第二話:街一番のパンを横取りしたら、「分かち合いの聖女」として神格化されました。〜私の強欲、優しい世界では「自己犠牲の美徳」らしい〜
昨日、メイドのエルナに行った「完璧な罵倒」が、まさかの「健気な激励」として感謝されるという結果になってしまった。アリアは、聖女に祭り上げられたという事実に、煮え湯を飲まされたような屈辱を感じていた。
(ちくしょう、ちくしょう! 私は悪役なのよ! なのに、この顔とこの世界のせいで、何をやっても優しさに変換されるなんて最悪だわ!)
性悪の炎を燃やし続ける私にとって、この「悪意が通じない」世界は、乗り越えるべき巨大な壁だ。家庭内で失敗したなら、次は人目の多い公共の場で、より大規模な悪事を働くしかない。
ターゲットに定めたのは、王都で一番の行列ができるというパン屋『金の穂』だ。そこの名物である『天使のミルクパン』は、一日に限定五十個しか焼かれないという。
私は、可愛らしいドレスに身を包み、護衛を振り切ってパン屋へと向かった。
店の前には、小さな行列ができていた。その先頭には、私と同じくらいの年の、元気そうな少年が立っている。少年の手には、大切そうに握りしめられた銀貨が一枚。彼は、まさに最後の一個の『天使のミルクパン』を手に入れようとしているところだった。
(あれを横取りする。そして、純粋な少年の目の前で、それを踏み潰してやる。泣き叫ぶ子どもを見て、私はようやく悪役としての充足感を得られるわ)
私の脳内では、少年が絶望する姿が完璧にシミュレートされていた。
私は行列を無視して、少年の横に割り込んだ。
「ねえ、あなた」
「え? あ、お嬢様……?」少年は驚いた顔で私を見上げる。
「あなた、そのパンを買うの? 駄目よ、私に献上しなさい」
私は威圧感を込めて、最高の悪役スマイルを浮かべた。続けて、パン屋の主人にも聞こえるように、わざと大きな声で言葉を吐き捨てる。
「こんな安っぽいパン、私一人が独占してやるわ! よし、この汚らわしい最後の一個は私がいただくわ!」
パン屋の主人や、後ろの行列の客たちが、一斉に息を飲んだ。勝った。この言葉は、パンを蔑み、少年の夢を打ち砕き、私自身の強欲を露わにする、究極の自己中心的な悪行だ。
少年は、目を丸くして私を見つめている。彼の瞳に、すぐにでも涙が浮かび始めるはずだ。
「……あ、アリア様……!」
少年が発した声は、しかし、絶望ではなく、感動に震える声だった。
「やっぱり! アリア様は、聖女様だったんだ!」
「は?」
少年は、大事に握っていた銀貨を、パン屋の主人に渡すことさえ忘れ、両手でミルクパンを受け取るフリをした私の手にそっと触れた。
「私、知っています! アリア様は、このパンを、ご自分では召し上がらないのですよね!」
「え? な、何を言っているのよ?」
「このパンを、もっと貧しい人々、今日一日頑張った人々、あるいは孤児院の皆と分け合うべきだという、アリア様の利他精神の表れなのですね!」
少年は目をキラキラと輝かせて断言した。
パン屋の主人も涙ぐみながら身を乗り出す。
「お嬢様……なんと、健気な! わが店のパンを『安っぽい』と言い捨てることで、ご自分がこの最高の味を独占するつもりがないことを示された。そして、あえて『汚らわしい』という厳しい言葉を使ってまで、このパンが真の奉仕に値する人々に届くよう、自ら横取りを決意されたのですね!」
「ち、違う! 私が独り占めするのよ! 今すぐ、ここで食べるの!」
私が口を開く間もなく、行列の客たちが一斉に感動の拍手を送り始めた。
「さすがは聖女アリア様! ご自分の食欲よりも、他者の幸せを優先するなんて!」
「きっと、これからこのパンを手に、王都の裏路地の病人に配られるのだろう!」
「なんと健気な自己犠牲精神! 涙が止まりません!」
そして、パン屋の主人は私の前に跪いた。
「アリア様。貴女様のような方に、私どもがお金を取ることなど、断じてできません! どうぞ、この『天使のミルクパン』を、分かち合いの儀式に、無料でお使いください!」
さらに彼は、カウンターの下から、焼きたてホカホカの、さらにもう一つの人気商品『天使のメロンパン』を取り出し、私の手元に捧げた。
「こちらは、貴女様への、ささやかな感謝の印でございます。どうぞ、休憩中にお召し上がりくださいませ。これは、ご褒美です!」
横取りしたパンと、ご褒美パンの二つを抱えたまま、私は呆然と立ち尽くした。
(横取りに失敗したどころか、二つも手に入れた。そして、私の強欲は『利他精神』、私の横暴は『分かち合いの儀式』に昇華された……!?)
しかも、横取りされたはずの少年は、パン屋の手に銀貨をそっと置きながら、感極まった表情で叫んだ。
「アリア様! ありがとうございます! 私のパンが、アリア様の『分かち合いの儀式』の役に立つなんて、光栄の極みです!」
私は、パン屋から逃げ出すようにして屋敷へと戻った。
部屋で一人、二つのパンを見つめる。一つは横取りに失敗したパン、もう一つは、その偽善に対して贈られたパン。
(私は、悪事を働いて、人を傷つけたかっただけなのに……!)
口に入れたミルクパンは、甘いミルクとバターの香りではなく、私の胸に重くのしかかる「感謝」と「期待」の味がした。
私は、ぐしゃぐしゃになった顔で、静かにパンを噛み砕く。誰もいない部屋で、私だけが知っている。このパンが、私にとっては危険な「善行の証拠品」だということを。
「絶対、負けない……! 次こそは、誰にも誤解されない、正真正銘の『悪行』を働いてやるんだから!」
可愛い幼女の顔に、悪役の決意が歪む。だが、その決意は、世界の目には「分かち合いの聖女」の、次なる奉仕への健気な覚悟としか映らないのだった。




