36:専属侍女はお嬢様を守りたい
眼鏡店を後にしたロクト様とお嬢様は、お嬢様に合わせたゆっくりとしたペースで教会に向かっていた。
お嬢様は、眼鏡を掛けたことによって目に映るものすべてが新鮮なのだろう。右に左にと忙しなく視線を巡らせながら、無意識に目的地と違う方向にフラフラと脚が向いてしまっている。
その度にロクト様がさり気なくお嬢様の進行方向を修正しつつ、けれどお嬢様が興味を示したものに対してはお嬢様の興味が次に移るまで急かすことなくゆっくりと進んでいっていた。
奥様の監視の目が離れた途端にお嬢様の御手を握って離さないのはどうしたものかと思っていたが、この完璧なエスコートの為であったなら仕方ないかもしれない。
「婚約者でもないくせにそんな風に手を握って街歩きするなんて!自分の立場を弁えたまえよ!」と言う奥様の幻聴が聞こえる気がするが、お嬢様が嫌がっていらっしゃるわけでもない。
それに。ペリヤに着いてからずっと、あのお二人は行き交う人々の視線を集め続けている。
中にはロクト様と気付き話し掛けてこようとする人もちらほらといたが、ロクト様はそれらを言葉なく制し、殊更にお嬢様を甘く見詰めて、二人の時間を邪魔してくれるな。と、一度も寄せ付けることはなかった。
けれどそれはロクト様に対してだけではもちろんない。その視線のうちの半分はお嬢様に向けられたものである。多くは純粋に美しいものに見とれるだけの害のないものだが、一定数邪な感情を孕んだ下卑た視線も存在した。
ロクト様はその視線からお嬢様を巧みに隠し、逆に射殺すような視線と呻り声が聞こえてきそうな不快感丸出しの表情で相手を威嚇して撃退していた。
良い仕事です、ロクト様。まるで番犬のようですね。などと思ったことは、決して口に出す事は出来ないが。
周囲からお二人が恋人同士だと思われることは都合がいい部分もあるので、あの距離の近さには目を瞑ろうと決めた。
普通に歩くより倍近くの時間をかけて教会通りに出たくらいで正午の鐘が鳴り、予約していたペリヤで一番人気の料理店に寄って昼食をとった。前に来た時よりも全体的に野菜が多く使われて彩りが増していた。喜ばしい事だ。
口に出すとお嬢様が恐縮されてしまうので控えるが、ベスティエに豊穣の恵みを齎してくださったお嬢様はまさに女神そのものなのである。
昼食を終え改めて教会に向かう道すがら、またしてもお嬢様はきらきらと瞳を輝かせながら色々な物に吸い寄せられて行った。どうやら本来のお嬢様は好奇心旺盛だったらしい。城では見られなかった様子なので微笑ましい。この可愛らしいご様子を奥様に報告したら大変羨ましがられそうだ。
お嬢様の好みをゆっくりと観察することが出来るこの時間は、ロクト様にとっても非常に有意義なものに違いない。
きっと眼鏡店でのお嬢様との会話がなければ、あの後も色々買い与えるおつもりだったのだろう。なのにあのように可愛らしく、貰ってばかりでは困ってしまうと抗議されれば、それ以上のプレゼントは今日のところは我慢するしかない。
今もお嬢様の視線を追いながら、次の機会に贈ったら喜んでもらえそうな物に目星を付けているようだ。
それはキャサリンにとっても同じことだった。これから永くお仕えする為にも、お嬢様のお好きなもの、苦手なものをひとつでも多く知ってゆきたいのだ。
……隣でロマンス劇を観覧しているかのように時々興奮状態になる同僚はあまり当てにはならなさそうだし。
「わぁ……!近くで見ると本当に立派な鐘塔ですね!」
教会の入口付近に到着し、聳え立つ石造りの鐘塔を仰ぎながらお嬢様は感嘆の声を上げた。
「外周に沿った螺旋状の階段で展望台に登れるようになってるんですよ。ほら、見えますか?今もあそこに登っている途中の二人組がいますね」
「はい、見えます!階段は何段くらいあるのですか?」
「展望台までは五百段ほどあります。鐘塔自体の高さで言うと二千七百ペスくらいですね」
「そんなに……!それなら確かにベスティエを一望できるはずですね!そこまで高い所に登るのは初めてです!」
「五百段の階段は中々強敵ですよ」
初めての体験に期待を膨らませるお嬢様に、ロクト様は少し意地悪そうな笑みで言う。
「こう見えても体力には自信があるのですよ!」
「おや?そうなのですか?こんなに細くていらっしゃるのに?」
「きゃあっ……!」
くわっと目を見開き全身の毛が逆立つ。
ロクト様が急にお嬢様を引き寄せ、太股と腰を支えて抱き上げたからだ。
まだ婚約者でもないお嬢様に対してなんてことを!
