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翠芳は東屋の一角に、顔を隠すようにして蹲っていた。近付く晏珠に気付くと、慌てたように立ち上がって頭を下げる。
「……すみません。お見苦しいところをお見せしました」
「それはいいんですけど……大丈夫? 何かあったの?」
声はしっかりしているが翠芳の表情は硬く、頬には涙の跡がある。先程の叫び声からすると、鳥番の柳星と諍いがあったのは明らかだ。
御鳥児としては先輩に当たる存在だが、実際はまだ18才の少女である。失礼に当たるかもしれないことは承知の上で、晏珠は敢えて砕けた口調で話しかけた。
「余計なお世話かもしれないけど、良かったら聞かせてもらえない? もちろん、一人にしてほしいなら退散するけれど」
「いえ、そんなご迷惑はかけられません」
「迷惑なら声を掛けてないわ。私に出来ることなんて限られるけど、話すだけでも楽になることってあるでしょう?」
促して東屋の椅子に座らせると、翠芳はしばらく黙っていた。が、晏珠が辛抱強く待っていると、やがて訥々と話し始めた。
「……もうすぐ、次の秋が来ます」
「そうね。この庭も段々と色付いてくるんでしょうね」
あまり植物に詳しい方ではないが、秋と言えばやはり紅葉する木々が真っ先に思い浮かぶ。
御鳥児の住まうこの庭は、やはり各々の季節が意識された造りになっている。清風宮の周囲には、秋の代表的な花々や樹木が植えられているのだろう。今はまだ青い葉が、鮮やかな赤や黄色に彩られた光景は、さぞかし秋の空に映えるに違いない。
晏珠の言葉に、しかし翠芳は俯いたままだった。
「導きの儀のために、歌の練習を重ねていたのですが……柳星と、口論になってしまって」
「え、あなたの歌に口を出してくるの? あの子が?」
意外だった。鳥番の柳星とはまだ一度しか話したことがないが、あまり細かいことを気にするような性格には見えないのに。
翠芳は少し間を置いて、「いえ」と首を振った。
「歌そのものに何か言ってくるわけではないんです。ただ……私が練習していると、横槍を入れてくると言いますか」
「からかってくるってこと?」
「そうなのかもしれません。よく……分からないんです」
曖昧に頷いた翠芳に、晏珠はさらに問いかけた。
「具体的には、なんて言われるの?」
「『また練習してんのか。そんなきっちりやる必要あるのかよ』って。呆れた顔で」
「きっちりって、歌のことよね。彼からすると、あなたが細かいところに拘り過ぎてるように見えるのかしら」
「でも、導きの儀は本当に大事な儀式なんです!」
翠芳は泣きそうな顔で言い募った。
「……私、流行病で両親を亡くして。孤児院育ちなんです。養母は蘭貞霞という方で、元御鳥児でした。天主様への信仰が非常に篤い方で、私が御鳥児に選ばれた時は本当に喜んでくださいました」
「そうだったの……」
「貞霞様は、私に御鳥児のことを色々教えてくれました。御鳥児が季節をうまく導けなかったら、国が荒れて人々が苦しむ。古い時代は、それで責任を問われて首を落とされた御鳥児もいる、って」
それは、晏珠も泉玉から聞いていた。風水害や干害、蝗害などの大きな天災が起こって国民に被害が出ると、かつてはその季節の御鳥児が責任を取って命を捧げていたという。
さすがにそこまで野蛮な風習はなくなったものの、今は御鳥児が現地に行って祈りの歌を奉納し、「神鎮めの儀」という儀式を執り行う形で残っている。荒ぶる神を鎮める役目はやはり御鳥児に課されているのだ。
「昨年も、儀式の前に何度も何度も練習しました。音程を一つ一つ確認して、抑揚の付け方ももちろん確認して。でも、不自然には聞こえないように。天主様に間違いなく祈りが届いて、喜んでくださるように」
「そう……すごく頑張ったのね」
「はい。でも……まだ、足りなかったんです」
――昨年の秋は、大きな嵐が三つも来ました。
俯いた翠芳の目から、とうとう涙がこぼれ落ちた。衣に染みが広がっていき、固く握った拳も涙で濡れていく。
「私は現地に赴いて、神鎮めの儀を行いました。洪水で流されてしまった村も、風で薙ぎ倒された木々も、落雷で焼け落ちた家も、この目で見たんです」
「翠芳、それはあなたのせいじゃないわ」
「分かってるんです。私はただの歌い手で、神様じゃない。でも……考えてしまう」
――自分が、もっと上手く歌えていたら。
――こんなことには、ならなかったかもしれない。
絞り出した声は震えていた。
晏珠はそっと翠芳の肩を抱き寄せた。重責に押しつぶされそうになっている少女が、痛ましい。
昔はともかく、今は国民とて分かっている。御鳥児は神に選ばれた歌姫で、その歌声は特別ではあるものの、万能ではない。導きの儀は予祝儀礼としての意味合いが強く、いくら力を尽くしても天災を完全に防げるわけではないのだ。そもそも、秋は嵐が起こりやすい季節である。
だが、それでも人々は御鳥児に期待する。そして御鳥児もまた、天災が起こった時には責任を感じてしまう。今の翠芳のように。
「柳星だって、同じ光景を見たはずなのに。それなのに、どうしてあんなことが言えるのか……私には分からない。本当に分からないの」
「翠芳……」
「適当でいいなんて、そんなわけがないわ。それで去年よりも酷い嵐が来たら? もっと大勢の人が亡くなったら? 私はそれが、怖くてたまらない。だから毎日、必死に練習してるのに……!」
顔を覆って泣く翠芳の背中を擦りながら、晏珠は思う。おそらく、柳星は心配しているのだ。この責任感が強い少女が、根を詰めて歌の練習をしていることを案じているのだろう。
ただ、言葉の選び方がまずかった。そんな言い方では、まるで柳星が儀式を軽視しているかのように聞こえてしまう。翠芳にとって、それは人の命を軽んじているのと同意義なのだ。
晏珠は少し思案し、「ねえ、翠芳」と問いかけた。
「今、ここで少し歌ってみない?」
「……導きの歌を、ですか?」
「いいえ、違うわ」
弱々しく答えた翠芳に、晏珠は微笑む。
「あなたが子供の頃、好きだった歌を」




