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夕刻の祈祷を終え、晏珠はゆっくりと立ち上がる。夏の残光はまだまだ明るく、日が落ちるまでは時間があった。
扉の方を振り向くと、泉玉と静牙が揃って佇んでいる。泉玉の表情は明るく、表情に乏しい静牙もどこか満足気に見えた。
「上々ね、晏珠。もう私が付いていなくても問題ないわよ、きっと」
「そうだな。祈りの作法もすっかり板についてきている」
「えっ、やめてよ! そんなに早く手を離されても困るんだけど!」
女二人の笑い合う声が、部屋の中に響いた。
新しい夏の御鳥児――光鴒として務め始めて三日が過ぎた。
あの後、王太子と静牙を置いて、晏珠は泉玉と共に祭壇の間に移動した。祭壇の間は陽光宮の中央にあり、天聴宮の方に向かって設えられた大きな祭壇がある。
祀られているのは勿論、銀鴒天主だ。朝と昼と夕、決まった時刻に祈りの歌を捧げる。任命されたばかりの新米御鳥児にとって、それが最初のお勤めであり、何よりも先に覚えるべきことだと泉玉は語った。
御鳥児の歌には、驚くべきことに楽譜の類が全くなかった。御鳥児から御鳥児へ、口伝で旋律を伝えてきたものらしい。御鳥児は四人いるのが通常であるため、幸いにも途切れることはなく伝えられてきたのだという。
果たして覚えられるかと晏珠は危惧したが、旋律自体は決して難しいものではなかった。また、原則として歌詞もない。言葉は人間同士の対話に使うもので、神に話しかけるのはむしろ不敬、という理由らしい。御鳥児の祈りはあくまで音に込めて届けるものだという。
朝と昼と夕で最後の部分が少しずつ異なってはいるものの、大部分の旋律は共通しているのも幸いだった。何度か練習すると口に馴染み、さほど苦労することもなく歌えるようになり、晏珠はほっとしたものである。
最初のうちは前任者から様々な作法などを教えてもらう必要があるため、泉玉も同じ陽光宮に寝泊まりしてくれていた。泉玉は五名家のお嬢様とは思えないほど気さくで親しみやすく、前任とは言え自分の方が年下なのだから遠慮なく「泉玉」と呼んでくれていい、などと言う。
最初はためらっていた晏珠だが、屈託なく接する泉玉の態度に、すぐに打ち解けた。なるほど、王太子が正妃にと強く望むのも分かる。あの王太子は性格にはかなり難があると見えるが、女性を見る目は確からしい。
初日に着ていた長い装束で毎日過ごすのかと思ったが、あれは正装で特別な時だけ着るものだ、と泉玉が教えてくれた。さすがに酒楼で働いていた頃と同じとはいかず、首元の徴が必ず見えるようになっているが、袖や裾を引きずるようなことはなく比較的動きやすいのは有難かった。
使う色は各御鳥児によって大凡決まっているようで、光鴒である晏珠は黄色が基調らしい。春は桃色、秋は紫色、冬は青色が基調だという。
世話をしてくれる女官たちは、意外にも年齢のことをさして気にせず、晏珠に敬意を持って接してくれていた。王太子から何かしら言われているのかもしれないが、前任者の泉玉の人柄によるところが大きいのだろう。正直なところ、かなり助かる。就任までのいざこざはあったが、環境にはとても恵まれたと言っていいだろう。
むしろ彼女たちは神官長の朱角のことをあまり好ましく思っていない様子があり、神官と御鳥児に仕える女官という立場の複雑な力関係も伺える。
ご安心くださいませ、何かあれば私共は全面的に光鴒の味方ですから! と拳を握って力説された時は、さすがに乾いた笑いを浮かべるしかなかった。




