第五話
『美国』と、赤いペンキで壁に店名を書いたその店は、暗かった。
通りと店内とを区切るガラス戸はろくでなしの使うゴムくらい薄そうに見えたが、店内に入って戸が閉まった途端、嘘のように喧騒が消えた。
俺は周囲の棚に展示された銃器類の鈍い光沢を眺め、それから一呼吸おいて言った。「失礼する。陳・楽の紹介でここに来た。<大福大楽>の陳だ。人を探してる。いたら返事をしてくれ」
大きくも小さくも無い空間に俺の声が反響する。誰もいない。何も聞こえない。銃器たちが意思に目覚め、俺に話しかけてくる様子もない。
留守か――。そう思った俺は、この店のスレッドを開いて一番上に書き置きを残そうとした。しかし、いつの間にか混合現実がオフになっている。開くことも出来ない。右脳内部に構築された仮想のMR起動スイッチを操作しても、全く開かない。
俺はしばらくの間訝しんだ。そしてからくりに気付いた。ここは網膜神経励起システムが要求する専用電波を遮断している。そして同じ電波を要求する聴神経励起システムも同様だ。香港政府が使用を禁止している<混合・防火墻>にこんなところでお目にかかるとは思わなかった。
先程まで俺に聞こえていた喧騒は、全て量子ネットワークを通して混合現実がもたらした言わば疑似的な神経信号だ。だからそれがオフになってしまえば、視覚も聴覚もMR的刺激を受けることは無い。慣れ親しんだポップアップも、自動でおすすめされるニュース・ウィンドウも出てこない。せっかくの<福利会純正ID>も役に立たない。あるのはただ自然な風景だけだ。アメリカの名を冠した武器屋の、自然な風景。
「なんだってまた……店の名前からして普通じゃないってのは薄々――ッ!?!?」
瞬間的に俺は腰の拳銃を抜き、左後方の部屋の隅に向かって銃口を向けた。
「この銃はMR法施行前のシロモノだ! ファイアウォールは通じないぜ」
嘘だ。長年の刑事生活が俺に咄嗟に嘘をつかせた。混合・防火墻の張られたこの店内では、ID統制された銃は発砲できない。銃口を向けてもはったりにしかならない。だから頼むから、ガタンという物音の正体は猫だの鼠だのであってくれ。
果たして、部屋の隅に積まれた段ボールの山の影から、一匹の豚が出てきた。
「フゴッ。フゴッ」
豚は俺の方をじっと見つめ、小さな足音を立てながら俺の方に寄ってくる。
「フゴゴゴッ。フッゴ、フゴゴッ」
「へっ?」俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「やれやれ、なんの騒ぎだ」今度は店の奥から人間の声。
俺は豚よりも人間に銃を向けた方が良いと即座に判断し、人間の胸元まで隠れる高さのあるカウンターの奥に向かって銃を向け直した。
「ID施行前の――」
「陳の知り合いとやら。ここではその銃は使えんぜ。こういうのを用意しないと」
カウンターの奥から出てきたシルエット。それは大男だった。白いタンクトップシャツから生えた筋肉過剰症気味の両腕。砂漠の鷲の名を冠した無骨なオートマチックを両手で撫でている。
「ほら。どうだ?」男は俺に銃口を向ける。
奴が持ってるデザート・イーグル。あれは恐らく本当に施行前の品だろう。この店の主が奴だとすればあらゆる銃が調達できるはずだし、なにより、混合防火墻なんてモノを用意できる人間だ。何を持ってたって不思議じゃない。
しかし正直、銃口よりも気になることが無い訳じゃなかった。鈍い白が混じってくすんだ金髪や、曇りの日の海のような色をした瞳。これは白人特有の見た目だ。背中から堕天使の様に生えてこちらを睨んでいる、二丁の巨大なガトリング・ガンは、変人特有の見た目で間違いない。
「俺はジェームズ。ジェームズ・スミス」
自己紹介ありがとう。しかしジェームズ・スミスというありきたり過ぎる名前で生まれた人間が、この九龍城では、アンタみたいな野郎に育っちまうのかい? ジェームズ。
弾の出ない拳銃のトリガーに掛けた義手の人差し指が、俺の脳の下した恐怖信号に震えている。