「ロクっもがっ……!」
「キャシーっ、私達は壁っ!空気っ!」
隣にいたはずのエリザベスに後ろから口を塞がれ耳元で囁かれる。いつもならエリザベスが止めに入るはずなのに!裏切者!
「ロ、ロクト様!降ろしてくださいっ!」
「ご自身の足で登るのが辛くなったらすぐに仰ってくださいね?このように抱き上げれば重力魔法で展望台まですぐにお連れ出来ますので」
「じ、自分の足で登りきりますし、例え途中で力尽きたとしてもっ、こん、こんな抱きっ、お戯れはおよしくださいっ!」
「はい、すみません。しかし先程の提案は本気なので、いつでもどうぞ!」
口を塞がれたまま耳元で、んはーっ!ひぇーっ!さいこーっ!と鼻息の荒いエリザベスがうるさい。完全に侍女としての役割を放棄した同僚の婚約者の方は一体何してるのかと目線で探せば、教会の入口で中の様子を確認しつつ、衆目に晒されて真っ赤に頬を染めたお嬢様を降ろして再びその手を取って満足気に歩き出すロクト様に呆れた視線を送っていた。
「もうっ、いきなりこんな人前でっ……」
「お声がけして二人きりならいいんですか?」
クスクスと笑いながら悪びれないロクト様を、ぷるぷると震えながら真っ赤なお顔で見上げ僅かに頬を膨らませるお嬢様は本当にお可愛らしい。反論したい事はあれど言葉に出来ないもどかしさ故の表情だろう。
要するに、お嬢様はロクト様の言う通り、抱き上げられた事自体はお嫌ではなかったということだ。
「ごめんなさい、少し意地悪でしたね。……礼拝に向かいましょうか」
お嬢様のあまりのいじらしさに流石に反省したのか、それともこれ以上お嬢様の可愛らしさに当てられたら正気でいられなくなると危惧したからか。未だ僅かに震えるお嬢様を教会の中へとエスコートした。
……前者ならいいけれど、ものすごく後者な気がする。
お昼も過ぎて教会の中に人の姿は疎らで、神々に祈りを捧げる祭壇にも並ぶ人はおらず、お二人は静かに祭壇に向かい、跪いて祈りを捧げられた。
その後ろで従者三人も揃ってお二人に倣い、跪き、祈る。
キャサリンは豊穣の女神デミルーへの感謝を捧げ、生命の女神ヴィータへお嬢様の瞳の完治を願い、運命の神ファートムに安寧を祈った。
神々は人々の前に御姿を現す事はない。祈りによって御力を蓄え、呪文によって助力を請うことで奇跡をお貸しくださる。それが魔法だ。
使い手と魔法の相性が良く使い慣れれば呪文の短縮は可能だが、祈りをおろそかにすれば効果は落ちる。教会じゃなくとも祈りは届くが、やはり教会の祭壇で捧げる祈りは少し特別に感じる。
普段の生活で頻繁に行使する魔法の属性を司る火と水と風の神にもそれぞれ日頃の感謝の祈りを捧げ、司祭にベスティエ辺境伯家とグランツ公爵家からの献金を預けてから教会を出た。
「さて、では登りましょうか」
「はい!……あ、でも。キャシーとリザは階段が大変なのではないかしら?」
「私は問題ありません。お供いたします」
「あー私は……確かに、足手まといになりそうです……」
侍女として仕える傍ら、戦闘訓練もこなし有事に備えているキャサリンにとっては五百段など朝飯前と言えるが、エリザベスにとってはそうではない。
