7-1
天聴宮に、導きの歌が響く。
桜喜の歌声は、凍った土に染み入る雪解け水のように優しく、暖かった。冬の気配に縮こまった種子をそっと目覚めさせて、発芽を促すように。
舞い散る雪は蝶に変わり、固い蕾はゆるやかに解けて、空に向かって花弁を開いていく。凛と張り詰めた冬の気が、ふわりと緩んでいく。
歌いながら天に手を伸ばす桜喜を、蒼雷が誇らしげに見ていた。昨年、緊張のあまり怯えていた少女は、もう何処にもいない。
ここにいるのは、春の御鳥児――花鴒だ。
終始堂々とした態度で、桜喜は歌を終えた。晏珠と翠芳に視線を合わせ、小さく頷いて口を開く。
「……花鴒の、名の下に。ここに、春の到来を宣言します」
新たな春が訪れる。
そして、新たな年もまた、始まりを迎えた。
晴れやかな表情を浮かべた桜喜と蒼雷の背後で、朱角は最後までにこりともせずに立っていた。
「いいか、晏珠。くれぐれも気をつけろよ」
「はいはい、分かったってば。何回言うのよ、静牙」
春が到来して間もなく、泉玉が王太子に輿入れする日がやって来た。
王宮には慌ただしい空気が漂っている。いつもは御鳥児の世話をしている女官まで準備に駆り出されているため、陽光宮には普段より人が少ない。もっとも護衛の数は多く、宮の周りには何人も人影があった。
「夕餉までには戻ってきたかったんだが……」
「婚儀の後は祝宴があるでしょう。無理しなくていいのよ。気持ちは有り難いけど」
晏珠たち御鳥児はいつもと変わらない一日だが、夜の食事は豪華になるらしい。とは言え、静牙は王太子妃の家族として宴に出るため、それまでに戻ってくるのは不可能だろう。一人の食事が味気ないのは否定できないが、こればかりは仕方ない。
「静牙。今日だけは、『光鴒の鳥番』よりも『王太子妃の兄』であることを優先して。ね?」
「……晏珠。それは自分を軽んじているぞ」
「ええ……? そうかしら」
そんなに変なことを言ったつもりはないが、静牙は至極真面目な顔で返してきた。
「俺は、泉玉の兄として式に参列する。だが、君のことを後回しにするつもりはない。何かあれば駆けつける。王太子殿下からも、それでいいと言われているからな」
「殿下が、そんなことを?」
「ああ、あの方は王太子という立場でありながら、鳥番を務めておられただろう。ご自分の公務を放棄することはなかったが、かと言って泉玉をおろそかにもしなかった」
「まあ、あの人なら要領良くやりそうよね……」
――必ず、一日一回は顔を見せに来たのよ。
いつだったか、泉玉はそう言っていた。自分より公務を優先してほしいと何度も燕月に言ったが、彼はどこ吹く風だったと。
――あの人でないと無理な公務は、ちゃんとやってたみたいだけど。他の人でもできることは、体よく押し付けて逃れてたわ。
――しかも、私が弱ってる時に限って現れるのよ。泣いてるかと思った、とか言って。へらへら笑ってからかってくるの。そんなとこ、見られたくないのに。
泉玉は膨れていたが、燕月としてはそういう時こそ一人にはしたくなかったのだろう。性格には難のある人物だが、泉玉を想う気持ちに嘘がないのは見ていれば分かる。言動のせいで伝わっていないのが非常に残念だが。
「……それだけ、殿下は泉玉が大事だったんでしょうね。御鳥児と鳥番って関係以上に」
子供の頃から正妃は泉玉と決めており、今まで微塵も揺らがなかったくらいだ。言葉は軽率に見えても、向けている想いは重すぎるほど一途である。王太子としての公務より、想う女性の涙の方が気になって仕方がないのだろう。
「兄として、複雑な気分になったりしない?」
「いや。いずれこの日が来ることは分かっていたからな。泉玉のことは、全面的に殿下に託すつもりだ。何より……」
静牙は晏珠を見下ろして、ふっと口元を綻ばせた。
「俺には、この先ずっと……守っていきたいものがある」
「……静牙?」
「時が来たら……いずれ、きちんと話そう。それまでは、君の鳥番でいさせてくれ」
――それは……どういう意味なの?
思わず聞きたくなる衝動を、晏珠はぐっと抑え込んだ。
それまでは、と彼は言った。元より自分たちの関係は御鳥児と鳥番という、期間限定のものだ。
いつか鳥番を終えたら。静牙は自分の「守っていきたいもの」のために、生きるつもりでいる。
――分かっていたことなのに、ね。
彼に対する想いを、晏珠は既に自覚していた。
いつからかは、明確には分からない。抱きしめながら子守唄を歌ってくれたあの日からか、湖に落ちた自分を助けてくれた日からか。それとも、武器が向けられる中、「俺を信じろ」と言ってくれた日からか。
気付いた時には――愛していた。静牙を、一人の男性として。
同時に、これは叶うことのない想いだというのも理解していた。
静牙は五名家の長男にして、王太子妃の兄だ。一方、こちらはごく普通の庶民。全く身分が釣り合わない。言ったところで、困らせるだけだろう。静牙は妾や愛人を囲うような性格でもないし、自分だってそんな立場は御免だ。
伝えるつもりはなかった。一生涯。
彼は自分を御鳥児として大事にしてくれる。一片の曇りなく信じて、全力で守って、大切にしてくれていると分かっている。たとえそれが、異性に対する恋情ではなかったとしても。
いずれ御鳥児を終えても、その思い出だけでこの先、自分は生きていけるだろう。
――解放しなければ。その日が来たら。
――彼が、心置きなく。自分の守りたいものを、守りに行けるように。
それが、彩鈴のことなのか。王太子の近衛に戻るということなのか。はたまた、晏珠の知らない別の誰かのことなのかは、分からないけれど。
「晏珠……? どうした?」
黙ってしまった自分を訝しんで、静牙が尋ねてくる。晏珠は顔を上げて笑みを浮かべた。
「ううん。何でもないわ。そろそろ時間でしょう? 行ってらっしゃい」
「……そうだな。行ってくる。何度も言うが、用心してくれよ、晏珠」
「ええ。あなたも気をつけてね」
名残惜しそうに宮を出ていく静牙を、晏珠は笑顔で見送った。彼の背中が、見えなくなるまで。




