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泉玉が去った後、晏珠は陽光宮に静牙と二人で残された。寝所こそ別だが、専属の護衛である以上部屋は隣り合っているし、朝昼夕の歌を捧げる時や食事の時などは同席するので、毎日必ず顔は合わせている。
今まで泉玉と他愛ない会話を毎日楽しんでいた状況から一変してしまい、晏珠は少しばかり手持ち無沙汰な日々を送っていた。静牙は余計なおしゃべりはする方ではないし、女官たちは適度に付き合ってはくれるものの、彼女たちにも仕事がある。無理強いはできない。
御鳥児として覚える歌は大体泉玉から教わったので、練習のために部屋で声を出すことはあるが、それだけで空いた時間が潰せるわけではない。そもそも酒楼で客商売をしていた晏珠にとって、口も体も動かすこともなく一日を過ごすのは慣れていないのだ。
いっそ料理や繕い物を手伝いたいと女官たちに申し出てみたが、困った顔をされてしまった。そんなことを言う御鳥児は居ないのだろう。ならば他の御鳥児は普段何をしているのかと問うと、「皆様、宮で静かにお過ごしです」と返ってきた。
書物を読む。裁縫をする。文をしたためる。散歩をする。宮の周囲に植えられた花や樹木の簡単な世話をする。時々訪れる客人に鳥番と共に対応する。香りを楽しむ。日記を付ける。双六などの遊戯をする。そんなところらしい。
時折御鳥児同士で話をすることもあるが、神官はなぜかあまり良い顔をしないという。結託されると困ることでもあるのか。よく分からないが、しかし。
「……いやいやいや、無理! 耐えられないわよそんなの!!」
晏珠はたまらず泉玉に文を書いた。彼女も貴族の娘ではあるが、部屋で一人で大人しくしているような性格ではない。さらに泉玉の鳥番は王太子だったため、公務で宮を開けることも多く、静牙たち近衛がよく代わりに護衛を務めていたと聞いている。そんな中で六年間も、どのように過ごしていたのか。
藁にも縋る思いで出した手紙に、返事はすぐに届いた。そこには、「私はよく庭園を散歩して、好きな歌を歌ってたわね」と書かれていた。
ここで言う歌というのは、御鳥児として天主様に捧げる、歌詞のない祈りの歌のことではない。庶民の間で流行しているような歌のことだという。
「え……? いいの、庭で歌っても?」
晏珠にとっては意外な返事だった。
御鳥児になったら歌詞のある歌を歌ってはいけない、という決まりはない。それは事前に聞いて知っていた。お祈りの時以外は好きな歌を口ずさんで構わない、と。
だが、実際陽光宮で生活してみると、他の御鳥児が歌っている声を聞くことはほとんどなかった。宮同士は一応離れているものの、外で歌っていれば声くらいは聞こえる位置である。それなのに、聞こえるのは自然の音ばかりだ。
不思議に思って続きを読むと、理由もしっかりと書かれていた。
――他の皆は、喉を痛めたり声が枯れたりすることを恐れて、あまり声を出そうとしないの。
――それに、今の神官長の朱角様が、庶民の歌や流行歌は通俗的だ、っていい顔をしないから。
神官長。またあの人か。晏珠は舌打ちをしたくなった。そんなことまで自由を制限するなんて、とことん自分とは合わない。
泉玉の手紙は「でもね」と続いていた。
――私は、そんなことはないと思ってる。
――御鳥児は畏れ多くも天主様に選ばれた存在だもの。その歌声は、天主様に愛されているはず。
――小鳥が庭で囀っていたからって、天主様は怒ったりしないわ。むしろ楽しそうにしていたら喜ばれると思うの。そう思わない?
泉玉の言葉はもっともだった。
神に対して人間の言葉で話しかけるのは不敬、よって天主様への祈りの歌には歌詞がない。それはそれで理解はできる。だが、小鳥の囀りの意味が分からなくたって、聞いている人間は特段不快には思わない。今日もいい声で鳴いているな、と思うだけだ。
それなら、祈りの時以外に庶民の歌を口ずさんだところで、天主様の怒りを買うとは考えにくい。何より、前任の泉玉がそうしていたのなら。
幸い、神官たちは普段離れた場所にいるので、聞きとがめられることはないだろう。こちらに用があって来る時だけ気を付けていればいい。
王宮と御鳥児たちの離宮との間には広大な庭園があり、あちこちに東屋などもある。鳥番とは行動を共にしなければならないが、散歩して歌ってもいいと言うなら、良い気分転換になるだろう。
晏珠が静牙にそのことを話すと、静牙は二つ返事で了承してくれた。
「いいと思うぞ。妹もよく歌っていた。それに……」
「それに?」
「君はその方が君らしいと言うか、生き生きとしている気がする」
そう言われると何やら面映ゆく感じるが、ありがたく言葉に甘えることにした晏珠は、さっそく翌日から広い庭の散策を始めた。池の中の鮮やかな色の魚や、咲き誇る花々が目を楽しませてくれるし、ひんやりとした水に手を浸して木陰で好きな歌を口ずさむのは思っていたよりもずっと癒された。
静牙は黙って付いて来て、歌に耳を傾けていた。時折、「今のはなんという歌だ」と聞いて来ることもあり、晏珠はそのたびに歌を一つずつ教えた。流行の歌には疎かったが、妹が御鳥児だったせいか、彼もなかなか良い声をしていることを知れたのも収穫だった。
まだまだ夏の気配が濃いとは言え、秋に少しずつ近づきつつある庭は、これからどんどん色づいていくだろう。楽しみだ。
そして、もうすぐ、秋の導きの儀が行われる。
晏珠にとっては初めての大きな儀式だ。歌うのは秋の御鳥児――風鴒の称号を持つ翠芳だが、彼女は御鳥児として既に三年目に入っている。特に問題なく遂行するに違いない。
それにしても、自分の受け持つ季節が夏で良かった。夏の導きの儀はおよそ一年後だ。就任の時期によっては、直後に導きの儀を行わなければならない御鳥児もいる。そんなことになったら緊張も焦りも尋常ではないだろう。
庭を眺めながら改めて安堵の息を吐いた晏珠だが、突如隣の宮から聞こえてきた言い争いの声に思考が中断された。
「おい、待て! どこ行くんだよ、翠芳!」
「付いてこないで!!」
涙まじりの声。風鴒の宮――清風宮からだ。
何事かと首を向けた晏珠の目に、宮から飛び出していく少女の姿が映る。あれは翠芳だ。一体何があったのだろう?
晏珠は庭に飛び出した。後ろから静牙が付いてくる気配がしたが、構わずに少女を追いかけて走った。




