第10話 死角からの狼煙、あるいは父王の「目覚め」
雨上がりの湿った空気。
レムリア公城は、重く沈んだ静寂に包まれていた。
石壁は水分を吸って黒ずみ、廊下にはカビと古びたタペストリーの匂いが澱む。
老宰相ヴァインは執務室の窓際で、軋む膝をさすっていた。
この数日間の激動を整理する。
手元の駒は、すべて盤上に放たれた。
北へ向かう者たち。
「不実な天才」カイルと、「野良犬」エリン。
そして若き将校レオンと、生き証人ウーゴ。
帝国の兵站機密という爆弾を抱えて、雪深い山道を進んでいるはずだ。
城内に残る者たち。
騎士団長アラリック、侍女長リオラ。
地下牢には、人質のマルクスと、裏切り者セドリック。
そして、眠り続ける公王エドワード三世。
これが、レムリア公国のすべて。
薄氷の上の、危うい均衡。
◇ ◇ ◇
静寂が破れるのは、一瞬だった。
ヴァインが冷めた茶に手を伸ばした時。
視界の端、城壁の死角で何かが動いた。
鳥ではない。人影だ。
巡回ルートから外れたその場所で、潜んでいた影が身を起こした。
人影が筒状のものを掲げる。
ヴァインの血の気が引く。
シュッ。
風切り音と共に、赤い煙が噴き上がった。
狼煙だ。
鮮血のような赤が、灰色の空に毒々しい筋を描く。
ヴァインは茶器を落とし、震える足で廊下を駆けた。
心臓が早鐘を打ち、肺が悲鳴を上げる。
若き主君の執務室へ。一刻も早く。
バンッ!
礼儀も忘れ、部屋に飛び込む。
「殿下! セドリック派の残党を仕留めました!」
喉をヒューヒューと鳴らしながら叫ぶ。
「……ですが手遅れです。奴は死に際に、『狼煙』を上げました!」
若き主君が窓へ駆け寄る。
隻腕の手が、窓枠に爪を立てるように食い込んだ。
北の空。
残酷なほどはっきりと、不吉な赤い煙が立ち上っている。
風に流されながらも、それは確かな「死の合図」として空を汚していた。
セドリックが帝国と取り決めた最悪のサイン。
「公王死亡」、あるいは「城内での蜂起成功」。
「……まずいな」
若者の声が、地を這うように低い。
「門の外の千人長が、これを見逃すはずがない」
ヴァインは祈るように窓の外を見る。
だが現実は無慈悲だ。
案の定、帝国軍が動き始めている。
獲物を見つけた獣の群れ。
騎兵が一斉に馬に跨り、歩兵が重厚な盾を構える。槍の穂先が城門を睨む。
金属の擦れる音が、遠雷のように響いてくる。
「『約束の日の出まで待つ必要はなくなった』……そう判断するでしょう」
ヴァインが呻く。
「『公王死亡による混乱の鎮圧』という、強引な大義名分を得てしまいました」
同時に、城下の聖騎士たちも動いていた。
蜘蛛の子を散らすように、手柄を焦って城へ向かっている。
赤い煙を「帝国の侵攻開始」と誤認したのだ。
「……帝国と教皇国が、同時に動く」
若者が呟く。
その背中にかかる、国一つ分の重圧。
「最悪の展開だな」
その時。
空気を切り裂く悲鳴のような声。
「殿下! 公王様が……公王様がお目覚めになりました!」
朗報のはずだ。
だが、侍女の声に含まれるのは歓喜ではなく、純粋な恐怖だった。
「ですが、様子が……!」
◇ ◇ ◇
公王の寝室。
薬草と、古びた血の匂い。
若き主君が踏み込む。
異様な光景。
「鉄獅子」エドワード三世が、上体を起こしている。
痩せ衰えた体に浮かぶ、夥しい冷や汗。
だが、何より異常なのは「目」だ。
理知的な光はない。
瞳孔が開いたまま白濁し、不気味な銀色に染まっている。
虚空を彷徨う視線。そこにいない「何か」を見ている。
「……黒い……黒い根が、大陸を飲み込もうとしている……」
父王が、駆け寄った息子の左腕を掴む。
骨が軋むほどの馬鹿力。
指先から、黒い煤のようなものがボロボロと剥がれ落ち、シーツを汚す。
「息子よ……間に合わぬ……『古き契約』が破られた……あ奴らが、あ奴らが来る……」
うわ言。
掠れた、人間のものではない声。
「殿下、意識が混濁されています。マルクスの呪いか、あるいは……生死の境で『見てはならぬもの』を見てしまわれたのか」
ヴァインが震える声で囁く。
王は生きている。
だが、この狂乱した姿を、敵に見せるわけにはいかない。
「王は乱心した」と判断されれば、国は終わる。
ドォォォォォン……!
城門を叩く轟音。
破城槌か。
アラリックが窓の外を見る。
赤い煙の下、帝国の騎兵が黒い雲のように城壁へ押し寄せていた。
「殿下、帝国軍が……開門を要求しています! 猶予はありません!」
ズキン。
若者の右肩が跳ねた。
幻肢痛。
失った腕の断面が、焼けた鉛を流し込まれたように熱い。
脳を揺らすノイズを、歯を食いしばって飲み込む。
若き主君は、父王の手を、痛みと愛惜を堪えて引き剥がした。
今は、うわ言を聞いている時間はない。
王として、国を守らねばならない。
「アラリック、城壁へ。私が直接指揮を執る」
翻したマントの下で拳を握りしめ、若者は戦場となる城壁へと向かった。
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