第1話 槍ひとつ、草原を駆ける
【草原の青年カイ視点】
どこまでも続く、緑の海。
空の青との境界線が曖昧になるほどに広大な草原は、風が渡るたびにさざ波のようにうねり、生命の息吹を謳歌していた。草の匂いを乗せた風が頬を撫で、遠くで草を食む羊の群れが、白い点となって風景に溶け込んでいる。
俺、カイは、愛馬の背に揺られながら、その穏やかな光景に目を細めた。肩に担いだ獲物の野生羊がずしりと重い。今日の夕食は、少しばかり豪華になりそうだ。
この大草原が、俺の家であり、庭だった。パオと呼ばれる移動式の家で暮らし、牧畜で生計を立てる。それが俺たち遊牧民の暮らしだ。
父親から受け継いだこの生活を、俺は気に入っている。
ただ一つ、決定的に欠けているものがあった。それは、共に食卓を囲むはずだった家族の温もりだ。
俺の親兄弟は、物心つくかつかないかの頃に、悪辣な馬賊の手によって皆殺しにされた。あの日、燃え盛るパオの前で一人立ち尽くしたときの絶望と、腹の底から湧き上がった黒い怒りを、俺は一日たりとも忘れたことはない。
それ以来、槍と弓を鍛えるのが日課になった。牧畜のかたわら、狩猟に明け暮れた。それは生活のためだけでなく、いつか家族の仇を討つため……いや、この草原から、俺と同じような悲しみを味わう人間を一人でも減らすための、自分自身への誓いだった。
まあ、自分でもそこそこの腕なのかな? と思うことはある。この槍一本と弓矢があれば、大抵の獣には負ける気がしない。
(さて、そろそろ自分のパオへ帰るとするか)
西の空が茜色に染まり始めている。影が長く伸び、一日が終わろうとしていた。上機嫌で鼻歌でも歌いながら馬の腹を軽く蹴り、家路につこうとした、その時だった。
風に乗って、遠くからかすかな悲鳴が聞こえた気がした。
幻聴かと思ったが、馬も耳をぴくりと立て、不安げに鼻を鳴らしている。
俺は舌打ちを一つすると、馬の首筋を優しく叩いて落ち着かせた。
「穏やかじゃねぇな……行くだけ行ってみるか。ヤバくなったら逃げればいいしな」
独り言ちて、俺は馬に強くムチを入れた。風を切って草原を疾走する。
音のした方角へ近づくと、小高い丘の向こうから土煙が上がっているのが見えた。馬から飛び降り、足音を忍ばせて丘を駆け上がる。頂上から身を低くして様子をうかがうと、案の定、面倒な光景が広がっていた。
数台の馬車で構成された隊商らしき一団が、十人ほどの馬賊に襲われている。荷物を漁り、抵抗する者を容赦なく斬り捨てる馬賊たちの甲高い笑い声が、ここまで聞こえてきそうだった。
夕陽が、抜かれた刃を不気味な赤に染めている。
(またか……)
胸の奥で、忘れていたはずの黒い炎が再び燃え上がるのを感じた。あの日の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
助ける義理はない。関われば命の危険すらある。だが――。
「チッ……仕方ねえな。俺は無駄な殺しと悪い馬賊が嫌いなんだよ!」
俺は背中にくくりつけてあった愛用の槍を抜き放つ。ずしりと重い樫の柄が、驚くほどしっくりと手になじんだ。穂先が夕日を反射し、鋭い光を放つ。
再び馬に飛び乗ると、俺は敵の陣形を冷静に観察した。
(敵は十騎ってところか。戦力差は十倍。まともにやりあうのは愚策だ。なら狙うは大将の首、ただ一つ!)
馬賊たちの中心で、一際豪華な毛皮をまとい、ふんぞり返っている男がいる。あれが頭目に違いない。蛇の頭を潰せば、胴体は動けなくなる。
俺は馬の腹を強く蹴り、丘の陰から一気に飛び出した。
「うらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
大地を揺るがすような雄叫びを上げ、一直線に大将へと向かう。
俺の突撃は、完全に彼らの意表を突いていた。略奪に夢中だった馬賊たちは、突如として現れた俺に気づき、呆気に取られている。その一瞬の隙が、命取りだった。
大将の男が驚愕に目を見開き、何かを叫ぼうと口を開く。だが、その言葉が音になることはなかった。
俺の構えた槍の穂先が、男の背中を寸分の狂いもなく捉え、鎧ごと肉を貫く。ごり、と骨を砕く鈍い感触が手に伝わった。
そのままの勢いで駆け抜けると、男の背中から胸元まで、槍が深々と突き抜けていた。
敵の首領は「ごふっ」と声にならない声を上げ、口から大量の血を吹き出す。その瞳から急速に光が失われていくのを、俺は馬上から冷ややかに見下ろした。男の巨体が、まるで荷物のようにドサリと馬から滑り落ちる。
一瞬の静寂の後、残った馬賊たちが我に返った。
「おっ、おかしらがやられた!」
「ひっ、ひいいいっ、なんだアイツは!? こんなヤツいるなんて聞いてねえぞ!」
「逃げろっ! 逃げろぉ~っ!」
蜘蛛の子を散らすように、馬賊たちが逃げていく。俺はそのあとをあえて追わなかった。深追いは危険だし、何より、襲われていた隊商の馬車から、一人の女性がこちらをじっと見つめていることに気づいたからだ。
砂埃が収まっていく中、ひときわ立派な馬車の扉がゆっくりと開かれた。中から現れたのは、夕陽の光を浴びて黄金色に輝く髪を持つ、妙齢のご婦人だった。絹で織られたであろう異国の衣装は所々汚れていたが、その気品と美しさは損なわれていない。まるで、物語に出てくるお姫様のようだった。
彼女は護衛らしき男たちに守られながら、まっすぐに俺の方へ歩み寄ってくる。その澄んだ青い瞳は、恐れではなく、強い意志の光を宿していた。
「あなたが、助けてくれたのですね……」
凛とした、鈴を転がすような声だった。
彼女は俺の目の前で優雅にスカートの裾を持ち上げ、深く礼をする。
「私はセレスティアと申します。馬車の中から見ておりました! あなたのその勇気と見事な槍さばき、まるで伝説の英雄のようですわ。どうか私たちの国まで来てください! このご恩に、必ずや報いたいのです!」
「は、はあ……」
俺は困惑して、気の抜けた返事しかできなかった。
助けた? お礼? 英雄?
よくわからん。俺はただ、家族の仇であり、この草原の平穏を乱す悪い馬賊が嫌いだったから、ブッ殺しただけだ。それが、どうしてこんな大げさな話になるんだ?
(なんだか、とんでもないことに巻き込まれたような……)
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
呆然とする俺の前で、セレスティアと名乗った女性は、くすりと小さく微笑んだ。そして、白いレースの手袋に包まれた華奢な手を、そっと俺に差し伸べた。
その仕草はあまりに自然で、あまりに美しかった。
俺は一瞬ためらった後、槍を握っていたごわごわの手で、恐る恐るその手を取った。彼女の指先は、驚くほど柔らかく、そして温かかった。
こうして、俺の運命は、自分でもまったく予期しない方向へと、大きく舵を切ることになったのだった。
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