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37:辺境伯後継は名を呼びたい




 夕刻を告げる鐘が鳴り帰路につこうとしたその時、キャサリンに預けていた彼女が広場を振り返って駆け出した。


 何事か。素早く状況を確認すれば、彼女の視線の先の広場で妊婦らしき女性が何か叫びながら大きく手を振っていた。


 知り合いのようだ。それも、彼女が事情説明することもなく駆け出すほど大切な。


「“疾風”!」


 ロクトは風の魔法を行使してその背中を追いかけた。


 彼女は確かに一般的な貴族令嬢に比べて体力はある方だろう。口で言うだけでなく、五百段の階段を見事自身の足で往復して見せた。


 けれど、走るとなると話は別だ。走る事に慣れていない人間が急いで前に進みたいと頭で考えると、足を速く、大きく動かそうとする。しかし実際に動かさねばならないのは腕、腰などを含めた身体全体だ。その齟齬が少しずつ頭と身体の乖離を生み出し、彼女は間もなく足を縺れさせて転んでしまうことが予測される。


「っ……!!」


 予測通り転倒しかけ前のめりになった彼女の身体を後ろから抱きとめて横抱きにする。

 驚いたように己を見上げた眼鏡越しの彼女の瞳には涙が滲んで今にも溢れてしまいそうだった。


 心配で、胸が苦しくて、本当はこのまま連れ去って甘やかして。己の腕の中で泣いて欲しい。


 けれどわかっている。きっと、彼女はまだ、己の前では涙を流さない。

 これまでと同じように。泣きたいことなど何もないと微笑うだろう。


「広場の女性の所に行きたいのですね?」

「っ……はい!そうです!」

「わかりました。掴まってください。舌を噛まないように口を閉じていて」


 彼女の返事を待たずに再び駆け出して、広場で待っていた女性の前で彼女を降ろした。


「ロッティ……!」

「お嬢様!」


 女性が彼女に笑いかけると、彼女の瞳からついに涙がボロボロと零れ落ちた。


「泣かないでくださいよ」

「泣いているのはロッティの方だわ」


 泣いている自覚がないのか、強がりなのか。それでも涙はとめどなく溢れて彼女の頬を濡らし、細い顎を伝ってワンピースの大きな襟へと吸い込まれてゆく。


 女性は腕にかけていた籠を地面に降ろすと、両腕を大きく広げて微笑んだ。


「どうぞ!お嬢様の特等席、空いてますよ!」

「……だれの?」

「……ティア様のです!」


 『ティア』と呼ばれた彼女は堰を切ったように子供のような泣き声を上げ、女性の胸に飛び込んでいく。


 彼女には、真名が与えられていない。それは恐らく彼女にとって根底にある心の傷で、名の話題は彼女を含めて誰もが皆遠ざけてきた話題だ。


 彼女に気持ちが通じベスティエに嫁に来てくれれば絶対に母が真名を与えるだろうし、もし彼女が己を選ばなかったとしても、あの母なら名付けだけは譲らないとごねて相手方の家に直談判に行く光景すら目に浮かぶ。

