3-8
翌朝晏珠が目覚めると、女官たちはいつも通り朝の支度をしていた。
応接間を覗いてみると、昨晩の膳は綺麗に片付けられている。食卓に突っ伏して寝ていた静牙の姿はない。途中で目覚めて寝所に戻ったのだろう。
女官の一人が晏珠に気づき、「おはようございます」と挨拶をしてきた。
「おはよう。ごめんなさいね、昨晩は急にお願いして」
「とんでもございません。上等なお酒はすぐに味わっていただいた方がよろしいですからね」
微笑んで答えた女官は、「しかし」と少し声をひそめた。
「調家のご令嬢が直々においでになるとは、私共も思っておりませんでした」
「そうよね……私も驚いたわ」
「泉玉様がお帰りになられた後、従者の方と急ぎ足で出て行かれましたが……何事もございませんでしたか?」
なかった、とはとても言えない。だが、従者に寝所に連れ込まれそうになった挙句、鳥番に酒の口移しを強請られて何度も口付けられた――なんて、まさか女官に話すわけにもいかない。
なんとか笑顔を作って「ええ、大丈夫よ」と答えると、女官は「それなら良いのですが……」と安堵した様子を見せた。
「お引き止めして申し訳ございません。もうすぐお祈りの時間でございましょう? 朝餉の支度が出来ましたらお呼びします」
「分かったわ。ありがとう、よろしくね」
会釈して去っていく女官を見送り、晏珠は祭壇の間に向かった。
祭壇の間には、既に静牙の姿があった。一瞬鼓動が早くなった晏珠だが、あくまで自然に声をかける。
「おはよう、静牙。よく眠れた?」
「……晏珠! その、昨日は……すまなかった」
静牙はすぐに振り返って謝罪してきた。神妙な顔つきをしている。
「一応聞くけど。どこまで覚えてるの?」
「……盃を飲み干したところまでだ。そこから先の記憶はない。気づいたら、一人で寝ていた」
「……途中で、一度目覚めたのは?」
「は? そうなのか? ……すまん。覚えていない」
なるほど。あの時のことは、どうやら記憶から飛んでいるらしい。やはり、相当に酔っていたのだろう。それならそれでいい。忘れている方が気まずくならずに済む。
「あなたが潰れた後、泉玉が帰って、その後鳴鈴様も従者を連れてお帰りになったの。あなたはその時目を覚ましたんだけど、すぐにまた寝てしまったのよ。申し訳ないけど私一人じゃ動かせなかったから、上掛けだけ掛けて、そのままにしたの」
「そうだったのか。……いや、謝るのはこっちだ。これでは鳥番失格と言われても仕方がない」
「いいわよ、もう。でも、金輪際お酒は口にしないことをお勧めするわ」
「ああ……しかし、情けないことだな。たった一口であの様とは」
本気で落ち込んでいるらしい静牙に、晏珠は苦笑した。
「無理して飲むことないのに。弱いって言われるのがそんなに嫌だったの?」
「そうだな、頭では分かっているんだが……酒の席で全く口を付けられないのは、流石に不甲斐ない。今までは、申し訳程度に口を付けて誤魔化してきた」
「なら、昨日もそうしたら良かったのに」
「それはその通りなんだが、昨日のあれは、何と言うか……」
静牙は口ごもり、改めて晏珠を見た。
「……晏珠。あの従者の男に何もされなかったか」
探るような視線に晏珠は一瞬ひるんだが、すぐに首を振る。
「ええ、何もされてないわ」
「……本当だな?」
「もちろん。嘘なんてつかないわよ」
そう、文達には、結果的には何もされていない。だからこれは、嘘ではない。むしろ「何かしてきた」のは目の前の男の方だが、それを告げるつもりは晏珠にはない。
鳴鈴もまさか、従者が御鳥児を寝所に連れ込もうとしたなどと吹聴はしないはずだ。逆なら大問題になっただろうが……
――待って。
もしもあれが、「逆」だったら?
急に降ってきた閃きに、血の気がざっと引くのを感じた。
御鳥児が貴族の従者に色目を使い、寝所に連れ込んで関係を持ったら。「密通」に当たるのはほぼ間違いない。
そして、それが、神官長の耳に入ったら。
あの神官長のことだ、やはりふしだらな女だったと声高に糾弾して、今度こそ首を落とそうとするのではないか。
――酔った御鳥児を気遣って寝所まで運んで行った従者が戻らず、様子を見に行った。すると、彼らは寝所でみだらな行為をしていた。
――従者は、御鳥児の方から仕掛けてきた、逆らえなかったと証言した。
もし、鳴鈴がこのように証言したら。十中八九、断罪されるのは此方だ。
あの時、晏珠は眠気で意識が曖昧になっており、静牙は寝てしまっていた。違う、酔わされて寝所に連れ込まれたのだと反論しても、証明できる者は誰もいない。五名家のご令嬢と酒楼働きの女の証言、どちらが信用されるかなど、考えるまでもないだろう。
御鳥児と密通したとなると文達も罰せられるはずだが、調家の力で減刑されることは十分にあり得る。
鳴鈴は文達の行動を止めなかった。晏珠が抵抗しているのは一目瞭然だっただろうに、従者の暴走とも言える行動を黙認していた。
あれほど急激な眠気に襲われたのも、よく考えれば不自然だ。酒にはかなり強く、今まで深酒をしても寝てしまったことはないのに。
――まさか、眠り薬を盛られた……?
酒自体は、泉玉も鳴鈴も飲んでいた。だが、静牙が倒れた時、晏珠の盃にだけこっそり少量の眠り薬を仕込んだとしたら? 皆が慌てていたあの時なら、できなくはない。
静牙が酒に弱いことも、鳴鈴は最初から知っていたのではないか。彼を先に潰してしまえば、後は泉玉がいなくなるのを待てばいいのだ。
膳も盃も、既に女官たちが片付けてしまっている。今更確かめるすべはない。無闇に疑いを向けるべきでないのも分かっている。
だが、何の縁もゆかりもない調家の令嬢がわざわざ酒を持ってきたことも、従者らしからぬ文達の言動も、不自然な鳴鈴の態度も。そう考えればすべて辻褄が合うのだ。




