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隻腕の代理王 ―腕一本で国が救えるなら、安いものだ―  作者: ryoma
【第2章:狂った忠臣と北の地獄編】

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第12話 単身、地獄の源泉へ

その時だった。


窓の外から、不吉な地響きが届く。

巨大な青銅の鐘を、神のハンマーで叩き潰したような音。

ガラスが震え、部屋の空気が歪んだ。


老宰相ヴァインは窓に駆け寄る。

視線は城下ではなく、さらに遠く。

北の空へ。


「……何ということだ」


『鉄の山脈』の稜線が、血を吐いたように赤く焼けている。

夕焼けではない。地表から噴き出す、禍々しい紅蓮の光だ。


「殿下……見てください。山が……燃えています」


若き主君も無言で窓辺に立つ。

そして、二人は同時に気づいた。

空から「何か」が降り注いでいることに。


雪ではない。

黒い、粉末。

ヴァインが窓を開け、手を差し出す。

掌の上で、黒い染みとなって溶けた。


煤だ。

脂ぎった、異臭を放つ黒い煤。

雪のように静かに、しかし死の宣告のように不吉に、街並みに降り積もる。

白い石畳が、見る間に黒く汚されていく。


「……北で、何かが起きた」


若者は、懐の宝印を熱くなるほど握りしめた。


「カイルたちが向かった先だ。……封印が、破られたか」


◇ ◇ ◇


感傷に浸る時間はない。

判断は迅速で、冷徹だった。


「ヴァイン」

「はい」

「父王の隠居はまだ公表するな。このカードは、私が最も効果的なタイミングで切る」

「……御意。『鉄獅子』エドワード王健在の幻影こそが、民に必要な『錨』となります」


若者は続ける。


「教皇国、帝国へ極秘裏に密使を送れ。正しい情報を伝え、『王代理の王太子は、上層部がこんな稚拙な作戦を立てるとは思えず、責任ある者との面会を求めている』と伝えろ」

「承知いたしました」

「現場での無礼は、独断専行の者への対応だと言い訳しろ。貴国の名誉のため誠実に対応すると。……顔を立ててやれば、奴らも引くに引ける」


ヴァインは舌を巻いた。

現場を「無能な暴走者」と切り捨て、上層部の退路を用意する。

敵を作りながらも、交渉の糸口は決して切らさない。

氷の上で剣舞を踊るような、老獪な芸当。


◇ ◇ ◇


数刻後。

黒い煤が舞う中、若き主君はバルコニーに立った。

眼下の大広場には、怯える数万の民衆。

死と混乱への恐怖。指導者への不信。


若者は一歩前に出る。

隻腕の姿。


「レムリアの民よ! 聞くがいい!」


よく通る声が、煤まみれの空気を震わせた。


「城外の騒乱は、敵国の工作に過ぎぬ! 王死亡のデマを流した卑劣な鼠どもは、既に粛清した!」


どよめきが広がる。


「父王エドワードは健在である! 今は静養が必要なだけだ。安心してほしい!」


張り詰めた空気が緩み、安堵の吐息が漏れる。


「ただ、王の体調が思わしくないのは事実だ。しばらくは王代理として、私が舵を取る。……私の隻腕を見て、頼りないと思う者もいるだろう。だが!」


左手を高く掲げる。


「この腕一本で、先ほど二大国の軍勢を退けた! 私の目指す国は、誰かの慈悲に縋る国ではない。自らの足で立つ強き国だ!」


歓声はない。だが、視線が変わった。


「その一環で、私に協力してくれる者がいないか。いれば、力を貸してほしい!」


驚きの声。

王族が、民に助力を乞うなど前代未聞だ。


「身分は問わない。貴族、平民、罪人。構わぬ! 今の私に必要なものをアピールする者がいれば受け付ける。共に守り抜く気概のある者を、私は歓迎する!」


一瞬の沈黙。

絶望の中に一筋の「実利」と「希望」を見出した者たちの、重い熱気。

やがて、「殿下万歳!」の声が上がり、波紋のように広がっていった。


◇ ◇ ◇


夕刻。

北の空だけが不気味に赤い。

執務室。三人の側近の報告。


「……軍内の士気は持ち直しております」


アラリックの声に滲む誇り。


「兵たちは殿下を信じ始めています。今は……次の号令を、飢えた狼のように待っております」


「貴族たちは、外交的博打の成功に驚愕し、様子見です」


ヴァインの冷静な分析。


「今のところは『若き王太子を敵に回すのは得策ではない』という空気が支配的です」


「民衆は……降る煤を恐れていますが、パニックは収まりました」


リオラの報告。


「人材募集に応じようと、怪しげな錬金術師や傭兵、詐欺師崩れまでもが噂話を始めています。熱気はあります」


若き主君は頷く。


「……離反寸前ではないが、持ち直してもいない。綱渡りは続くということだな」


その時。

コンコン、と窓を鋭く叩く音。

濡れた伝書鷹。エリンの紋章。

足の筒には、破り取られた地図の端切れ。

震える手で書かれた殴り書き。


『——ドワーフの山門に到達。だが、山が割れた。酒だけでは足りない。ウーゴの情報通り、帝国は「何か」を掘り当ててしまった。レオンとウーゴが……』


文字は途切れている。

裏には、黒く粘り気のある液体が付着していた。


若き主君は紙を握りしめる。

嫌な予感が、確信へ変わる。


「……やはり、北か」


窓の外。

降り積もる煤が、街を死の色に染め上げている。


「私は人知れずカイルのもとへ向かう。城のことは任せたぞ」


側近たちが言葉を失う。


「殿下、正気ですか!? 国家元首が単身で戦場へ……万一のことがあれば、国は終わります!」


ヴァインが声を絞り出す。


「分かっている。だが、音信が途絶えた。父上は『封印を見届けろ』と言った。これは『門番』としての責務だ」


マントを翻し、準備を始める。


「すぐ戻る。が、間に合わなかったら時間稼ぎを頼んだぞ。使者が来るまで、民衆の一次審査を頼む」

「……基準は」

「信がおけるかどうか。異端だろうがポンコツだろうが通せ。一芸と信頼だ」


一拍置く。


「信頼は忠義ではない。カイルのように、利害が一致すれば使いようはある」


ヴァインが深く頭を下げる。

若者はリオラを見た。


「リオラ、セドリック以外の裏切り者を徹底的に洗え。一次通過者の身辺調査も頼む。毒は排除せよ」

「承知いたしました。影よりお守りいたします」


最後にアラリック。


「アラリック。軍の士気をコントロールせよ。洗練された兵団は少数でも脅威になる」


目を覗き込む。


「兵たちに伝えろ。私が好むのは、戦わずして勝つことのできる、賢く強い兵団だと」

「……御意!」

「志願者がいれば増やしてもいい。ただし、お前が魂の形を見極めることを条件とする」


アラリックは胸に手を当てた。


「この目で、必ずや」


一礼し、愛馬の手綱を差し出す。


「殿下……どうか、ご無事で。城門は死守いたします」


若き主君は馬に跨った。

ズキン。

右肩がまた痛む。

幻肢痛という名の警鐘を聞きながら、隻腕の王は北の闇へと駆け出した。



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