9:辺境伯後継の困惑
魔物討伐軍調査部隊の拠点の一室。
ベスティエ辺境伯家嫡男、ロクト・ベスティエは目の前で足を組む青年の無茶苦茶な要求にどう返すべきか思考回路を勢い良く回しながら考えていた。
「そういうことだから、君がカイマスで彼女を迎えてあげてくれ」
目の前の艶のある黒髪を一つに纏めて肩に流し眼鏡をかけている青年、もとい、己の母であるセントラ・ベスティエ辺境伯夫人が宣ったあまりにも簡単な状況説明はこうだ。
昨日の夕刻、ロクトに輿入れする予定の令嬢がベスティエ城に到着した。本日父のカイマス視察に同行している。だから迎えに行ってこいと。
意味が分からない。自分に縁談があるなど初耳だ。
これまで一度も婚姻について何か言われたことなどもない。周りからも貴族の後継だというのに自由な境遇を羨まれていたほどだ。
いずれは婚姻を結ばなければならないとは思っていたが、こんなに突然身を固めるつもりなど到底なかった。
辺境伯後継としては遅いくらいであるということは理解している。
魔物との戦いの中、常に死と隣合せなのだから一刻も早く次の跡取りを、という話は幼い頃から教師に散々言われてきた。
しかし当主である父は自らが母に惚れ抜いて口説き落として嫁いでもらったのだと、恥ずかし気もなく子供達に語り、お前たちの婚姻もそうであるといいといつも言っていたのだ。
だからロクトは自分の嫁は自分で惚れた女性を選ぶつもりだったし、親に決められた婚姻など今更受け入れられるはずもなかった。
「君のお嫁さんなのだから、君が迎えに行くべきだろう?」
「一体どうしてそんな話が突然降ってわいたんですかね。納得できません」
「私だって先ほど聞いたばかりだよ。まったく、君の父には困ったものだね。私に何の相談もなく彼女を招いていたのだから」
「俺の婚姻相手は好きに決めさせてくれると父上はいつも言ってましたが」
「君の父はそのつもりだけれどね。私は決めていたのだよ。君は彼女を娶るんだ」
母は往々にして理不尽なところがある人だが、ここまでではなかったはずだ。何が彼女をこうさせたのだろうか。
「不満そうだね?」
「満足するとでもお思いで?」
「ああ、思っているよ」
「何故です?会ったこともない令嬢なのでしょう?」
ちなみに相手が誰なのかさえ聞かされていない。
「アイリスの娘だよ?君が満足しないはずがない。だって君は見た目も中身も私にそっくりだからね」
「……どなたです?」
「アイリス・グランツ公爵夫人。私の初恋の女性さ。彼女を嫁に迎えることは国法が許さなくてね。仕方なく親友という立ち位置に収まって、グランツ公爵に嫁ぐ彼女を泣く泣く見送ったものだよ。
でもこうして合法的に彼女の娘が私の娘になってくれる機会が来たのさ!この時をどれほど待ち望んでいたことか!」
恍惚とした表情をした母に一体何を聞かされているのか。
呆れを隠さず見下ろせば、母は椅子の上で身を乗り出し、自身と瓜二つの顔を近付けると、二枚の眼鏡のレンズ越しにターコイズブルーの瞳を細めてうっそりと笑む。
「アイリスの子が娘だったら私が真名を与える約束をしていたんだよ。彼女の懐妊を知った時は本当に嬉しかったねぇ」
美しい想い出に浸るように幸せそうに語り始めた母の顔が、見る間に曇ってゆき影が差す。
「……だけれど、出産の知らせが届いたと同時に訃報も届いてしまったんだよ。アイリスは身体が弱かったからね。出産には耐えられなかったんだ。
当時君は六歳だったから覚えているかもしれないけれど、私もソーディの出産で体力が落ちていたこともあって精神的に堪えてしまってね。君の父に慰められて立ち直った頃には、もうすでに命名は済んでしまっていたというわけさ」
言われてみれば三男である弟、ソーディが産まれた頃、普段は健康そのもので殺しても死なないタイプの人間である母が体調を崩して伏せってしまったことがあった。
あの時は家族も家人も皆心配したものだったが、そんな理由があったとは知らなかった。
「けれど果たせなかった約束がもうすぐ果たせるのだよ!いやあ楽しみだねぇ!いくつか候補はあるけれど、直接会って、アイリスの娘に相応しい真名を与えなくてはね!」
「……あなたの娘にしたいのなら、養女にとればいいじゃないですか」
「何を言っているんだい?君の頭はそこまで悪くなかったはずだけれど。
彼女は由緒正しきグランツ公爵家の一人娘だよ?輿入れ以外に他家に入ることはないだろう」
言われなくともわかっているが。わかっていても嫌なのだ。
会ったこともないどこぞの令嬢と愛のない婚姻を結びたくはない。
「君は間違いなく気に入ると思うけれどね。どうしても嫌というなら仕方ない。ちょうどソーディは彼女と同い年だし、彼を辺境伯家の後継にしようか」
「母上こそ何を言ってるんですか?ソーディは領主教育も受けていないのですよ。今更後継に据えるなど無理だということくらいわかっているはずです」
「しかし君はグランツ公爵令嬢と婚姻を結ぶのは嫌なのだろう?
