6-1
冬がいよいよ深まり、王宮にも雪が積もる日が増えた。
夜の祈りと食事を終えた晏珠は、薬湯を貰って寝所に横になっていた。昨日から少し熱っぽく、頭が痛む。軽い風邪を引いたようだ。
あの日湖に落とされて生死を彷徨ってから、どうも体力が格段に落ちた気がする。ちょっとしたことで、すぐに咳き込んだり目眩がしたりするのだ。泉玉が差し入れてくれた薬酒を寝る前に少しずつ飲んでいるが、一度風邪を引くとなかなか治らない。
――暖かくなれば、少しは良くなるだろうか。
春の導きの儀はもう少し先だ。桜喜はいつかの言葉通り、蒼雷と共によく陽光宮を訪れてくれていた。一緒に歌ったり、他愛もない話をしたりするだけだが、それでも気分はかなり楽になる。
桜喜自身、以前よりも格段に笑顔が増えた。導きの歌の練習も上々らしく、もう心配はいらないだろう。
翠芳は宣言通り、晏珠の代わりに神鎮めの儀に赴いてくれた。神託を待たず、自分が行くと神官長に直々に訴えたと言うのだから驚きである。
神官長に叱責されたりしないか、晏珠はひそかに危惧していたが、意外にもすんなり通ったらしい。王太子の取り計らいが効いたのかもしれない。もちろん無事に戻ってきて、時々桜喜と共に顔を見せてくれている。
朱角や鳴鈴が、次にどんな手に出てくるのかは分からない。燕月は考えがあると言っていたが、あれから何も音沙汰はなかった。
事が事だけに、どうなっているのか問い合わせるわけにもいかない。今はただ、淡々と日々を過ごすしかなかった。
水を飲もうと寝床から起き上がると、ちょうど静牙がやって来た。就寝前に様子を見に来たらしい。
「……起きていたのか。大丈夫か?」
「ええ。ちょっと喉が乾いたから」
「それはいいが……今夜は一段と冷え込んでいる。そんな格好では風邪が悪化するぞ」
小言を言いながら羽織を着せかけてくれた静牙に、晏珠は礼を言って寝床に腰掛けた。
体調を崩しがちになってから、静牙はより過保護になった。ほとんど側を離れず世話を焼くので、女官たちが冗談交じりに「私共の仕事がなくなってしまいますわ」と苦笑するほどである。
「そういえば、泉玉の輿入れの日が決まったそうだ。先程家から知らせが来た」
「あら、いよいよね。……静牙、ちゃんと行ってよ?」
以前のやり取りを思い出して釘を刺すと、静牙は苦々しい顔になった。
「今の君を置いていくのは、本当に心配なんだが……」
「気持ちは嬉しいけど、たった一日のことでしょう。王太子殿下が護衛を増やしてくれたし、私はここで大人しくしてるから。大丈夫よ」
心配性の鳥番を安心させるように笑ってみせたが、静牙はまだ納得していない顔をしている。これは、当日まで何度も同じやり取りをすることになりそうだ。今からため息が出そうになる。
「あのね、私だって本当は見たいのよ? すぐ傍で見られるあなたが羨ましいわ。しっかり参列して、私の分まで目に焼き付けてきてよ」
「……参ったな。そう言われたら、行かないわけにはいかなくなるだろう」
「だって、王太子妃の婚儀よ? 一生に一度あるかないかじゃない。きっと、衣装も音楽も食事も素晴らしいんでしょうね」
結婚に憧れを持っていたのはもう昔のことだが、王家の婚儀なら話は別だ。物見高いと揶揄されようとも、一庶民として一度は見てみたいものである。
目を細めて想像を膨らませていると、静牙が意外なことを尋ねてきた。
「君は、その……結婚したいとは思わないのか。もちろん、御鳥児を終えてからにはなるが」
「えっ? うーん、そうねえ。したくないわけじゃないけど……今更貰ってくれる人がいるとも思えないし、父さんを一人にはしたくないし」
「そうか? 君なら相手くらいいくらでもいるだろう」
「……そんなに引く手数多だったら、とっくに誰かに嫁いでるわよ。この年で御鳥児に選ばれることもなくね」
皮肉混じりに返すと、「それは困るな」と静牙は苦笑した。晏珠は肩をすくめて、軽い調子で言う。
「酒楼働きの女に寄ってくる男なんて、あわよくば一夜の相手に、みたいな下心のある連中ばっかりよ。本気で妻に迎えようなんて思ってくれる人は、一人もいなかったわ。残念なことにね」
体目当てか、妾候補か。甘い言葉で言い寄ってくる男の目的など、せいぜいそんなところだ。いくら真剣だと言われても、安易に信じたら自分が痛い目を見る。中には強引に関係を迫る輩もいて、何度も危ない目に遭ってきた。
そういう意味でも歌は役に立った。彼らの好きな歌を歌っていい気分にさせてしまえば、大抵うまく逃げられたのだ。面倒な酔っ払いからも、しつこく口説いてくる男たちからも。
静牙は黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「……そうか。君はそれで……」
「え? 何?」
「いや、何でもない。君の周りの男たちに見る目がなかったことに腹を立てるべきか、感謝すべきか、悩むところだな」
「……静牙、まさかとは思うけど酔ってないわよね。どうしたのよ、いきなり変なこと言い出して」
もしや自分の風邪が移って、熱でも出しているのではないのか。そんな疑いを掛けたくなるほど様子がおかしい。本気で心配になってくる。
「悪い、少し気になっただけで他意はないんだ。……だが、一つだけ訂正させてくれ」
「訂正?」
意味が分からず目を瞬かせると、静牙はふ、と口元を緩めた。
「ろくでもない男は、確かに山程いるが……君を、本気で妻に迎えようと思う男なら、ちゃんといる」
「……え?」
どういう意味、と聞き返そうとした時。
――寝所の扉がとんとん、と二回叩かれた。
女官か、と思ったが、その割には何も声がかからない。彼女たちなら必ず、晏珠様、と呼び掛けてくるはずだ。
静牙が音もなく立ち上がり、晏珠を守るように前に立った。
「……静牙」
「晏珠、動くなよ」
低く鋭い声で、静牙は扉に向かって呼び掛ける。
「――誰だ。こんな時間に何の用だ?」
部屋に沈黙が落ちる。
静牙が再び口を開きかけた時、やっと小さな声が聞こえた。
「……夜分に、すまん。入れてもらえないか?」
思わず、晏珠は静牙と顔を見合わせた。この声は、まさか。
静牙が扉に近付く。ゆっくりと開けると、そこには予想通りの小柄な少年――登毘と。ほぼ同じ身長の、銀髪の少女が立っていた。
「か、果耀……?!」
「はい。あの……こんばんは」
ぺこりと頭を下げた少女は、神官長によって宮を出ることを禁じられているはずの、かの稀代の歌姫だった。




