終章
山間の村に、乾燥した風が吹き下ろす。季節は冬に入ろうとしていた。
天主廟の前に立てられた粗末な木札を目にして、思わず足が止まった。
この村は羽ノ国の西の端にある。山を超えればそこはもう異国だ。西隣の国とは幸い長年友好な関係を築いており、人も物資も普段から交流があるため緊張感はない。村の人々は山の恵みを享受し、平和に暮らしている。
そんな村でも、銀鴒天主に対する信仰は篤い。村人は毎朝小さな廟にやって来て祈りを捧げてから、その日の作業に取り掛かる。
その廟に、今朝方お触れが出た。書かれているのは、ごく短い文章だ。
――夏の御鳥児、交代の報。御鳥児の徴が出た者は、すみやかに名乗り出るように。
夏の御鳥児、と言えば。
……そうか。ついにあの方も、務めを終えられるのか。
王宮で過ごした日々が蘇る。
神の小鳥とは言われるものの、あの頃の自分は鳥籠の中にいるようなものだった。愛でられて大切に守られてはいたけれど、自由に歌うことも許されず、外にも出られなかった。
今思えば、あの方は「鍵」だった。
誰もが籠の外から自分を見ているだけだった中、恐れずに歩み寄り、笑顔で鍵を開けて自由があることを教えてくれた。自らも大変な目に遭っていたのに、それを乗り越えて、いつも楽しく歌っていた。
御鳥児として共に過ごせたのは一年と少しで、隔離状態だった時期を除けばさらに短い。それでも、先に自分が御鳥児を終えることになった時には、他の御鳥児と共に歌って見送ってくれた。
また会いましょうね、と微笑んで。
あれから、既に三年が経っている。
あの方は年齢を気にしていたけれど、結果的には四年間、しっかりと御鳥児を務め上げたのだ。
お疲れ様でしたと、そう伝えたい。御鳥児の背負う責任は、自分もよく知るところだ。
文を出そうか。陽光宮宛に出してももう届かないが、何処に出せば良いのかは聞かなくても分かる。奏家だ。
常に鳥番として側にいた彼が、ずっと寄り添っていたのを知っている。愛しい人がその手を取って、共に生きてくれる日を待ちながら。
山道が騒がしくなる。甲高い声は村の子供達のものだ。親に言われて、朝のお祈りに来たのだろう。
「あっ、おねえちゃん!」
「おねえちゃん、今日も歌ってよ、ねえ!」
自分の姿を見かけるや否やまとわりついてくる子供達に、思わず笑顔になる。昔から、子供は好きだ。あちこちの街や村を訪れたが、何処に行っても子供達はかわいい。
「いいわよ。何の歌がいい?」
「おれ、あれがいい! 虹の歌!」
「えー? 私、いつもの子守唄がいい!」
「子守唄ぁ? まだ朝だぜ!」
鳥が囀るような子供達の声に、「はいはい、順番ね」と笑うと、一人の少女がふと尋ねてきた。
「おねえちゃん、今日うれしそう。どうしたの?」
「ん? そうだね、嬉しいことがあったからね」
「えっ、なになに? 知りたい! もしかして、おにいちゃんと何かあった?」
「ううん、違うのよ」
ずっと同行してくれている少年はすっかり背が高くなり、真っ直ぐな気性と覗く八重歯をそのままに、立派な青年になった。彼にも早く、このことを教えてあげたい。きっと喜ぶだろう。会いに行こう、と言ってくれるかもしれない。
「おねえちゃんの大事な人がね、大変なお役目を終えて……大好きな人と、結婚するのよ」
子供達の歓声が、陽光にきらきらと光る。目を細めると、果耀、と呼び掛けて笑ってくれたあの方の快活な笑顔が、いつでも思い描けた。
いつかの冬の日、渡された肩掛け。返し損ねて結局ここまで持ってきたそれは、今も自分に温もりを与えてくれる。
――晏珠様。どうか、幸せになってくださいね。
肩掛けをそっと撫でて、果耀は空を見上げた。村人に教わったばかりの、山の民に伝わる祝いの歌を、風に乗せて歌い始める。
天から降り注ぐ、優しく柔らかな光が。親愛なる人を寿いでくれることを願いながら。
了




