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九龍  作者: 藤二井秋明
第一章 因縁
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第一話

西城サイシン路〉は、九龍カオルーン城砦第一階層内部の西側に、さながら眠れる大蛇の如く、ひっそりと横たわっている。〈龍城ロンセン路〉や〈老人ローヤン街〉と違ってこの通路には外光が差さず、じっとりとした暗闇の中で視界に入る物といえば壁の落書きとネオン看板。それ以外には、MR(混合現実)レンズを通してのみ視認できる、ジャンク映像の小さなウィンドウしか見えるものは無い。謎の“とろみ”を持つ汚れた水溜まり。日光を遮るわだかまった怨念の様な配管・配線。上層階の住人が鳥籠のようなベランダに放置したゴミからは汚物が滴り落ちる。オレンジ色のビニールシートが至るところに張られてアーケード街のようになっているのは、その汚物から通行人を守るためだそうだ。まったく、発想が後手に回っているとしか言いようがない。上の配管やゴミを片づけないといつまでも汚物が落ちてくるのは自明だろう。しかし、後から後から増築増築また増築の歴史を繰り返してきたこの九龍城砦の住人に、先手を打てとアドバイスすることほど、無粋で間抜けな話もない。住民たちの逞しさとアナーキズムとに裏打ちされた半ばヤケクソの悪ノリの産物、それがこの九龍城砦なのだから。



× × ×



 三日前。

 俺が九龍区警察の署長に呼び出しを喰らうのは三年ぶりのことだった。瓜豆グアドウトウ(香港マフィア)との戦闘で頭部の右半分と右腕を失って以来、生活費・治療費保障の上で職務を免除されていたからだ。

「お久しぶり。新しい右半面と右腕にはもう慣れた?」

 でっぷりと太った女署長。名はワンシンティエン。木製の艶のあるデスクにかけ、彼女は指輪の喰い込んだ細く不味いハムのような人差し指で、俺の右腕を指し示した。俺は立ったまま「署長こそ、お変わりなく」と言い、制服がパツパツに張った署長の身体を義手の人差し指で指し示す。三年前と全く体型が変わっていないというのは、この変化の激しい現代香港においては大変に難しいことだ。呆れと畏怖の半々に混じった眼差しで眉毛をクイと上げ、おどけた表情を作る以外に、俺がやるべきことは無かった。

 これをフランクなやりとりだと思うだろうか。実は現役の時も、こんな態度は取ったことが無かった。俺が署長に向かってこれだけ高慢な態度を取れるのは、要は雇われ人が上司に対して出来る唯一の覚悟――『俺は次の船に乗り替えるぞ』と宣言する準備――を、この三年の間にしていたからだった。

 俺の態度に王署長は一瞬、ネコが飛び退くような勢いで驚いたが、それもすぐに落ち着き「実はね、お願いがあるのよ」と切り出した。

 知っている。呼び出しがあった時点で、種々の手続きが無くとも察することはできる。“治療費も生活費も、新しい身体も与えた。三年間の自由期間も。これ以上は猶予しないわ”。要はそういうことなのだ。そろそろ働け。働かざる者喰うべからず。いつまでものほほんと生きていられると思うな。警察官としての職務を果たせ。この九龍区は怠惰を許さない――。

 署長は言う。「この間(ワン)の富豪から宝石類が盗まれたヤツで……」

 俺は遮った。「署長、実は署長のお願いをお聞きする前に、私のお願いを聞いて頂かねばならないのです」

「……何?」

「実は、退職させて頂こうと思いまして。理由は色々あります。しかしその色々な理由全てを署長にお話しする義務は私にはありません。ともかくこの三年の間に考え決めたことです。署内の私物は今日中にも片づけておきますので、手続きの方は可能な限り署の方でお願いします。必要な書き物等ありましたらいつでもお呼び出し下さって結構ですが、今後必要以外に私が署に出向くことはありませんので。では、そういうことで失礼いたし――」

 一枚の紙写真が空を舞った。その紙写真はヒラヒラとして薬中患者の足取りを思い起こさせ、音を立てずに俺の足元に落ちた。

「見なさい」署長の声は氷柱つららのように俺を刺した。

 一人の少女の写真だ。どこかで見たことがあるような、ただの一人の少女の写真。

 

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