第13話 ハルハ国建国
ハルハ河畔の戦いが遠い昔のことのように感じられる、穏やかな春が訪れていた。
あの後、リナとクラウス殿がまとめた分厚い盟約書は、ルミナリア王国の正式な印が押され、俺たちの元へと届けられた。俺たちハルハの民は、初めて一個の独立した勢力として、大国に認められたのだ。
俺たちの拠点も、もはや単なる集落とは呼べないほどに大きくなった。頑丈な鍛冶場が作られ、商人たちのための市場が開かれ、畑は青々とした芽吹きを見せている。
俺は、ハルハの地を一望できる丘の上に立ち、その光景を眺めていた。
すべてが、順調に進んでいる。……俺の気持ちを、置き去りにして。
その日の夕暮れ、ハルハの民が全員、広場に集められた。
中央の焚き火を囲み、皆が真剣な顔で座っている。その輪の中心に、俺とリナ、テムルたちがいた。
やがて、かつて俺が野盗から救った村の長老が、ゆっくりと立ち上がった。
「カイ殿。あなた様のおかげで、我々はこの草原で、何にも怯えることなく暮らすことができております。もはや我々は、ただの村人や遊牧民の集まりではありませぬ。一つの大きな家族、一つの『民』であります」
長老の言葉に、皆が深く頷く。
「そして、民には長が必要です。我らをまとめ、導いてくれる、ただ一人の……王が!」
その言葉を待っていたかのように、テムルが立ち上がり、叫んだ。
「俺たちが王と仰ぐのは、カイ様をおいて他にいない!」
「そうだ!」「カイ様が俺たちの王だ!」
広場は、熱狂的な歓声に包まれた。誰もが、俺がその座に就くことを、当然のこととして望んでいた。
だが、俺は……。
「……断る」
俺の静かな一言に、広場は水を打ったように静まり返った。
「俺は王の器じゃねぇ。俺は、この草原で、馬と羊と一緒に自由に生きていきてぇだけだ。誰かの上に立つなんて、性に合わねぇ」
そう言い放ち、俺はその場を立ち去った。
その夜、一人でパオで酒をあおっていると、リナが入ってきた。
その顔は、昼間の騒ぎが嘘のように、穏やかだった。
「カイ兄ちゃん」
「……」
「アタシたちが、カイ兄ちゃんに王様になってほしいのは、偉くなってほしいからじゃないよ」
リナは、俺の隣に静かに座った。
「昔、カイ兄ちゃんは、馬賊に家族を殺された。アタシも、奴隷として売られた。あの頃のこの草原は、力がすべての無法地帯だった。強い者が、弱い者からすべてを奪うのが当たり前だった」
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「カイ兄ちゃんが王様になってくれないなら、誰がこのハルハを守るの? 誰が、法を作り、民を導くの? また昔みたいに、みんながバラバラになって、無法地帯に戻ってもいいの?」
リナの瞳が、まっすぐに俺を見つめている。
「王様になるっていうのは、偉くなることじゃない。一番重い責任を背負って、みんなの先頭に立つってことだよ。カイ兄ちゃんは、もうとっくに、それをやってるじゃない」
俺は何も言い返せなかった。
そうだ。俺はもう、ただの一人の遊牧民ではいられない。俺の背中には、いつの間にか、五百を超える民の暮らしと、未来が乗っかっていたのだ。
三日後。ハルハ河畔を見下ろす丘の上で、俺たちの国の建国式典が執り行われた。
玉座もなければ、王冠もない。ただ、ハルハの民と、同盟の証人として招かれたルミナリア王国の使者たち――その中には、セレスティア王女とバルドゥス将軍の姿もあった――が見守るだけだ。
長老が、ハルハの民を代表して、一本の槍を俺に差し出した。俺がいつも使っているものと同じ、飾り気のない、実用的な槍だ。
「これを受け取り、我らの王となってくだされ」
「……ああ」
俺はその槍を、固く握りしめた。そして、集まった仲間たちの顔を一人一人見渡し、言った。
「難しいことは言えねぇ。だが、俺たちの家、ハルハは、俺がお前たちと一緒に守る。それだけだ」
その瞬間、大地が揺れるほどの大歓声が上がった。
皆が叫んでいる。俺の名を。俺たちの国の名を。
「ハルハ!」「カイ!」「ハルハ!」「カイ!」
夕陽が、新しく生まれた国とその最初の王を、どこまでも赤く染め上げていた。
リオンハルト王が冗談で口にした『草原の王』という称号が、今、真実のものとなった。
俺の名はカイ。ハルハの初代国王。
遊牧民の青年だった俺が、人助けをしたら、いつの間にか英雄に祭り上げられ、ついには王になってしまった。
だが、俺の物語はここで終わりじゃない。
俺の戦いは、まだ始まったばかりだ。
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