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静牙の気持ちは分かった。彼が本気で愛してくれていることも、伝わった。
それが嬉しくないと言えば嘘になる。けれど。
「……駄目よ。言えないわ、そんなこと」
「晏珠」
「静牙、人の気持ちは変わるものよ。私が御鳥児を終えるまで、あと何年かかるか分からないけど……それまであなたの気持ちが変わらないって、どうして言えるの?」
酷いことを言っていると、分かっている。永く続く愛情があることも知っている。泉玉を子供の頃から思い続けた王太子が良い例だ。
それでも、晏珠は言えない。どうしても。
酒楼は所詮、一夜の宿り木だ。自分に向けられる愛の言葉など、一時の気の迷いでしかない。目が覚めたら、皆去っていく。今までずっとそうだった。
「あなたには、私なんかよりもっと良い人がいるわ。今は気付いていないだけ。私と一緒に過ごす時間が長いから、情が移ったのよ」
「晏珠、やめろ」
「役目から解放されて離れたら、きっと気持ちも変わるわ。だから……」
それ以上は言えなかった。また、唇を塞がれてしまったからだ。
堪えていた涙が、とうとう溢れる。それを丁寧に拭いながら、静牙が言った。
「自分を傷つける嘘はやめてくれ、晏珠。聞いているこっちが辛くなる」
「う、嘘じゃないわ」
「いいや、嘘だ。君の心の声は、そんなことは言ってない」
「心の、声……?」
思いがけない言葉に目を瞬かせると、また新たな涙が溢れ落ちた。
静牙が目を細めて、瞼をそっと撫でる。
「君が心変わりを恐れるのは、俺を愛してくれているからだろう。違うか」
「ちが……そういうことじゃ……んっ」
「諦めろ。君の嘘は、俺には通用しない。聞こえるからな、本当の声が」
「聞こえるって、そんなわけないでしょう。いくらあなたが鳥番だからって……っ!」
もう、何度口付けられただろう。しかも、徐々に長くなりつつある。最初は触れるだけだったのに。
「ま、待って! 静牙、やりすぎよ!」
「君が本心を言わないからだ。嘘を吐いて自分を傷つけるなら、何度でも口を塞ぐ」
「嘘とか本当とか、そういう話じゃなくて! こんなの、駄目でしょ?! 私はこれでも御鳥児なの、天主様に顔向けできなくなるじゃない」
苦し紛れの言葉に、静牙はしばし考える様子を見せた。
「いや、大丈夫だろう。口付け程度なら密通には当たらないと、殿下が」
「それは前にも聞いたけど!! だからって、程度ってものが……」
「――前? 以前、君にこんな話をしたことがあったか?」
はっと我に返って、晏珠は慌てて手で口を塞いだ。しまった。あの晩の出来事を、静牙は忘れているのに。
「……えーと、ごめんなさい。勘違いしてたわ。あなたから聞いたわけじゃなかったかも」
「俺以外とこんな話をしたことがあるのか? 一体誰から聞いたんだ」
「うーん、泉玉だったかしら……ちょっと記憶が曖昧なんだけど……」
必死に誤魔化そうとするが、静牙の目はどんどん鋭くなっていく。まずい。この流れは非常に良くない。
「……晏珠。嘘は通用しないと、さっき言ったはずだが」
「ああ、もう! 分かったわよ! あなたから聞いたの! 鳴鈴がお酒を持ってきた夜にね!」
自棄になって叫ぶと、静牙がぽかんと口を開けた。予想外の言葉だったらしい。
「俺が……? あの晩にか?」
「そうよ。あなた、酔っ払って私を口説いたの!」
「は?! 俺が君を口説いた? それは本当か」
「嘘は通用しないんでしょ?! 本当よ、全部!」
言うつもりはなかったのに。まさか、こんな失言で芋蔓式に全部話すことになるとは。
「静牙。酔ったあなたはね、私に酒を飲ませてくれって言ったのよ。しかも、口移しで」
「……口移しで、酒を? 俺がか?」
「そう。その時、今と同じようなやり取りをしたの。私は止めたのに、あなたは、口付けくらいなら密通にならないから大丈夫だって……」
話しながら、顔に熱が集まってくる。何故、今頃こんな話を蒸し返さなければならないのか。喋っているこっちまで恥ずかしくて死にそうだ。
「……結局、あなたはお酒を飲んでまた寝てしまったんだけど。覚えてないでしょ?」
「覚えてない、が……飲んだということは、つまり、口移しをしたということか」
「何でそこに食いつくのよ! そうよ、したわよ!! しないと寝てくれなかったの!!」
もはや喧嘩腰で怒鳴る晏珠に、静牙はしばし呆然としていたが、やがて呻きながらその場に蹲った。
「そんな大事なことを何で忘れてるんだ、俺は……」
「酔っ払いなんてそんなものよ。もういいでしょ、この話は」
「いいわけないだろう。全く……自分が嫌になるな」
静牙は頭を掻いて立ち上がり、改めて晏珠に向き直った。
「君が俺を信じられないのも、無理はないな。酔って口説いて口移しまでせがんでおきながら、綺麗に忘れているとは……自業自得だ」
「だから、いいのよもう。酔ってたんだから」
「良くない。俺は、酒の場で軽率に君を口説いてきた他の男たちと、同じになるつもりはないんだ」
きっぱりと言い切って、静牙は晏珠を見下ろす。
「――愛している、晏珠。君が同じ想いを返してくれるまで、何度でも言う」
真摯な眼差しと言葉が、胸に染み込む。ひび割れた地を潤す、慈しみの雨のように。
正直に言えば、まだ恐れはある。どうせまた気の迷いだ、すぐに忘れられるぞ、という声は長らく晏珠の耳にこびりついていて、簡単には消えない。
けれど、今は。目の前の人を信じたかった。
自分を見つけてくれた人。誠実で、真っ直ぐで、融通が利かないこともあるけど、表裏がなくて。いつだって、全力で守って、信じてくれる人。曇りのない言葉と態度で、愛を伝えてくれる人。
たとえ、いつか傷つく日が来たとしても。それまでの日々は消えない。愛し、愛された事実は自分の中に残る。心にそっと火を灯して、暖めてくれる。かつて母が教えてくれた、歌のように。
「……うちの父が、酒に弱い男なんか認めないって言ったらどうする?」
「認めてもらうまで通い続けるな。だが、君の父親なら、無理に飲ませはしないだろう」
「生憎、父親代わりは沢山いるのよね。全員に認められるまで通うの?」
「君がそれを望むならな。ただ、酒は飲まない。君と過ごした時間を忘れてしまうのは、もう御免だ」
彼らしい生真面目な回答に、晏珠は頬を緩めて笑った。力の抜けた、間抜けな笑顔になってしまったかもしれない。
「……ねえ、静牙?」
「何だ、晏珠」
「嘘を吐いたら、口を塞ぐって言ったわね。じゃあ……」
――本当のことを言ったら、もう、してくれないの?
静牙は目を見開いた。額に手を当てると、深い深いため息を吐く。
「……晏珠。あまり煽らないでくれ。君は俺を罪人にしたいのか」
「え……罪人? どういうこと?」
「分からないか? そんなことを言われたら……」
――天主様から罰を食らってでも、今すぐ君に触れたくなってしまうだろう。




