第七話
俺は<西城路>を北へと引き返し、再び<東頭村通り>に出た。
時刻は正午を回り、太陽は頭上高く昇って九龍城北側の壁面に照りつけ、乱設された繁体字の看板は日光を反射して煌めいている。
<謝漢強牙科>。<耳鼻喉皮膚性病>。<所診青志>。いずれも医者や歯医者の看板で、それと同類の無数の看板が、まるで赤子の切り貼りアートのように横からぐちゃぐちゃに生えまくっている。城の中ではあれ程存在感のあったネオンも、日光の前では態をひそめ、ただ派手な衣服を身に纏って行き交う通行人の喧騒だけが、今は香港の繁栄を忘れさせずにいる。
医者、歯医者。かつてこの九龍城は、中国本土から香港に移り住んだ人間の、恰好の仕事場だった。というのも、医者や歯医者といった資格で食っている人間は、本土の資格が香港では法的に通用しなかったために、無法地帯に居を構える以外に方法が無かったからだ。
今、そうした施設の跡地はほとんどが違法義体、違法生体部品の闇取引場になっており、あるいはその場で手術をしてしまうこともあるのだという。時代が下るにつれて九龍城内の営みも刻々と変化しているのだ。例えば台湾のメイン産業である生体チップ。主要貿易国であるこの香港に大量に輸出された後、エラー部品とエラー部品に偽造された正常部品とが、九龍城に横流しされているとの噂だ。そうした部品を正規より若干安い価格で移植してやる医者がいれば、元が高価な生体部品だから十分商売になる。他にも、九龍城のグレーゾーンから大幅に足を踏み外した商売はいくらでもある。
俺は看板の一つを見た。<謝漢強牙科>だ。ひょっとしたら楊・冬も、窃盗団で儲けて、ここで義手の手術を受けたのかも知れない。そしてその後に何らかのトラブルを起こしてグループを追われ、この九龍城に逃げ込んだ……ありうるシナリオだ。
大きな核エンジンの唸りが聞こえて、俺の頭上が暗くなった。見上げると、九龍城の屋上スレスレから最新型の航宙機の頭が現れて日光を遮っており、次いで流線形の巨大な翼が東頭通りに影を落とした。界限街の南側、九龍港に面したところにある<啓徳郵鈴碼頭>から出た機体だろう。この後は翼をたたんで航宙モードに入るはずだが、ひょっとしたら更に北上して中国本土でも客を乗せるのかも知れない。
機体の影が過ぎ去って、機影は北の空に小さく消え、日光が再び東頭村通りを満たす。瞬間だけ一時停止されたかに見えた喧騒も、何事もなく続いている。
正直言って俺はあのスミスが少し気に入った。少なくとも王署長よりは話の分かる人間……のような気がする。奴の弾丸は俺の右頬も左頬も“掠めた”。俺が組み伏せたとき、背後から生きたガトリング・ガンで不意打ち(撃ち)することも出来た。そうしなかったのは、俺が陳さんの知り合いだったからだろうか?
「フゴッ」
俺の後ろで豚が鳴いた。忘れていた。俺は非常食を連れていたのだ。
「感情が無いのに人を急かすことは出来るのか。お前は悪徳上司か?」
マーガレットという不似合いな名前が無ければ非常時でなくとも食ってやりたいところなのだが、何しろこの東頭村通りを東に少し行けば、自治組織への入り口があるのだというから急ごう。