 だからこそ彼女の真名の問題は、グランツ公爵が王都での調査を終えベスティエに来領してから改めて話し合おうと母から伝えてあるのだが。


 その話をした時も浮かない表情をしていた事もあり、名の話題については触れない方がいいと思っていた。けれど、それは間違いだったのかもしれない。


 聞けばよかった。真名でなくとも、貴女自身は何と呼ばれたいのかと。


「ぅぐっ……ひっく……ふっ……」


 『ティア』は、ロッティと呼ばれていた女性の胸にすがりつくように顔を埋めて嗚咽をこらえ、女性はその背をトントンとリズムよく叩き根気強く宥めている。


 震える細い背中を見ていると胸が痛くて張り裂けそうだ。


 その肩越しに女性と目が合って、一瞬こちらを探るような目で見られた気がする。彼女を『お嬢様』と呼ぶのなら、過去に彼女に仕えていた経験があるのだろう。

 彼女の育ってきた環境から考えればエーピオス男爵家の使用人である確率が一番高そうだ。もしそうなら王都から遠く離れたこの地で再会するとは。これも運命なのだろうか。


「……失礼。本日彼女のエスコートをさせていただいておりますロクト・ベスティエと申します。彼女が少し落ち着いたら、場所を移しませんか?ご婦人は懐妊中とお見受けしますし、どこかでゆっくり腰掛けて再会を祝しては?」

「ぅえ!?ベスティエってまさか……!りょ、領主様の!?どうしてティア様がっ!?わーっ!ティア様のお顔がひどいことに!あーあー、もう!ほら、これでお鼻チンしてください!」


 ロクトの正体に狼狽えつつ、僅かに顔を上げた彼女の赤く腫れた瞼を見た婦人は眼鏡を持ち上げてハンカチで目許を拭うと、そのまま彼女に渡して、自分の後ろに隠すようにしてロクトに向き直った。

 婦人の後ろから「ぐす……ぼう(もう)ぞんだでぃ(そんなに)子供じゃだいどでぃ(ないのに)……」と全体的に鼻濁音で聞き取りづらい可愛らしい声が聞こえてきた。


 キャサリンとエリザベスがスススと彼女の方に近寄って世話をしている。ちなみにツェルは待たせている馬車への言伝と帰城が遅れる旨の鳩を飛ばし、夕食がとれる店の確保に向かっているはずだ。


「えーと、お初にお目にかかります!リット・カー騎士爵が妻の、シャーロット・カーと申します!ベスティエ卿におかれましてはいつも旦那がお世話になっております!此度お会いできましたこと恐悦至極にござります!……あれ?ございまする?ござ……ござ?」

「っぷは!」


 リット・カー騎士爵は三年前に王都の市街警備隊からベスティエ魔物討伐軍に希望赴任してきた騎士で、今は母直属の調査部第二小隊の副隊長に就いている。剣の腕も立つし、何よりロクトが多用する風魔法は彼に師事したものだ。


 まさかこんな繋がりがあるとは。意外と世間は狭いものである。


「カー副隊長の奥方とは!彼には魔法を教わっていてね。世話になっているのはむしろ俺の方だ。気楽に話してもらって構わないよ」

「なんてお優しい!すみません、ありがとうございます!元々平民だったんで敬語とかそんなに得意じゃなくて……助かります!」


 そう言って夫人がぺこりと頭を下げて足元に置いた籠を持ちなおそうとしたので右手で制し、左手で持ち上げれば、「ベスティエ家のご令息に荷物を持たせるなんて!」と恐縮された為、「懐妊中のご婦人に荷物を持たせたりしたら両親に殴り飛ばされてしまう」と微笑んだ。


 夫人が頭を下げた際に彼女と侍女達の様子を確認したが、もう少しかかりそうだ。


「たしかカー副隊長は今大森林の調査拠点で駐屯中だったか……身重の夫人がいるのなら申請すれば遠征からは外れられるだろうに」

「えぇ。ありがたいことに軍にはそんな制度がありますからね!うちも妊娠が分かってすぐ申請して、旦那はしばらく家から通ってたんですよ!だけどあの人家に居るとずーっと口うるさくって!安定期に入ってからも重い物持つなとか走るなとか安静にしてろとか、そんなんじゃ家事も出来やしないでしょう?代わりにやってくれようともしたんですけど、あの人絶望的に家事が下手なのでむしろ私の仕事増えちゃって……最近森の方が騒がしいって噂は街まで届いてるし、人手なんていくらあっても困らないはすです。産まれるのは来月の予定だし、予定日までに帰ってきてくれればいいから遠征にでも行ってきたらって私から提案したんです」

