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神の小鳥は遅れて集う  作者: 糸尾 文
8 ふたたび巡る夏
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8-6

 雨上がりの湿気を纏った気が、天聴宮に漂う。


 正装に身を包んだ晏珠は、祭壇に向かってゆっくり進んでいく。静牙は斜め後ろで寄り添うように、歩幅を合わせて歩いてくれていた。


 宮の後方で待つのは、他の御鳥児と鳥番たちだ。今は背後にいるため姿は見えないが、入って来た時には全員が明るい表情で晏珠を見ていた。

 果耀の周囲にいた大量の護衛の姿は、もうない。以前と比べて生き生きとした彼女の顔が、はっきりと見えた。翠芳も桜喜も、鳥番たちも、来たる夏を心待ちにしているかのように、期待に満ちた目をしていた。


 向かう先にいるのは、新たに任命された神官長だ。無表情で冷たい表情を浮かべていた朱角とは異なり、穏やかな微笑で晏珠の歩みを見守ってくれている。

 やがて祭壇にたどり着くと、神官長は恭しくお辞儀をして少し後ずさった。



 ――「導きの儀」が今、始まる。



 初めて迎える儀式だが、晏珠はあまり緊張はしていなかった。夏の気配を僅かに含んだ風を、思い切り肺に吸い込む。


 導きの歌の最初の音は、御鳥児の個性がもっとも強く出る部分だ。翠芳は風のようにさらりと歌い上げた。果耀は輝く氷のようにきらきらと歌い始めた。桜喜は新芽のように伸びやかに歌った。

 自分ならどうするか、ずっと考えていた。けれど頭で考えても決め手はなく、最終的にはその場の流れに任せようと決めて、ここに来た。


 結論としては、それで正解だった。ここに立てば、自ずと分かる。自分が、どう歌うべきか。


 ――歌い始める時、晏珠が意識したのは「光」だった。


 夏の御鳥児の別名、光鴒。その名の意味を、今ほど強く意識したことはない。

 窓から差し込む朝日。昼の木漏れ日。夕刻の赤みがかった西日。冴え冴えとした月光。きらめく星明かり。あらゆる「光」を抱きしめて、地の隅々まで、あまねく届けたい。


 瞼の裏にふと、幼い頃に亡くした母の姿が浮かぶ。こうして歌っていると、かつての優しい笑顔が蘇ってくるようだ。



 ――母さん。聞こえてる?

 ――私の声は、そこまで届いてる?



 たくさんの歌を教えてくれた母。その歌たちは母亡き後も晏珠を慰め、守り、やがてここまで導いてくれた。



 ――母さん。私、愛する人ができたのよ。



 少し後ろにいる、静牙の気配を探る。見えなくても、彼が微笑んでいることは分かっていた。歌う晏珠を、愛しげに見つめてくれていることも。


 彼の想いに応えた日から、晏珠の心には光が灯っている。どんな時も消えないその光は、今も晏珠を照らし、勇気付けて、包み込んでくれていた。



 ――天主様。

 ――ありがとうございます、天主様。



 何かの間違いだと、ずっと思っていた。自分のような人間が神に選ばれるわけがない、と。武器を向けられ、命まで狙われて、天を恨んだこともある。

 好きで選ばれたわけじゃない。それなのに、どうして自分ばかりがこんな目に、とも思った。


 でも、今は、心からの感謝を捧げたかった。


 御鳥児に選ばれたからこそ、静牙に出会えた。愛する人に巡り会えた。

 良き友にも、仲間にも、出会うことができた。



 ――ねえ、天主様ってどこにいるの。



 子供の頃、母にそう尋ねたことがあった。母の答えは「どこでもよ」だった。



 ――空にも、大地にも、樹にも草にも水にも。あらゆるものに天主様は宿っているのよ。


 ――だからね、晏珠。いつでも心を込めて歌いなさい。あなたの声は、必ず天主様が聞いて下さっているわ。



 母の教えを、晏珠はずっと守ってきた。どんな歌を歌う時も、誰かの存在を必ず意識した。

 たとえ一人でも、聞いてくれている誰かのために歌う。それが、晏珠の「歌」だった。


 子を亡くした父親のために歌った子守唄は、御鳥児を探して当てもなく彷徨っていた、静牙の耳に届いた。

 翠芳と、桜喜と、鳥番たちと共に歌った暁の歌は、軟禁されていた果耀の耳に届いて。彼女の心を癒した。


 自信なんてなかった。年上で、育ちを言えば眉を顰められ、お前など相応しくないと何度も言われた。そのたびに自分を奮い立たせ、前を向いてきたけれど、本当は自分が一番、自分を信じられなかった。

 でも、今なら迷いなく、言える。



 ――私は、御鳥児。夏を導き、光を解放する者。



 導きの歌が進むに従って、天聴宮に光が漂い始めた。淡く柔らかな春の気配が引き始め、強く鮮烈な夏がやって来る。

 時に暴力的にもなりかねない強い力を、晏珠は慎重に抑え込みつつ、調整していった。夏の光は強すぎてもいけないし、弱すぎてもいけない。


 歌はいよいよ佳境に入り、晏珠はゆるやかに手を空へと差し伸べた。

 拮抗する春と夏の気がぶつかり合い、火花が散るような感覚に襲われた。成程、そう簡単には引いてくれないらしい。


 伸ばした手を丸く曲げる。空を抱きしめるように。

 お疲れ様。いいのよ、もう、休んでも。

 次の季節に後を託して。また、一年後に巡り来る時まで。


 ――おやすみなさい。安らかに。


 労りを込めて歌い上げると、それまで競り合っていた気が、すうっと引いた。

 晏珠は目を細め、最後の旋律を歌い始める。明るく奔放な夏の気を歌で包み込み、ほんの少しだけ宥めながら、自由にさせていく。


 そして、最後の音が訪れる。

 山に落ちる夕日の、最後の光が消えるように。音は終わった。やり遂げたのだ。


 振り返ると、皆の弾けるような笑顔が見えた。傍らに立つ静牙の、愛しい笑顔も。


 晏珠は目を閉じる。無事に導いた夏の気を全身で感じ取り、ふたたび目を開けた。



「――光鴒の、名の下に」



 声は光を纏い、明るい空へと舞い上がる。



「ここに、夏の到来を宣言します」



 空に、地に、光が満ちる。

 大きな白い鳥が、天聴宮の屋根から飛び立って、空の彼方へと羽ばたいて行った。

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