普通の公爵令嬢であればお嬢様もそのはずだったが、数週間前まで下働きをなさっていたというお嬢様には、それなりの筋力がおありだ。
それが腹立たしくもあり、お嬢様がなさりたいことの助けになるなら喜ばしくもあり、複雑な気持ちだ。
「それならリザはここで待っていてくれる?実は、上から見た景色の中に知っている方がいたら手を振ってみたいと思っていたの!」
お嬢様は本当にお優しい方だ。そう無邪気に笑ってエリザベスに気を使わせないように振る舞っているのはエリザベスにも伝わっているはず。
「お嬢様……!はい、喜んで!」
「ありがとう!けれどリザを一人残していくのは心配ですね……」
「ではツェルを共に置いていきましょう。キャシーも残ってくれて構わないけど」
「まー!ありがとうございますロクト様!婚約者同士仲を深めろということではなく、お嬢様と二人きりになりたいだけなのはしっかり伝わってきますけど!」
「私は絶対にお嬢様のお側を離れません。お嬢様をロクト様と二人きりにするのは危険だと先ほどしっかり証明されましたし」
「はいはい。じゃあ俺がリザと残りますから、展望台の景色楽しんできてください。日暮れまでに帰城予定ですから夕刻の鐘が鳴る前には降りてきてくださいね」
「お嬢様!お気を付けて!」
「ええ、ありがとう!では行って参ります!」
体力には自信があるとおっしゃったお嬢様はお言葉通り、一度休憩は挟んだものの、五百段の階段を見事ご自身の足で登りきられた。
「わぁっ……!すごい……!」
登り切った先、展望台の正面には初秋の丘陵地帯と遠くてもはっきりと見えるベスティエ城とその城壁。その先に広がる大空と大森林を目にしたお嬢様は、疲れも見せることなく柵の方へと駆け出した。
「危ないですから、あまり乗り出しませんように」
「はい!」
ロクト様は景色に夢中のお嬢様のお腹に左手を回すと、柵から乗り出し過ぎないようさり気ない力加減で後ろから抱きしめて固定した。
その体勢はよろしいのですかお嬢様?ロクト様はろくに景色など見もせずに、飛ばされないように帽子を抑えながら風になびくお嬢様の髪を手に取り口付けなんて落としてますけれど?
「正面に見えるの、ベスティエ城ですよね!?その奥が大森林……!この高さから見ても果てが見えないなんて、なんて広いのっ……!あっ!あちらはカイマスですね!まだまだ作物は実っていますね……よかった……!あちらを流れるのがクレメン川で……」
お嬢様はベスティエにいらしてから読み込んだ頭の中の地図と目の前の景色を照らし合わせながら楽しそうに確認していき、別の方向から見ようと移動しかけたところで漸く、ご自身がロクト様に抱き込まれていることに気が付いた。
「す、すみません!私景色に夢中になってしまって……!」
「いいえ。俺が支えていますので、貴女は自由に景色をご堪能いただければ」
「いや、でも、近すぎて……あの、恥ずかしいので」
「誰も見ていませんから大丈夫です」
確かに周囲の見物客はお二人の様子を見て気を使って離れたり、帰って行ったりしましたけれどね。
己は見ていますよ。ロクト様の真後ろから、しっかりとね!
