第10話 北の区域
霧を抜けると、空気の色が変わった。
白かった世界は、淡い青に染まり、空に巨大な時計の歯車のようなものが回っている。
音も、風も、すべてがゆっくり動いているように感じる。
春は息をのんだ。「……ここが、北の区域?」
まるが頷く。「時間の流れが違う。たぶん、ここを作った主の“想像”が反映されてる」
二人が進むと、地面には砂ではなく、銀色の粒が敷き詰められていた。
歩くたびにシャラシャラと音が鳴る。
その音の中から、やがて声が聞こえた。
「ここは侵入者を拒む世界。お前たちは、何を求めに来た?」
振り返ると、そこに立っていたのは背の高い青年。
白いコートに、機械のような翼を背負っている。
その目は氷のように冷たく、時間そのものを見通しているようだった。
「俺たちは、“マスターキー”を探してる」
春が正直に言うと、青年はわずかに眉を動かした。
「マスターキー……。愚かだな。それは、この区域全体の心臓だ」
「心臓?」
「そう。もし手に入れようとするなら、この区域ごと壊す覚悟を持て」
まるが一歩前に出る。「あなたは……この区域の主なの?」
青年は静かにうなずく。「俺は“時の番人”。ここでは、すべての出来事が再生と停止を繰り返す。侵入者は、記録としてしか存在できない」
その瞬間、まるの体が透けた。
「えっ……!? 春、私の手が……!」
透明になりかけるまるを、春は思わず抱きとめた。
青年の声が響く。
「お前たちは“記録”ではない。ならば存在を証明してみろ。想像で、この時間に抗え」
春は歯を食いしばった。
「また想像力の勝負か……いいだろう!」
周囲が音を立てて崩れ、歯車の空が割れた。
無数の時計の針が降り注ぎ、時間が砕ける。
春は腕を上げ、イメージを描く――“動かない世界”。
時が止まった。
落ちる針も、動く砂も、青年のまばたきさえも。
だが、すぐに時間は再び動き出す。
青年が笑っていた。
「悪くない。だが、“止める”想像は“流す”想像に勝てない」
青年の翼が広がる。
その羽ばたきで、時間が逆行し、春の作った“停止世界”が巻き戻されていく。
春の身体が引き裂かれそうになる。
まるの声が飛ぶ。「春! 私の力、使って!」
「え?」
まるは自分の胸に手を当てる。「私はあなたの“想像の欠片”! 繋がれば、もっと強くなれる!」
春は目を閉じ、まるの手を握った。
心の奥で二人の世界が重なり合う。
光が弾け、巨大な“砂時計”が現れた。
その砂時計の中で、春とまるは一つの意志になり、時間の奔流を押し返した。
青年の瞳が揺れる。
「……この力……まさか、あなたたちは“原初の創造者”の……」
世界が静まる。
歯車の空は消え、青の光が淡く残った。
青年は膝をつき、胸から小さな輝く鍵を取り出した。
「これは、この区域の“部分鍵”だ。マスターキーへ通じる一片」
春はそれを受け取る。
「ありがとう。でも、どうして渡すんだ?」
青年は微笑した。
「俺も昔は、誰かの想像の中に生きていた。……お前たちのように、自由を望んでな」
まるが小さく呟く。「区域の主にも、心があるんだね」
青年の体が光に溶けていく。
「次の区域は、“闇の層”だ。そこでは、想像が恐怖に変わる。気をつけろ」
春はうなずき、鍵を握りしめた。
まるが微笑む。「次は、闇か……ちょっと怖いね」
「でも行かなきゃ。ここで止まったら、全部が“記録”になっちゃうから」
二人は歩き出す。
時計の残響が遠くで鳴り、時間の砂が足跡を包む。
その先には、黒い門がぽっかりと開いていた。
春は一度だけ振り返る。
誰もいない青い世界に、消えた青年の声が残響のように響いた。
――「時は、君の味方にも、敵にもなる」
まるが春の袖を軽く引く。
「行こう。次の区域へ」
春は頷き、黒い門をくぐる。
新たな物語が、またひとつ動き出した。
つづく




