第一話:私が転生したのは、悪の概念が存在しない「優しい世界」でした。〜私の罵倒、優しい世界では「健気な激励」と誤解されているらしい〜
目を覚ますと、そこは真っ白な天井だった。
「…………は?」
私は、あの時、学校の階段で足を滑らせて死んだはずだ。最後に覚えているのは、クラスで一番目立っていた少女の悪口を言って、心の中で罵倒している最中に、階段から落ちる感覚だけ。
それが、どうだ。手は小さく、ぷにぷにとしていて、目の前にいるのは、とろけるような笑顔を浮かべた美男美女のカップル。どうやら彼らは、この身体の親らしい。
(ああ、そうか。ラノベで読んだ通りの、異世界転生ってやつね)
前世の私は、容姿も才能も中の下。いつも誰かを妬み、陰口を叩き、人を貶めることでしか優越感を得られない、生粋の「性悪女」だった。だからこそ、この新しい人生では、悪事を堂々と、思う存分楽しもうと決めていた。
だが、この転生先の世界――『アステル王国』の情報が、頭に流れ込んできた時、私の決意は、まず最初の試練を迎えることになった。
この世界には、「悪意」が存在しない。
かつて存在した邪悪な魔王や争いを、数世代前の聖女がその命と引き換えに世界から「悪の概念」ごと浄化したという。結果、人々は極端に善良で純粋な心を持ち、「嘘」「裏切り」「意地悪」といった概念が、そもそも辞書から抜け落ちたような状態になっていた。
(マジで言ってんの? 何よそれ、平和ボケもいい加減にしなさいよ! 人の悪意を糧にして生きてきた私の存在価値がゼロじゃない!)
「アリア」と名付けられた令嬢としての私の生活は、甘やかされ、愛され、何一つ不自由のない、まるで綿菓子のような日常だった。これでは、私の目指す「悪役ライフ」が楽しめない。
悪の飢餓状態に陥った私は、転生から数日が経ったある日の夕刻、最初の悪事を実行に移すことを決めた。ターゲットは、私の私室で働く見習いのメイド、エルナだ。
エルナは、蜂蜜色の髪をした、瞳の大きい可愛らしい少女。ただひたすらに真面目で、私に尽くしてくれる、見るからに「純粋無垢」の権化のような存在。まさに、私が苛め抜くのに最適な獲物だ。
その日、エルナは私の注文通りに淹れた紅茶のトレイを運ぶ途中で、少しよろけてしまった。幸いにもトレイは落とさなかったが、カップの紅茶が僅かにソーサーにこぼれてしまった。
「……あ」
エルナは小さく声を出す。今だ。私は、満面の、これ以上ないほどに陰湿な笑みを顔に貼り付けた。
「エルナ」
「は、はい! アリア様、どうされましたか!」エルナは全身を震わせる。これこれ、この怯えた反応を待っていたのよ。
私は前のめりになり、可能な限り低い声で、前世で友人を見捨てた時と同じ、冷酷な言葉を浴びせた。
「この役立たずが。こんな簡単なこともできない無能は、私の屋敷には要らないわ。あなたみたいな出来損ないは、今すぐ荷物をまとめて出て行きなさい!」
胸の奥が、歓喜でざわめいた。完璧だ。彼女の瞳に、これから絶望が広がる――そう確信した。
ところが、エルナの反応は、私の予想の遥か斜め上を行くものだった。
彼女は、震えをぴたりと止めると、みるみるうちに瞳を潤ませ、その大きな目からボロボロと大粒の涙をこぼし始めたのだ。
「アリア、様……!」エルナはそう呟くと、その場で膝を突いた。
(え? 泣き崩れた? 傷ついたのね! やった! でも、なんで泣きながら笑ってんのよ?)
エルナは、感激に打ち震えるような声で、言葉を紡いだ。
「あ、ありがとうございます……アリア様! 私の失敗のために、そこまで心を痛めてくださるなんて……!」
(は? 何言ってんの? 傷ついて泣き喚くか、絶望して出ていきなさいよ!)
私の心の中の叫びは、この優しい世界には届かない。
「『役立たず』は、きっと『あなたはもっと出来る子よ。期待しているわ』という意味で、私の潜在能力を信じての激励なのですよね!?」
「『荷物をまとめて出て行け!』は……きっと、私が失敗で心を痛めすぎないように、『もう今日のことは気にしなくていいから、早く休んで。そして明日、最高の私を見せて』という、究極の思いやりなのですよね!」
エルナは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、私の手を握りしめた。その手の温かさと、純粋すぎる眼差しに、私の悪意が押し戻されていくような錯覚を覚える。
「ああ、アリア様! なんて健気で清らかなお心! ご自分の身分を顧みず、失敗した私をここまで気遣ってくださるなんて……! あなた様こそ、この世界に舞い降りた、真の聖女様です!」
「ち、違う! 私はただ、お前を罵倒したかっただけなのよ!」
その時、リビングにいた両親と、他の使用人たちも異変に気づいて駆けつけてきた。彼らは涙を流すエルナと、顔面蒼白の私を見て、状況を「完全に理解」した。
「ああ、アリア! お前という子は!」母親が私を抱きしめた。「自分の使用人の些細な失敗に、そこまで心を痛め、あえて厳しい言葉で彼女を立ち直らせようとするなんて! なんて健気なの!」
父親も目を細め、感銘を受けたように頷く。「そうだ、厳しさとは、優しさの裏返し。我々の娘は、その教えを自ら体現してくれた。まさに聖女の再来だ!」
周囲の使用人たちも口々に「健気!」「なんてお優しい!」「私の知る限り、あんなにも人を思いやれる方は聖女様以外にいない!」と、私を賞賛する。
私は、愛と優しさが過剰に注がれる、その光景のど真ん中で、完全にフリーズしていた。
(何よこれ……! 私の悪意が、全部、最高の優しさに変換されてる!?)
自室に戻った私は、鏡の前で転生後の自分の姿を見つめる。きゅるんとした瞳、桜色の頬。どう頑張っても性悪女には見えない、可愛らしい幼女の顔。
「くっそ……! こんな、優しさの塊みたいな世界で、どうやって悪役になればいいのよ!」
悪行が、善行として受け取られ、感謝され、聖女に祭り上げられる。自分が悪事を働くたびに、罪悪感が蓄積していくという、最悪の状況。
私は唇を噛みしめ、拳を握りしめた。
「絶対に負けない……! 明日はもっと、誰もが傷つくような、とびっきりの『悪事』を働いてやるんだから! 私は悪役なのよ!」
その強い決意に満ちた私の表情は、傍から見れば、まるで世界のために身を粉にして尽くそうとする、健気で純粋な聖女そのものの顔であった。




