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突然がばっと身体を起こした静牙に、鳴鈴が「静牙様!」と声を掛ける。
「ご気分は如何ですか、お水をお飲みになっては……」
しかし、静牙は全く聞こえていないかのように晏珠を見つめている。その目はぼんやりとしており、まだ夢の中にいるようだった。
「せ、静牙……?」
呼びかけるとぴくりと身体が動き、静牙はゆっくりと立ち上がる。制止する鳴鈴を気にも留めず、ふらふらと晏珠に歩み寄ってきた。
そして、肩を抱く男の手に気づくと、晏珠に向けていた視線を隣の文達に移し、低い声で呟く。
「……何をしてる」
「は……あの、寝所へ」
お連れしようと、と続けようとした文達の言葉は、苛立たしげな声に遮られた。
「俺の御鳥児に気安く触れるな」
「も、申し訳ありません!」
凄まれた文達が慌てて手を離す。はずみで少しふらついた晏珠を、逞しい腕が支えた。
「もういい。帰れ」
「いえ、しかし」
「聞こえなかったか。帰れと言っている」
はっきりと怒りを滲ませた声に、文達が困惑した様子で鳴鈴を見る。
鳴鈴は従者の隣に立ち、静牙に話しかけた。
「何か誤解しておられますわ、静牙様。晏珠様が酔われて倒れそうになっておられたので、寝所に寝かせた方が安全だろうと判断しただけです」
「……倒れそうに?」
「ええ。わたくし共は、静牙様がお目覚めになるまで晏珠様の護衛をお務めしていたにすぎません。まだ酔いが抜けておられませんでしょう? ひとまずお座りになっては」
静牙の目元は薄っすらと赤く、焦点もはっきりと結ばれていない。鳴鈴の言う通り、まだ酒が抜けきっていないのは明らかだ。
だが、静牙はきっぱりと言い切った。
「調家からの贈り物には感謝する。だが、これ以上は無用だ」
「静牙様……! ですから、誤解だと!」
「誤解など無い。晏珠が嫌がっているのが分からないのか。お引き取り願おう」
鳴鈴が必死に言い募るが、静牙は耳を貸す気配が微塵もない。言われてやっと、晏珠は自分の身体が小刻みに震えているのに気付いた。
誤解なんかじゃない。鳴鈴からどう見えていたのかは分からないが、先程の文達のやたらと甘い囁きも、抱かれた肩も。明らかに色を含んだものだった。あのまま寝所に連れ込まれていたら、どうなっていたか分からない。
静牙の本気の怒りを感じ取ったのか、鳴鈴は唇を噛んで言った。
「……分かりました。本日は失礼致します。行くわよ、文達」
「はい、鳴鈴様」
鳴鈴が足音高く部屋を出ていく。従者が荷物を抱えて、それに続いた。
二人の気配が遠くなってやっと、晏珠は詰めていた息を吐いた。静牙が「大丈夫か」と声を掛けてくる。
「……ええ、ありがとう。助かったわ」
「いや。あの男、初めから嫌な感じがしていた。君のことを狙っていたんだろう」
「え? 初めから?」
意外な言葉に晏珠は驚く。人懐こさは感じていたが、まさかそういう対象に見られていたとは思わなかった。だから油断していたのだが。
「そうかしら。魔が差したとかじゃないの?」
「……あのな。そんなわけがあるか」
静牙が心底呆れたという顔を向けてきた。
「晏珠、君は分かってない。自分がどれだけ魅力的か」
「……。まだ酔ってるのね、静牙」
「酔ってない。いいから聞け」
酔っ払いは皆そう言うのよ、と言いかけた晏珠の両肩を、静牙ががっしりと掴んだ。真正面から向けられた視線は、まだ抜けきらない酒精のせいか、熱っぽく浮かされている。
「俺がどれだけ肝を冷やしたと思ってる? 男に寝所に連れ込まれそうになっていたんだぞ」
「分かってるわよ。ごめんなさい、油断してたわ」
「いや、分かってない」
謝っても、静牙の追求の手は緩まない。
「この際だから言っておくが、晏珠。君は、綺麗だ」
「は???」
「心根はもちろんだが、目も、唇も、髪も……全部、綺麗だ。その輝く御鳥児の徴も、白い肌によく映えて美しいと、いつも思っていた」
「ちょ、ちょっと! 待って、静牙!!」
何やら話があらぬ方向に向かいつつある。いつの間にか彼の手は晏珠の首元に伸び、光る徴をなぞろうとしていた。晏珠は慌てて払いのける。
「あ、あなたね、やっぱり酔いが覚めてないのよ! 一旦落ち着いて!!」
「ああ、その声も……いつ聞いても心地良いな」
「はあぁ?! 何、あの人と同じようなこと言って――」
途端、うっとりとしていた目が急に鋭くなった。
「あの男の話はするな。君のことなら俺の方が分かってる」
「ひっ……ご、ごめんなさい、じゃなくて! とりあえずここ!! 座って、静牙!!」
いつもの堅物っぷりはどこに行ったのか。酔っ払うと誰彼構わず口説き倒す悪癖でもあるのか、この男は。
やっとの思いで席につかせると、晏珠は慎重に距離を取って静牙に相対した。
「寝ましょう、静牙。あなたは寝なきゃ駄目だわ」
「寝る……君も一緒にか?」
「なわけないでしょうが!! 子供か!!」
真顔で惚けるのはやめてほしい。袖を掴もうとするのもやめてほしい。大丈夫だろうか。明日、静牙の記憶が残っていたら彼が羞恥で死んでしまいかねない。
すっかり眠気が覚めてしまった晏珠が要らぬ心配をしていると、静牙は不思議そうに首を傾ける。
「俺は別に眠くない」
「眠くなくても寝るの。夜は寝るものなのよ」
「君が一緒に寝てくれるなら寝る」
「我儘言わないでよ……」
埒が明かない。まるで大きな子供を相手にしている気分だ。
どうしたものか思案する晏珠に、大きな影がかかる。見れば静牙が再び立ち上がり、距離を詰めていた。咄嗟に後ろに下がると、眉が悲しげに下がる。
「晏珠。どうして逃げるんだ」
「逃げるわよ! あのね、静牙、あなたは酔って……」
「酔ってないと言っているだろう、さっきから」
また顔が近くなる。晏珠は冷や汗をかいて、さらに一歩下がった。静牙は構わず手を伸ばし、髪を一房手に取って口付けてくる。
「君は、俺の御鳥児なのに……他の男の方がいいのか」
「いつ! 誰が! そんなこと言ったのよ!!」
「違うのか? それなら逃げないで、こっちに来てくれ」
まずい。この状況は非常にまずい。一難去ってまた一難とはこのことだ。しかも、もう助けを求められる相手はいない。
壁際に追い込まれた晏珠は、何とかこの状況を打破できる手を必死に考える。そして、天啓のように閃いた。
「せ、静牙! じゃあ、一緒にお酒飲まない?!」




