で、暗闇のキャンプを指す。
「レオンの野郎……腰を抜かしたウーゴを抱えて逃げればいいものを、衝撃で落ちた『兵站帳簿』を拾おうと足を止めた」
悔恨と苦渋に満ちた声。
「奴は言ったんですよ。『これがないと、殿下のブラフは本物にならない』ってな。……あんたへの忠義だ。その一瞬の遅れを、地面からの黒い触手が逃さなかった。ウーゴを、そして助けようとしたレオンを……まとめてあの穴の深淵へ引きずり込んでいった」
若者は左手の拳を握りしめた。爪が食い込む。
自分の策が、忠臣を死地へ追いやったのか。
ズキン。
右肩が痛む。
幻肢痛。
骨の軋むようなノイズが、罪悪感と共に脳を焼く。
「……ドワーフたちは」
「もういない」
カイルが絶望的に首を振る。
「帝国が掘り当てたのは、資源なんかじゃない。……あれは、大地の膿だ。ドワーフたちは、それを物理的に『封印』していたんだろう。だが、帝国の無知な連中が蓋を開けてしまった」
ドクッ、ドクッ、ドクッ……。
キャンプの大穴から、湿った鼓動音が響く。
黒いタールは生き物のように広がり、死体を飲み込み、新たな「苗床」に変えていく。
その時。
直立していた帝国兵の一人が、カクカクと油の切れた人形のように首を曲げ、こちらを向いた。
若者は息を呑んだ。
顔の皮膚は裂け、中からは赤黒い筋肉と、眼球の代わりに脈打つ黒い根が露出している。
口からは、人間の舌ではなく、数本の細い触手が垂れ下がっていた。
彼らは言葉を発しない。
裂けた喉から「シュルシュル……」という空気が漏れる音を立て、周囲の「生きた熱」を探して鼻を蠢かせている。
「殿下、今の俺たちにできるのは、穴の縁の帳簿を回収して逃げるか……あるいは、あの化け物どもにバレる前に、岩盤を崩して封鎖することだ」
カイルが射抜くような目で見つめる。
「だが、帳簿の周りには、あいつらが群がっている。……それと、もう一つ。信じられない話だが」
声が低くなる。
「あの穴の底から、レオンの声が聞こえた気がしたんだ。……悲鳴じゃない。何か、古い歌のような、奇妙な韻律を口ずさむ声が」
黒い煤が、頬に冷たく付着する。
足元からの絶え間ない振動。
ドクッ、ドクッ。
この異変は、ここだけにとどまらない。
地下の「根」を通じて、脈動はレムリア公国の足元へと、刻一刻と伸びているのだ。
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