我がベスティエ辺境伯家はただでさえ格下なのだから、彼女を娶れる資格があるのはうちでは後継のみ。それくらいは君だって理解しているよね?
そうなると次男であるディッカはすでに他家に婿入りしている身だし、次はソーディに白羽の矢が立つのは当然の帰結だとは思わないかい?彼も君と同じく識別眼の特質魔法を修得しているのだから無理というほどでもないだろう」
辺境伯家の後継に大した未練があるわけではない。
正直ロクトにはどこでだって生きてゆける能力があるし、どんな職種でも出世できる要領の良さもある。騎士としての剣の腕も充分な上、研究者としての頭脳もある。
それでも、魔物の動きが活発になりつつある現状のベスティエ領を離れるわけにはいかない責任感もあれば、嫡男として弟たちに重荷を背負わせないという兄としての矜恃もあるのだ。
後継を外れることなく婚姻も回避するにはどうしたらいいか。それならば答えは一つ。
「……わかりました。迎えに行きましょう」
「賢明だね」
「ですが母上」
「なんだい息子よ」
思い通りに事が進んで満足気な母に瓜二つの顔に極上の笑顔をのせて。
「彼女の方が俺を気に入らなければ、仕方ありませんよね?」
人の気持ちは他人にどうこうできないのだから。
息子である自分も、まだ見ぬ令嬢も。母の思い通りになるとは限らないのだ。
「ああ、それはもちろんそうだねぇ。せいぜい頑張りたまえよ」
母の言葉に素直に従うつもりはなかったが、母が惹かれた女性の娘には興味がある。
伯爵令嬢として産まれ、類稀なる頭脳にジニー伯爵家の血筋が持つ識別眼の特質魔法を修得し、貴族令嬢としては大変珍しい研究者として生きてきた変わり者である母に親しい貴族令嬢がいたとは驚きだ。
それもあの故グランツ公爵夫人とは。
父である王国の英雄、アドム・ベスティエ辺境伯と双璧をなす王国の盾、シルト・グランツ公爵。
彼は大変な愛妻家で、夫人の死後十年以上後妻を頑なにとらなかったと聞く。
その最愛の妻が遺した掌中の珠を手放し、ベスティエ領のような魔物侵攻の最前線の辺境に嫁がせるとは、その娘には一体どんな欠陥があるのやら。
母も気付いているはずなのだが。親友の子というだけで手放しで可愛がれるわけではなかろうに。
しかし我儘お嬢様であればあるほど、この地は肌に合わないだろう。すぐに逃げ帰りたくなるはずだ。
果たして何日もつのだろうか。或いはもうすでに弱音を吐いている頃かもしれない。
部屋を出て、カチャリ、と押し上げた眼鏡の奥で父譲りの赤い瞳を一度伏せ、部屋の外で待機していた側近に声をかける。
「聞いてたか?」
「ああ。ついにお前も身を固める時が来たようだな」
ベスティエ家筆頭執事チェーニ・ソンブラ子爵の息子であり、乳兄弟でもあるツェル・ソンブラ子爵令息は側近であり、唯一の気の置けない親友でもある。
婚約者どころか恋人すらいたことのない主とは違い、彼には十代の頃から待たせ続けている婚約者がいる。
婚姻は主であるロクトと同タイミングで行う予定であるため、ツェルとしてはロクトに早く身を固めて欲しいと常々思っていたのだ。
「俺がただ母に従うとでも思ってるのか?」
「さあな。だけどお前はセントラ様そっくりだし、これまでだって何だかんだ望みは叶えてきただろう」
「自分の婚姻ともなれば話は別だ。一生の問題なんだぞ」
「貴族の婚姻ってのは得てして政略だろう?お前はこれまで一度も女に惚れたこともないんだ。それならセントラ様がお喜びになる婚姻をしたらいいじゃないか」
自分は一目惚れした相手をその場で口説いてすぐに婚約までとりつけた男がよく言ったもので。
責めるようにその赤い瞳を細めて睨めば、肩をすくめて溜息を吐いてから、押しとどめていた不満を爆発させるように詰り始めた。
「俺だっていい加減婚姻したいんだよ!わかってるか?リザはもう二十歳だぞ?世間じゃ立派な行き遅れだ!可哀そうだとは思わないのか?」
「主の婚姻に合わせるなんて古臭いしきたりなんて守る必要ないと父も許しているだろう。俺に構わずさっさと婚姻しろよ」
「アドム様が許しても親父が許さないってわかってるだろ」
「チェーニも大概頑固だからな」
当主であるアドムと後継であるロクトが許可したところで、ツェルもエリザベスもベスティエ家で働く忠実なる家人だ。主を差し置いて婚姻はできないだろう。
それについては申し訳ない気持ちはある。
「……別に独身主義という訳でもない。本気で惚れる女性が現れたらすぐに婚姻するさ」
「……期待はせずに待ってるよ」
ひとまずは、母推薦の公爵令嬢に会いに行ってみるとしよう。一体どんな問題があるのか見極めて、うまく嫌われなきゃならない。
まだ見ぬ未来の妻候補を迎えにゆくために向かうはカイマス。
そこで『奇跡』を目の当たりにすることは、彼はまだ知らないまま。