第3話 黒い靄の来訪
――ガチャリ。
部屋のドアが、ゆっくりと軋みをあげながら開いた。
その隙間から、冷たい風が吹き込む。だが風だけではなかった。黒いもやもやとした靄が、まるで意志を持つ生き物のように、じわじわと室内に流れ込んできたのだ。
春の背筋が一瞬で凍りついた。
(な、なんだ……あれは……!)
全身に鳥肌が立つ。足の裏から頭のてっぺんまで冷たいものが駆け上がり、体が石のように固まった。目の前の黒い靄は、ただの煙ではない。どす黒い影が集まって渦を巻き、人の形に近づいていく。まるで化け物が実体化していくような、得体の知れない不気味さ。
「ひっ……!」
思わず声が漏れる。春は情けないほど小さな悲鳴を上げ、尻もちをつきそうになった。心臓が喉元で暴れ、手が勝手に震える。
そんな春の横で、まるは一歩も動じなかった。まるは春より手のひらサイズな少女に見えるが、その目は不思議な静けさを湛えている。
「……もう来てしまったのか」
落ち着き払った声で、まるは呟いた。
春は慌てて彼女に問いかける。
「ま、まる! あれは何なんだよ!? モンスターか!? それとも……」
「違うよ、春。あれは、この世界でいう“宅配便”なんだ」
「……た、宅配便?」
意味が分からず、春は口をぱくぱくさせる。こんな恐ろしい存在が“宅配便”などと呼ばれるはずがない。だが、まるは真剣な顔でうなずいた。
黒い靄の化け物は、ゆらりと姿を揺らすと、ゆっくりと春とまるの前に立ちはだかった。ゴウッと低い音が室内を満たし、空気が重く沈む。だが襲いかかる気配はない。ただ、その手のような影が何かを抱えている。
「受け取ろう、春」
まるが一歩前に出ると、黒い靄はぐにゃりと形を変え、影の腕から“それ”を差し出した。
――金色に輝く大きな鍵。
春は目を疑った。
「……お、おい、これ……!」
「そう。王様が使っていそうな特別な鍵だね」
光を放ちながら、まるで命を宿しているかのように脈打つ鍵。その存在感は圧倒的で、ただ見ているだけで胸が締めつけられる。
まるは両手でそれを受け取ると、深く息を吐いた。
「これが、次の扉を開くためのもの」
春は混乱していた。
宅配便? 鍵? 化け物? 理解が追いつかない。だが、まるは春にその金色の鍵を差し出した。
「受け取って。これは君のものだから」
春は反射的に後ずさった。
「ちょ、ちょっと待てよ! なんで俺が!? そもそも、あんな化け物が運んできたモノを……!」
「大丈夫。あの靄は敵じゃない。ただの配達人。怖がる必要はないよ」
まるの穏やかな声に押され、春はおそるおそる手を伸ばす。冷たく震える指先が、金色の鍵に触れた瞬間――温かな光が春の手を包んだ。
(……あったかい?)
不思議な安堵感が心に広がる。さっきまで全身を支配していた恐怖が、すうっと溶けていく。
「春」
まるが真剣な目で見つめる。
「この鍵は、君の役割を示している。まだ分からないことが多いと思う。でも、君が受け取らなければならないものなんだ」
春は言葉を失った。頭の中は混乱の渦。それでも、鍵を放り投げる気にはならなかった。
――そのとき。
黒い靄の化け物が、ふっとかき消えるように消滅した。部屋の中は静寂に戻り、重苦しい空気も嘘のように晴れた。
春は呆然と玄関を見つめる。まるは鍵を見つめながら、小さく微笑んだ。
「……これで準備は整った」
「準備……? 何の?」
春が問い返すと、まるはにやりと笑った。その顔は、今まで見せたことのない自信に満ちあふれている。
「せっかくだから、ちょっと私の“力”を見せてあげる」
そう言うやいなや、まるの体を淡い光が包み込んだ。髪が宙に浮き、瞳の奥が金色に輝く。部屋の空気が一変し、まるを中心に風が巻き起こる。
春は思わず後ずさった。
「な、なんだよ……まる、お前……!」
にっこりと笑うまる。
「驚かないでね」
その瞬間、春の視界がまばゆい光に覆われた――。
――つづく。