「そんな心配性がよく夫人の側を離れる決意をしたな」


 己に置き換えて想像してみれば、片時も側を離れることなど出来そうもない。気が早いのは重々承知だ。


「まー色んな約束をさせられましたけどね!最終的には毎日報告を兼ねた手紙を送るってことで渋々同意を得ました。なんだかんだ言ってやっぱり旦那は騎士なので。森が騒がしい時に家でじっとしているのも辛いんですよ。彼が剣をとるのは民を守る為ですから」

「なるほど。確かにそうかもしれない」


 さすがはカー副隊長の妻。夫の事をよく理解しているし、騎士の妻としての覚悟も見事だ。


「……取り乱しまして、大変申し訳ございませんでした……」


 まだ少し鼻声の彼女が肩を小さく窄めて謝罪の礼をとった。ここが街の広場でなければまた跪きそうな落ち込み具合だ。

 俯いていてよく見えないけれど瞼の腫れは大分よくなっているように見える。ベスティエ家の侍女達の腕は確かなのだ。


「落ち着かれましたか?」

「はい……ロッティも、懐妊中だというのに長く立たせてしまってごめんなさい」

「大丈夫ですよ!このくらい長いうちに入りませんし、昔からティア様は私の胸でしか思い切り泣けませんでしたからね!」

「もう……また子供扱いして……」


 確かに、夫人の前の彼女の表情はいつもより幾分幼くあどけなく見える。普段年齢より大人びて見える彼女が年相応に見えて微笑ましい。


「ティア様」


 ロクトがそう口にすれば、彼女は重いはずの瞼を大きく見開いて息を呑んだ。


「……俺も、そうお呼びすることは許されますか?」

「……その名は、私の出生届に記された仮名の一部で……貴族子女の正式な真名とは認められておりません。ですので……」


 彼女は言葉にしづらそうに、ゆっくりと視線を落としてゆく。


「けれど、その名が。貴女を表す、貴女の大切な名なのでしょう?」

「っ……!」

「ここから教会までは二千ペスくらいありますよね?普通声ははっきりとは届きません。けれど、聞き馴染みのある言葉なら別です。そう、例えば……ご自身の名など」

「……っ、はい……もう二度と呼ばれる事はないと思っていた……私の、大切な……名です」

「ティア様……」


 再び泣き出してしまいそうに瞳を揺らしてどこか悲しそうに微笑んだ彼女の肩を、隣にいた夫人がぎゅっと抱いた。


「私は例えティア様が真名を授かったとしてもこっそり呼び続けますよ!いいじゃないですか!愛称なんですし!あ、そうだ!私一応貴族の端くれになったんですよ!今ならティア様に真名を授けることもできるんじゃないですか!?今もまだ真名を授かっていないならどうです!?私に命名させてもらえませんか!?」

「すまない、カー夫人。彼女の命名はうちの母が絶対に譲らないと思う」

「え!?ベスティエ卿のお母様というと……、へ、辺境伯夫人ってことですか!?」

「本当にありがたいことにね……そうお申し出いただいているの」

「え~!どうしてそんなことに!?ていうかティア様、どうしてベスティエに!?」

「きっと話すと長くなると思う。店の予約はとってあるから移動してからゆっくり話したらどうかな?」

「ご案内します」


 いつの間にか背後に控えていたツェルがロクトの持っていた籠を受け取り、夫人のエスコートをしながら歩きだした。


 ゆっくりとその後をついていこうとした彼女の手を取って、こちらを見上げた彼女に微笑んで見せる。


「……ロクト様」

「はい」

「もし、ロクト様がお嫌でなければ……二人の時は、ティアと……呼んでいただいてもよろしいでしょうか……?」

「嬉しいです。ティア」


 ロクトが満面の笑みで名を呼べば、敬称なく呼ばれるとは思っていなかっただろうティアは頬を染めて、それでもとても嬉しそうに顔を綻ばせた。




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