第11話 闇の層
黒い門をくぐった瞬間、世界の温度が下がった。
空気が重い。音が吸い込まれていくような静けさの中で、春は息を潜めた。
地面はガラスのように滑らかで、そこに映る自分の影が揺れている。
まるが小さく羽ばたきながら囁いた。
「……ここが、“闇の層”みたいだね。感じる、この重たさ。」
春はうなずく。足元の影が、まるで生き物のように伸びていく。
歩けば歩くほど、影の形が歪み、自分の姿を真似して立ち上がった。
「――よう。ひさしぶりだな。」
その声は、春自身のものだった。
目の前に立つ“もう一人の春”は、冷たい目で笑っていた。
制服も髪型も同じ。ただ違うのは、その目の奥に光がないこと。
「お前、俺のこと嫌いだろ?」
影の春が問いかけた。
春は反射的に後ずさる。「……何の話だよ。」
「“友達になろう”って言葉、耳にするだけで吐き気がする。違うか?」
声が低く響く。まるが不安そうに春を見上げる。
「やめて。春は、そんなこと――」
「言わせておけよ、まる。」
春は唇を噛んだ。
心の奥を突かれたような痛みが走る。
「……そうだよ。俺は、もう人なんて信じられない。
みんな表じゃ笑って、裏で何か言ってる。どうせ俺のことも、哀れんで見てんだ。」
影の春は微笑んだ。「正直でいいじゃねぇか。お前は俺だ。ずっとそう思ってた。」
まるが震えた声で言う。「違う! 春は優しいもん。あの時だって――」
「うるさい!」
春が叫ぶと、闇の世界が震えた。
地面にヒビが入り、影の春がそこから抜け出すように無数に増殖していく。
どの影も、春の顔をしていた。
「見ろよ。これが“お前の世界”だ。
信じられないやつらを切り捨てて、残ったのは自分の影ばかり。」
春は息を荒げながら、まるの手を掴んだ。
「……まる、逃げよう。」
「逃げちゃダメ。」まるの声は静かだった。「これは、あなたが作った闇だから。」
影たちが一斉に笑う。
笑い声が空気を裂き、まるの羽がちぎれそうに震えた。
「想像してみろよ、春。」
影が囁く。
「もし“まる”だって、ただのお前の想像だとしたら? 本当に信じられるのか?」
その瞬間、まるの輪郭が揺れた。
羽が透け、体が霞のように薄れていく。
「は、春……わたし……消えちゃうのかな……?」
「やめろっ!!」
春は地面を叩いた。
拳の下から光が走り、闇を貫いた。
その光は形を持ち、“まる”を包み込んだ。
「俺が作ったものでも、信じるって決めたんだ! それが、俺の想像だ!」
光が弾け、影たちは次々に砕け散っていった。
残ったのは、最初に現れた“影の春”だけ。
影は静かに笑った。「……少しは変わったじゃねぇか。」
「お前は、もういらない。」
「違う。俺は消えない。お前が生きる限り、ずっとここにいる。
でも――少しだけ、光の中にいてやるよ。」
影の春は微笑んで、光の粒となって消えた。
闇の層に、静寂が戻る。
まるがふらりと春の肩に寄りかかった。
「春……怖かった。でも、ちゃんと勝ったね。」
「勝ったっていうより……やっと認めたんだ。俺の中に、嫌な自分がいるって。」
まるは微笑む。「それでいいと思う。だって、心ってそういうものでしょ。」
遠くの空に、微かな光が差した。
そこに、金属のような門が浮かんでいる。
「行こう、春。次の区域、“声の層”が待ってる。」
春は頷き、握った拳を開いた。
そこには、影の春が残していった“黒い鍵”が、静かに光っていた。
――闇は、消すものじゃなく、抱えて進むもの。
そう思いながら、春は新しい扉へと歩き出した。
つづく