「キャシーは近くにいてくれているはずですし、もし見られていないとしてもっ、もう、心臓がもちませんっ!」
「俺もです。ほら、聞こえませんか?」
「え?あっ……本当ですね……すごく、ドキドキと……」
「お嬢様。リザの姿は見えましたか?」
「キャシー!あっ、そうね!リザ達見えるかしら!?教会の正面はあちら側ね!?」
慌ててロクト様から離れたお嬢様をゆったりとした足取りで追いながら、ロクト様はこちらを一瞥することもなく言う。
「……母上の監視のない今日くらい、邪魔しないでくれないか?君だって彼女に嫁いできて欲しいだろう」
「無理に迫って怖がられたらどうします。お嬢様はまだ十六の乙女ですよ。人付き合いしてきた経験も少なく恋愛も初めてでしょう。焦り過ぎないことです。お嬢様だって憎からず思っているご様子。ロクト様はお嬢様のペースに合わせることはお得意なのですから、追い詰め過ぎませんように」
「……確かに、今日でそれなりに距離は縮まったか……本当はキスしたかったんだが」
「何をおっしゃいます!!ロクト様は婚約者でもないのですから!!御立場をお考えくださいませ!!」
くわっと目を見開きいつもの奥様の台詞で窘めれば、ロクト様は心底面倒だという顔をしてため息を吐いた。
「ロクト様!キャシー!小さすぎてよく見えないけれど、あれがリザとツェルでしょうか!?」
柵から下を覗き込んでいたお嬢様がこちらに振り返って呼ぶ。
「どうでしょう。俺もよく見えないので識別眼で視てみましょうか」
そう言ってロクト様は眼鏡を外して識別眼を発動した。お嬢様の為ならばこんな事にも識別眼を使うことを厭わないらしい。
対象が遠いと余計な情報が頭に流れ込んで大変なのだと奥様がおっしゃっていたはずだけれど。
「こんなに距離があっても識別出来るのですか?」
「ええ。物質を隔てず裸眼で見えれば、データは解析出来るので。ああ、貴女の予想通り、あれがリザとツェルですね」
「まぁ!そうなのですね!二人からは私達が見えるかしら」
お嬢様は下に向かって大きく手を振って、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねたが、下から見えるかどうかは怪しい。人影くらいは見えるかもしれないが。
「では下に降りたら二人にこちらが見えたかどうか聞いてみましょうか。今から階段を降り始めれば、降りきった頃には夕刻の鐘が鳴りそうです。もしまだ見たいものがあるなら抱いて降りることもできるのでゆっくりしても大丈夫ですが」
「いいえっ!降りますっ!すぐにっ!」
きびきびと螺旋階段に向かって歩き出したお嬢様にロクト様はクスリと微笑んで、すぐに後を追ってエスコートの手を差し出した。
お嬢様は今日の朝よりもスムーズにその手にご自身の手のひらを乗せる。その表情は嬉しそうに自然な微笑みを返していた。
なるほど。たしかに今日一日でお二人の距離は縮まったと言えるだろう。
しかし、事件は起こった。
残り百段ほどの所で、お嬢様の足に疲れが顕著に現れ始めた。下りの方が足への負担が大きいのだし、当然だろう。
後ろから声をおかけしようと思った、その時。
「きゃっ……!」
「おっと、危な……っ!!」
本日三度目になる、くわっと目が見開かれた。
「お嬢様!!」
「んっ……」
「むっ……」
お嬢様の一段半下をエスコートしながら降っていたロクト様に、足を縺れさせたお嬢様が倒れ込みそうになり、ロクト様は落ちかかったお嬢様を正面で抱きとめ身体を支えた。
その拍子に。お二人の唇が、くっついていた。ずるりと鼻梁を滑ったお嬢様の眼鏡がロクト様の眼鏡に当たって、カツンと音を立てる。
そんなこと、ある!?偶然にしては出来過ぎていない!?むしろロクト様、眼鏡と鼻がぶつからないようにお嬢様の唇迎えにいかなかった!?あの一瞬で!?見間違い!?
