3-7
「は? 酒……?」
「そう! もう酔ってないんでしょう? それなら一口くらい飲めるわよね?」
つまり、もう一度酔い潰してしまえばいい、ということだ。
罪悪感はある。弱いと知っている相手に酒を勧めるなど、父に知られたら大目玉だ。だが、今はこれしか手がない。一歩間違えたら貞操の危機である。許してほしい。
何を言われたのか分かっていない様子の静牙に、晏珠は言い聞かせるように話を続けた。
「あのね、このお酒、とっても美味しいの。私も大好きなのよ。だからお願い、あなたと一緒に飲みたいの」
「俺と……? しかし、俺は鳥番だ。君を守らなければならないのに、酒など」
「ええ、そうね。たくさん飲むのは駄目よね。だから、ほんの少しでいいのよ。その盃に一杯だけ。そのくらいならいいでしょう?」
その律儀さをさっきも発揮してほしかったところだ。文達の煽りを真に受けたりせずに。
言いたくなるのをぐっと堪えて、晏珠は心にもないことを喋り続ける。笑顔が引きつっていないことを願いながら。
静牙はしばらく考えている様子だったが、やがて「分かった」と頷いた。
「本当に?! 嬉しいわ、じゃあ早速――」
「ただ、俺は、甘い酒は得意じゃない」
……得意とか苦手とか、そんな水準の話ではないだろうに。どうせ一口で倒れてしまうのだから。
泉玉の「弱いって言うのは嫌みたいで」という言葉が蘇る。どうやら、意地でも自分が酒に弱いとは認めたくないらしい。
「ええっと……じゃあ、他のお酒にする?」
「いや、それには及ばない。君は好きなんだろう。だったらそれでいい」
その代わり、と静牙は柔らかく笑った。
「飲ませてくれないか、晏珠。俺に」
「は……? 飲ませる、って……?」
盃を口元まで持ってこいということか。何なんだ、この男。子供返りでもして甘えているのか。
いよいよ顔を引きつらせた晏珠だったが、後に続いた言葉は予想を大きく超えたものだった。
「君が口移しで飲ませてくれるなら、飲んでもいい」
どうしてこうなった。何がどうして。
頭には疑問符ばかり浮かぶが、それが現実逃避であることは晏珠が一番よく分かっていた。自分の撒いた種、自業自得。それ以外の何物でもない。
「どうした、晏珠。まだ飲まないのか?」
目の前でにこにこと笑う静牙は、それはそれは嬉しそうだ。こんな満面の笑顔、今まで一度も見たことがない。
よりによって口移しで酒を飲ませろなどと言い放った男は、晏珠を膝に乗せてがっちりと腕で囲っている。些細な抵抗など何の効果もない。
――そもそも、私、やるって言ったっけ?
唖然として何も言えずにいる間に、気づいたらこの体勢に持ち込まれていた。さも当然のごとく。
「あの、静牙? やっぱり止め……」
「俺と一緒に飲みたいんだろう?」
駄目だ。拒否権が与えられていない。
盃を持った手が震える。逃げたい。しかし逃げられない。全く逃してくれそうにない。
「あ、あのね? 確かにあなたと飲みたいって言ったけど……こういうのは、良くないと思うのよ」
「良くない? 何がだ?」
「ほら、私は御鳥児でしょ?! 天主様にお仕えする身である以上、清らかな身体でないといけないわけじゃない。だから、口移しってのはちょっと、ね?」
こうなったら最後の手段だ。御鳥児を鳥番自らが汚すような真似はしてはならないはず。
だが、最強のはずの手札はあっさりとひっくり返された。
「ああ、それなら大丈夫だ。口付け程度なら、密通したことにはならない」
「何でそんなこと知ってるの?!」
「引き継ぎの時、王太子殿下から聞いたからな。あの人も何度か泉玉と」
「ちょ、やめてやめて!! それ他人に言っちゃ駄目なやつでしょ?!」
あの王太子、やはりまともな神経の持ち主ではない。ろくでもないことを引き継ぎと称してばらすのはやめてほしいものだ。婚儀前の秘密を兄にまで知られている泉玉が気の毒でならない。
「……泉玉、やっぱり相手を考え直した方がいいんじゃないかしら……」
「あの二人は昔からああだからな。まあ、俺も妹の生々しい話はあまり聞きたくないが」
「そう思うなら私を巻き込まないでよ……」
そもそも、口付け程度なら大丈夫、って何だ。じゃあどこまで大丈夫だと言うのか――いや、聞きたくない。どう考えても藪蛇である。
一気に疲れてぐったりした晏珠を、静牙が覗き込んできた。
「……嫌なのか、晏珠」
「いや、あのね、嫌とかそういう話じゃなくて……」
「嫌じゃないなら、いいだろう?」
頬を大きな手で撫でられ、晏珠は慌てる。
「ま、待って待って! こんなのおかしいでしょ?!」
「おかしい、とは?」
「だって、私たち、恋仲でも何でもないのよ?! それとも何? あなたも私を娼婦かなんかだと思ってるの?!」
御鳥児と鳥番。歌姫と護衛。自分たちの関係性を表すとしたらそれだけだ。夫婦でもなく、恋人同士でもない。酔っているからといって、こんなことは許されないだろうに。まさか、静牙も酒楼育ちの女だと軽く見ているのか。
「まさか。君が娼婦なんてとんでもない。俺は、本気で言ってる」
「ほ、本気って――!」
どういうこと、という言葉は、合わさった唇に吸い込まれて消えた。
触れただけですぐに離れた熱に、晏珠は呆然とする。今、静牙と。
熱は再び近づいて、今度は音を立てて口付けられた。思わず目を閉じると、また繰り返される。三度、四度。
五回目の熱が去った後、やっと晏珠は口を開くことができた。
「ま、まだ……飲んでない、のに」
「すまん。待ちきれなかった」
――飲ませてくれ、晏珠。
強請るように囁かれ、晏珠の手がそろそろと動く。
盃に満たされた酒を口に含んで目の前の男を見ると、期待に満ちた視線が返ってきた。
何なのよ、その顔。弱いくせに。どうせすぐに寝てしまうくせに。
空になった盃を置くと、晏珠は静牙の顔に手を添えた。目をぎゅっと閉じ、もうどうにでもなれ、という気分で唇をぶつける。
わずかに開いた隙間から酒を流し込むと、熱い舌が応えるように動き、反射的に腰が引けそうになった。しかし、がっしりと抱え込んだ腕が、逃げるのを許さない。
やっと唇が離れると、静牙は恍惚とした表情で晏珠を見つめていた。やめてよ、思わず言いたくなる。そんな関係じゃないでしょう、私たち。
「……晏珠」
「何……?」
「晏珠。俺の御鳥児――俺の」
そこまで言ったところで、静牙の目が閉じた。今度は床ではなく食卓に倒れ込み、寝息を立て始める。
晏珠は深く息を吐き、気持ち良さそうに眠る男に上掛けを掛けてやった。




