第三話
楊冬。
この写真の少女とは似ても似つかない女の子の記憶が、俺の右脳でイメージとして再構築される。
小さな、幼女と言ってもいいくらい小さな少女だ。やつれた顔。光の消えた瞳。ボサボサの黒髪に、うわごとのように唇から漏れる呪詛のような言葉。
両親の家庭内暴力で欠損した右腕。組織の男たちによって“有用な部分”を使い潰され、まともに歩くことすら出来なくなったちぐはぐな足取り。
「どうして。どうしてあの子が窃盗団なんかに」
「それ以外に生きていく術が無かったから」署長がきっぱりと返す。
俺は反駁する。「その術を与えるのが俺たち公務員の役割じゃないんですか?」
「さあ、ね。でもそれはアナタが決めることではない。国が決める事よ」
「国はあのような少女を見殺しにする法律でも作ったんですか?」
「そういう法律は無かったと思うけど、でもわからない。私にわかることじゃない。でも大事なのは現にそうなっているってことでしょ。それが何よりの証拠よ。この国がそういう国だという何よりの証拠」
俺は怒りに震える手でもう一度楊冬の写真を見た。
彼女は五体を取り戻し、軽快な足取りを想像させる立ち姿をしている。再生医療が要求する金額を考えれば、恐らく彼女が手にしたのは生身の身体ではなく、俺と同じ義手だ。九龍のびっくり箱のような夜景を見つめる眼差しは、薬物で思考力を奪われていたあの頃とは違って鋭く、鷹の目のように意志の力に溢れている。脳に関する何らかの手術を受けた可能性がある――。
俺は署長の顔を見て言った。「彼女は窃盗で儲けた金で、義手やら何やらを揃えたんですか」
「ええ。それ以外には考えれられない」
「国が彼女に福祉を提供する、という手ももちろんあった筈だ」
署長は溜息をつく。「……ねえ、私にこんなことを言わせないで。“国が民を救う”なんて絵本はとっくに絶版になってるの。ここは二二世紀の香港。国も公務員も力を失い、世の中を牛耳るのはごく一部の大企業。民草は暴力と薬物の海を欲望という筏に乗って漂い、ある者は沈没し、ある者は無人島に漂着して飢え死にし……」
「またある者は、利権と利権の隙間で漁夫の利を得、弱い者を騙し、踏み潰し、他人を食い物にしてぶくぶく太り……。あ、ところで署長、こんな噂があります。署長が太っているのは病気ではなくて、賄賂として瓜豆頭から受け取っていた薬物の副作用のせいだって」
部屋中に大きな音が響いた。署長が机を思い切り叩いた音だ。
「……絶対にそんなことは無いと断言しておくけど、誰から聞いたのかしら」
それは、図星を突かれた犯人の典型的な反応だった。
「あの事件の後警察をやめた張が俺の病室に見舞いに来て教えてくれたんです。もちろん、僕は信じてませんよ。王署長が薬物なんてヤる訳が無いし、紅が瓜豆頭のスパイだと知っていたなんて、そんなことあるはず無いし、何より九龍警察の中で紅を援助し匿っていたのが他ならぬ署長だったなんて、そんなこと天地がひっくり返ってもある訳無い」
署長は、さっさと張を始末しておくんだった、という顔をした。
「署長、俺は九龍区警察を辞職します。この楊冬を探せとお命じになるつもりだったんでしょうが、それも辞退します。一度救ってやったのに窃盗団なんかに入る女のことは知りません。それに俺はもう汚職まみれの警察なんて懲り懲りだし、九龍にも香港にも興味がないんですよ。新しい右腕と右半面は、ありがとうございます。有難く使わせてもらいます。日本あたりで、新しい生活を始めようと思いますので」
俺は部屋を後にしようとした。
署長は、か細い声で最後に俺に一声かけた。
「私のことは、誰にも言わないでね。言ったらあなた自身が酷いことになるとだけ言っておくわ」
「ご心配なく。友達だった紅も張も、もうここには居ませんから」
それからしばらくの間、俺が署長と会う事はなかった。
× × ×
〈大福大楽〉に入るのも三年振りだった。現役時代からこの肉料理屋の店主には何度も世話になっていて、久しぶりに挨拶をする必要もあった。楊冬を捜索するためにだ。
「で、警察を辞めてきたってのは大いに上等としてだ。そのお嬢ちゃんが入った悪党どもの組織ってのは、見当が付いてるのかい?」
ステレオタイプな頑固料理店風の白い割烹着で、陳店主は俺に尋ねた。両手に持った大皿には豚一頭分にはなろうかという程の肉料理がてんこ盛りになっている。豚一頭皿に乗せた方が早い。
「いいや全くだ。界限街(九龍半島をこの通りの南北で二分する考え方は根強い)より北だとは思うんだが」
「北の瓜豆が滅んで以来、行き場を失った下っ端たちが徒党を組んでやがるからな。統制された悪より、そういう見境ない奴らの方が雑菌みたいに繁殖するんだよ。全く嫌ンなるぜ」
「雑菌は飲食店の天敵だものな」
「ハッハッハ!!……お前さん大丈夫なのかい? 相手の情報が全く無いままで、警察と勝負できるのかい?」
「王署長と愉快な仲間たちに縛られずに楊冬を探すにはそれしかないだろう。それに、ちょっとした刑事の勘が働いてな」
「刑事の勘?」
「楊冬は、“あそこ”に逃げ込んでるんじゃないかと思ってるんだ」