「きゃーっ!!」
下方から嬉しそうな叫び声が飛んできた。今はちょうど教会の入口側を降りている最中だ。お二人の事故の瞬間をばっちりと目撃したエリザベスの喜びの喚声に間違いない。
「もっ、申し訳ありませんっ!」
我に返ったお嬢様が慌てて身体を離して、右の手の甲で唇を押さえた。
「……いえ、お怪我はありませんか?」
冷静を装っているが、ロクト様もそれなりに動揺しているのか顔を赤らめて視線を泳がせている。
「ありませんがっ……今、私……っ、唇がっ……」
「……事故ですから、どうかお気になさいませんよう」
口ではそう言っても、そんな風に満面の笑みでお嬢様を見詰めればロクト様がお喜びなのはあからさまである。
「でもっ、本当に私の方からロクト様に口付けしてしまうなんてっ……」
「ん?本当に?」
「……眼鏡店のマダムに、ロクト様に喜んでいただきたいなら、私の方からく、口付けをと……けれど、そんなはしたないことをするつもりなどなかったのです!」
「ああ、なるほど。それは確かに次はマールムパイを手土産に持って行かないとな」
「……幻滅したのでは?」
「どうして?たとえ事故でも貴女とキス出来るなら嬉しいですよ。それが故意なら尚更ですが」
「してくれます?」とお嬢様の腰に手を回し顎に指をかけ小首を傾げるロクト様に「しませんっ!」と即答して頭ごと反らせたお嬢様の肩を後ろからお支えして、ロクト様の不埒な手を叩き落として睨みつける。
「お嬢様、危険ですからここから先は私と共に降りましょう。魔力をお渡しいたしますので、おみ足を回復なさってください」
「あ、ありがとう……本当に、助かったわ……」
半ば涙目で見上げてくるお嬢様を抱きしめ、もう一度ロクト様を睨み付けてから、お嬢様の脚の治癒を手伝って残りの階段を降った。
お嬢様のエスコート役を奪ったというのに、背後から付いてくるロクト様は終始ご機嫌で鼻歌まじりだった。
「おかえりなさいませ!」
「ただいま」
先ほどの事故を目撃されている為、少し気まずそうなお嬢様をエリザベスは明るい笑顔で迎えた。
「時間ギリギリでしたね」
ツェルがそう言って塔の上を仰ぐと、先程までいた展望台のさらに上に設置されてる鐘が大きな音で夕刻を告げる。
ビュウと強い風が吹く。
「あっ!帽子が……!」
お嬢様の帽子が風に舞った。
「“風よ”」
ロクト様が短縮呪文で風を操れば、帽子はゆらりゆらりとお嬢様の元へ戻ってくる。
お嬢様が帽子に両手を伸ばす。
「…………」
「すみません、ありがとうございます」
「どういたしまして」
お嬢様が帽子を捕まえて、被りなおす。
「帰りの馬車は西門に呼んでありますから、帰りましょう」
ツェルとエリザベスが先導して、来た道とは逆の方に進もうとした。その時。
「…………ぁっ!!」
「ぇ……?」
お嬢様が小さく声を上げて振り返った。
きょろきょろと視線を巡らせる。
「お嬢様どうなさいました?」
「今、私を呼ぶ声が聞こえた気がして……」
「お嬢様を……?」
真名のないお嬢様を、どうやって?
「……っ!!ロッティっ……!!」
突然、お嬢様の瞳に涙が浮かんだ。と、思ったら。
「ロッティーっ!!」
お嬢様は誰かの名を呼びながら走り出した。
お嬢様の見ている方向には、お腹の大きな暗めの茶髪の女性が大きく手を振っている。
お嬢様の意図を汲んだロクト様は再び風を操り疾走してお嬢様に追い付くと、お嬢様を横抱きにしてあっという間に妊婦の女性の元へと駆けて行った。
ツェルの姿は既にない。恐らく影走りの特質魔法で先回りしているのだろう。夕方は特に影が長い為、ツェルの能力が一番活かされる時間帯でもある。
エリザベスはと言うと。
「はぁ~~~!お姫様抱っこ!!」
「……見惚れていないで、行くわよ」
「はわぁ~~~!供給過多!!」
まったく使い物にならないエリザベスの腕を掴んで歩き出す。
聞かなくてはならない。彼女が誰で、お嬢様にとっての何なのか。そして、お嬢様を何と呼んだのか。
何と呼べば、普段は完璧な淑女たるお嬢様にあのような表情をさせて、駆け出させられるのか。
向かう先で、ロクト様に降ろされたお嬢様が女性にすがりつくように抱きついて泣くのが見えた。
お嬢様が、子供みたいに声を上げて泣いている。
「……お嬢様、あんな風に泣くんだね……」
「……っ」
主の初めて見せたその姿に、気付けば侍女たちも涙を流していた。




