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神の小鳥は遅れて集う  作者: 糸尾 文
5 割れた薄氷
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5-3

 湖に落ちていく馬車を目にして、静牙は一気に血の気が引くのを感じた。

 晏珠はまだ、あの中にいる。今の時期、水の中は文字通り凍り付くほど冷たいはずだ。落ちただけで命を落とすかもしれないのに。

 必死に手を伸ばして駆け寄るが、間に合わない。


「……晏珠!!」


 呼び声もむなしく、馬車は盛大な飛沫を上げて湖に落下した。






 ――馬車から飛び出した静牙は、他の護衛と共に襲撃者と対峙していた。


 手斧のような武器を振り回して奇声を上げる男は、予想通り、ひたすら力で押してくるだけの素人だ。自分たちのような訓練を受けた兵士の敵ではない。

 拙い攻撃を何なく剣でいなすと、男は舌打ちをして後ずさり、距離を取ってから森へと駆け戻っていく。追いかけようかとも思ったが、馬車からあまり離れるわけにはいかない。

 そうこうしているうちに、また別の男が出てきて同じような攻撃をする。先ほど聞いた通りだが、実際に目で見てもよく分からない動きだ。


 だが、いずれにしても、単なる野盗でない。金品狙いで衝動的に襲ってきたのなら、このような行動を取る理由はないだろう。これは計画されたものだ――油断できない。


 何人目かの男が突っ込んできたのを軽く躱し、静牙は男の背後に回った。そのまま羽交い絞めにして捕らえ、締め上げながら尋ねる。


「吐け。何が目的だ」

「……ぐ、うっ」

「誰の指示でここにいる。言え!」


 強い力で締め付けても、男はなかなか口を割らない。顔色が見る見るうちに悪くなり、口角から涎が垂れてきても、何も言おうとはしなかった。



 ――首筋がぞわりと泡立ったのは、その時だった。



 咄嗟に男を解放して身を伏せると、先程まで立っていた場所を一陣の風が通り抜けた。一瞬遅れて、弓矢だ、と気づく。


 ……そういえば。この連中は、今まで弓矢を使っていなかった。


 金品が目的で、森に隠れて奇襲をかけるなら。まず弓矢で混乱させてから襲い掛かった方が効率は良い。

 だが、今回の相手はそれをしなかった。わざわざ乱戦状態に持ち込んでから、こうして射かけてきたのだ。他に護衛はたくさんいるのに、馬車から出てきた自分だけを狙って。



 ――目的は金品ではない。そして、突発的な襲撃でもない。となると。



 捕らえていた男は這って森へ戻ろうとしていたが、再び捕らえようという気はもはや静牙にはなかった。

 彼らの本当の狙いは、おそらく――否、間違いなく。


 身を翻して、馬車に戻ろうとしたその時。再び、森から矢が放たれたのが分かった。

 音を立てて飛んだ二本目の矢は、馬車を引いていた馬の腹に命中した。


 馬が悲鳴を上げて、前足を大きく振り上げる。

 突然の攻撃に恐慌をきたして暴れる馬に、また矢が飛んできた。三本目、そして四本目。跳ね回る馬には結局当たらず外れたが、だからと言って混乱が治まるわけではない。馬はますます興奮して、馬車を引きずって暴走し始める。

 陰に避難していた御者が必死に馬を落ち着かせようとするが、ともすれば蹴り殺されかねない勢いに、近づくこともできない。



 ――そして、制御できなくなった馬は、馬車ごと湖に転落したのだ。

 もちろん、中に乗ったままの晏珠も道連れにして。



 急転した事態に、護衛たちの顔が蒼白になる。


「静牙様……! 晏珠様が!!」

「分かっている! お前たちは目の前の相手に集中しろ!!」


 襲撃犯たちはまだ残っている。護衛たちに檄を飛ばし、静牙は水辺に駆け寄った。馬ごと水中に落ちた馬車が、水面にうっすら見えている。幸い、水深はそこまで深くはないようだ。

 静牙は剣を置いて上着を脱ぎ棄てる。可能な限り薄着になると、風は身を切るような冷たさだった。水の中は尚更だろう。だが、躊躇っている時間はない。


 氷が浮いている水面に足を浸すと、大量の針で刺されたような冷たさに襲われた。自らも気を失わないよう、深く呼吸をして、静牙は一気に水中に没した。


 体が痺れて固まりそうになるのを叱咤しながら、必死に水を掻き分ける。

 濁った水の向こうに、ぼんやりと光るものが見えた。あれは、御鳥児の徴だ。自分が近付いたことで反応したのだろう。ならば、まだ救いはある。御鳥児の命が尽きてしまえば、徴も光を失うはずだ。

 光を目印にして手で辺りを探ると、力を失った腕に触れた。水中で、ゆらゆらと揺れている。



 ――晏珠。

 ――晏珠、晏珠……!



 心の中で名前を呼んで身体を引き寄せると、晏珠の顔が見えた。目は閉じている。意識がないようだ。


 冷たい体を抱き込むようにして、静牙は水中を上昇していく。

 やっと水面に顔を出し、そのまま岸辺に引き上げようとするが、晏珠の服は水を吸ってかなり重くなっていた。


「……晏珠! 晏珠、聞こえるか!」


 肩を軽く叩いて声を掛けるが、ぴったりと閉じた目も、白くなった唇も、開く気配はなかった。脈も呼吸も、ほとんど止まっているようだ。水を飲んでしまったのかもしれない。


 ――溺れて、呼吸が止まった人間の蘇生法は……


 一瞬よぎった迷いを振り切って、静牙は息を大きく吸い込んだ。

 意識のない晏珠の顎を持ち上げ、気道を確保する。もう片方の手で鼻をつまみ、唇を合わせて息を吹き込んだ。


 一度唇を離し、呼気が吐き出されるのを確認して、同じことを繰り返す。そのまま心の臓がある場所を上から何度か押して圧迫すると、胸が上下し始めた。呼吸が戻ったのだ。


 晏珠がかすかにうめき声を上げ、水を吐き出す。

 静牙はほっと息を吐いて、目の前の冷たい頬をそっと撫でた。

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